第98話 魔法陣の暗号化
魔導暖房器具が完成して数日。
離宮の研究室では、完成した第一号機を前に、三人が研究記録の整理を進めていた。
机の上には、積み重ねられた羊皮紙。
火属性妖精誘導理論。
風属性妖精誘導理論。
魔導暖房器具の設計図。
そして、幾度もの失敗と改良の跡が残る研究記録。
それらは、世界で初めて人工魔法石を生み出した証であり、人類の魔法学を大きく前進させた軌跡でもあった。
ミアは嬉しそうに羊皮紙を見つめる。
「これだけあれば、誰でも魔導暖房器具を作れるようになりますね」
その言葉に、クロエの手が止まった。
静かな沈黙が流れる。
「……いや」
低く、落ち着いた声だった。
「それは、まだ早い」
ミアは不思議そうに首を傾げる。
「クロエ様?」
クロエは一枚の設計図を静かに持ち上げた。
「妖精誘導理論は、人を救うための理論じゃ」
「じゃが同時に、一歩使い方を誤れば、とてつもなく危険な理論にもなり得る」
エルンストも静かに頷く。
「魔王因子か」
「ああ」
クロエは苦い表情を浮かべた。
「永久に魔粒子を誘導し続ければ、魔素は際限なく集まり続ける」
「人々の暮らしを豊かにすることもできれば、不老不死を求める術へと変わる可能性すらある」
研究室が静まり返る。
ミアは完成した暖房器具へ視線を落とした。
同じ知識。
同じ理論。
それでも使う者の心一つで、希望にも災厄にもなり得る。
その時だった。
『えっ?』
リリが小さく目を丸くする。
『私たちの教えたことが、そんな怖いことにも使えるの?』
アルも難しい顔で腕を組んだ。
『人間って、本当にいろんなこと考えるんだな……』
二人の声を聞いたミアは、小さく胸を痛める。
「リリたちも驚いています」
「人を助けるための力なのに、悪いことへ使われるかもしれないなんて考えてもいなかったみたいです」
クロエは優しく微笑んだ。
「妖精に罪はない」
「知識そのものにも善悪はない」
「それをどう使うかは、人の心次第じゃ」
リリは少し安心したように笑う。
『そっか』
『じゃあ、ちゃんと優しい人に使ってほしいな』
ミアも静かに頷いた。
「はい」
「私もそう思います」
しばらく考え込んでいたエルンストが、静かに口を開いた。
「魔法陣を暗号化しよう」
クロエは頷く。
「それがよかろう」
ミアは驚いたように二人を見る。
「暗号化……ですか?」
クロエは新しい羊皮紙を広げながら説明した。
「魔法陣の暗号化は、魔法学では古くから用いられてきた技術じゃ」
「研究成果を盗まれぬため」
「魔導具を模造されぬため」
「そして、危険な術式を安易に再現させぬためにな」
ミアは納得したように頷く。
「つまり、鍵を掛けるんですね」
「そうじゃ」
クロエは穏やかに微笑んだ。
「知識を失わせるのではない」
「正しい者だけが辿り着けるよう、道を整えるのじゃ」
三人は新たな作業へ取り掛かった。
魔法陣をそのまま記録するのではない。
複数の術式へ分割し。
順序を入れ替え。
理論を理解した者だけが完成形へ辿り着けるよう再構築していく。
ミアは感心したように呟いた。
「これでは、設計図を見ただけでは完成させられませんね」
「ああ」
エルンストが静かに答える。
「理論を理解していなければ意味を成さない」
クロエは最後の羊皮紙へ封印印を描き、静かに筆を置いた。
「これでよい」
「完成した魔導暖房器具は誰でも使える」
「しかし、その核心である妖精誘導理論だけは、限られた者しか辿り着けぬ」
ミアは封印された研究記録を見つめる。
少しだけ寂しさもあった。
だが、それ以上に安心感があった。
知識を隠すためではない。
未来へ正しく受け継ぐため。
人々を守るため。
その責任もまた、知識を生み出した者の務めだった。
クロエは静かに研究記録を閉じる。
「知識とは力じゃ」
「そして、力には責任が伴う」
エルンストも静かに頷く。
「人を救う知識だからこそ、守らなければならない」
ミアは二人を見つめ、力強く頷いた。
「はい」
「この知識は、未来の人たちの幸せのために残します」
『約束だね!』
リリが笑顔で羽を羽ばたかせる。
『きっと、みんなが暖かく暮らせる世界になるよ!』
アルも力強く頷いた。
『そのために俺たちも手伝ったんだからな!』
もちろん、その姿も声もミア以外には見えない。
ミアは小さく微笑み、心の中でそっと応えた。
(うん。ありがとう)
夕日が研究室へ差し込む。
封印された研究記録は、黄金色の光を受けて静かに輝いていた。
それは知識を閉ざすための封印ではない。
未来を守り、その先の世代へ正しく受け継ぐために託された、一つの約束。
三人が刻んだその約束は、やがて帝国の未来を支える礎となっていくのであった。




