『動くべき時』
ベルニエ家の執務室は、今日も変わらなかった。
磨かれた机。必要なものだけが置かれた棚。壁際にはいくつかの魔石加工品が並んでいるが、それも装飾のためではない。試作品や、今後の検討に必要なものが置かれているだけだ。窓の外では、工房から立ち上る煙が薄く空へ伸びている。炉の音、石を削る音、荷を運ぶ車輪の音。この街では当たり前になったそれらを聞きながら、ロラン・ベルニエは手元の書類を順番に処理していた。
加工量。品質。新たに上がった不具合。他家との取引。必要な箇所だけに目を通し、判断し、次へ送る。若くしてベルニエ家を預かるようになってから、その繰り返しだった。
「以上です」
机の前に立っていた書記が最後の一枚を置く。
「……失礼」
ロランはそれを見て、手を止めた。通常の業務報告とは、紙のまとめ方が少し違う。
「こちらもありました」
「そうか」
受け取る。
特別な報告書や諜報、調査でもなかった。
ベルニエ家は魔石加工の大家である。この国で使われる魔石製品の相当数に、直接であれ間接であれ関わっている。職人、商人、貴族、各地の取引先。人と物が動けば、情報もまた動く。
娯楽の少ない世の中でもある。誰それがどこへ行った。誰と誰が会った。どこそこの令嬢が夜会へ出た。そんな話は商品より軽く、馬車より速く、人から人へ渡っていく。
ロランはその全てを集めさせているわけではない。そんな無駄なことに人手も己の時間も割く気もなかった。ただ以前から、一つだけ伝えてある。
ルミエ・ヴァロワに関する話が自然に入ったならば、自分のところまで回せ、と。
それだけだった。
「王都か」
書類へ目を落とす。
目新しい情報ばかりではない。ルミエ・ヴァロワが王立ヴァルテール学園にいる。相談室を任されている。それはすでに知っていた。リシャール家とクラリス家が関わり、商家の令嬢であるルミエを王都の学園へ招いたことも。
(リシャール家、か)
少しだけ、指が止まった。
ベルニエの地を訪れた、あの男を思い出す。アルヴェール・リシャール。笑っている。よく喋る。貴族であるが人当たりも悪くない。しかし、何をどこまで考えているのかが見えにくいし見せる気もない。
ロラン自身、頭の悪い人間ではないからこそ、ああいう相手は好まなかった。分からないから嫌う、というほど幼稚ではない。ただ、こちらが相手を測っているのと同じように、向こうもまたこちらを測っていることだけは分かる。
そして、ルミエとリシャール家が接点を持ったのも、ここベルニエだった。
(……目ざといな)
評価としては、それが近い。
気に入らないという感情が先に出かけて、ロランは一度それを切った。判断そのものは悪くない。むしろ優れた結果が出ている。
王立ヴァルテール学園は、この国の有力者たちの子が集まる場所だ。貴族だけではない。官僚や有力商家、組織を継ぐ者たち。何年か、十何年か先には、その多くが国を動かす側へ回る。
そこへルミエを置く。
つまり、若い商家の令嬢であっても、必要ならば相応しい場所へ置く。王都の有力者たちが、その判断を受け入れた。
(そこは認めよう)
ロランは紙をめくる。
相談室の利用は続いており、大きな混乱はないようだ。特定の者が毎日のように押しかけることもなく、生徒間の小さな衝突が収まったという話や、以前より落ち着いた者がいるという話がぽつぽつと届いている。
そこまではいい。むしろ、想定の範囲だった。ルミエ・ヴァロワなら、その程度はやる。
問題は別にある。
ロランは椅子の背へわずかに体重を預けた。
(結局、同じだ)
相談室という名前をつけた。場所を決めた。対象を学園の中へ限定した。
だが、それだけだ。
以前までルミエが『調整役』として行っていたことを、王立学園という小さな枠の中へ移したにすぎない。誰かが困ればルミエへ持っていく。揉め事があればルミエに話を聞かせる。本人が関われば、不思議なほど話が進む。
それは制度ではない。
制度らしい形を与えられただけの、個人依存だ。
(彼女がいなくなれば、終わる)
病に伏せても。別の場所へ移っても。ヴァロワ家の都合で王都を離れても。いずれ結婚して環境が変わることがあっても。そもそも、相談室という体制も永久に続けるつもりはないはずだ。
つまり、ルミエ・ヴァロワという一人の人間を前提にしている限り、何一つ解決していない。
ロランは、それが嫌いだった。
優れた職人がいるとしよう。その者にしか作れないものがある。それは素晴らしい。そこまでは認める。しかし、そこで止まる道理も理屈もない。
それならばその技術を調べればよい。工程を分け、記録し、何が再現でき、何が再現できないのかを見極める。
完全に同じものが作れないとしても、十のうち六を他者が担えるなら、それだけで価値がある。八まで届くならなおいい。
一人の才能に敬意を払うことと、一人の才能へ全てを預けることは違う。ベルニエ家は、そうやって魔石加工を進歩させてきた。優れた技術を一人の技として終わらせず、誰もが使えるものへしていく。それこそが加工技術を発展させてきた
(人であっても同じことだ)
少なくとも、ロランはそう考えている。
ルミエの行動には何かがある。本人がどこまで自覚しているかは分からない。人を見ること。話を聞くこと。必要なところで口を挟み、必要でなければ黙ること。場にいる人間を不快にさせず、それでいて何も決められないまま終わらせもしない。
ベルニエに滞在していた時もそうだった。職人たち、使用人、町人、そして自分。相手が変わっても、彼女は自然にそこへ馴染んでいた。
原理はまだ分からない。だが、仮説はいくつもある。仮説が立ったのなら、次は確かめればいい。
分からないから放置する、という発想はロランにはなかった。分からないなら観察すればいい。記録すればいい。比較すればいい。再現できる部分と、できない部分を切り分ければいい。
最初から全てを理解する必要などない。
(あれは、もっと仕組みにできる)
以前から考えていたことだった。
学園の相談室について聞いた時も、その考えは変わらなかった。むしろ強くなった。
リシャール家もクラリス家も、ルミエの価値には気づいている。だが使い方が違う。彼らは、ルミエが活躍できる場所を用意した。相応しい者を相応しい場所へ。そこまでは理解できるが、ロランが考えているのは、その先だった。
ルミエがいなくても、ある程度まで回る形。彼女にしかできないことを少しずつ減らし、他者が担える部分を増やしていく。それで最後に残るものが本当に彼女にしかできないのなら、そこだけを任せればいい。
それこそが、一人の人間を無秩序に使い潰さず、その価値を長く社会へ残す方法だ。個人に依存したものは、その個人が失われれば共に消える。
(なぜ、それをやらない)
答えは簡単だった。
やろうとする者がいない。正確には、まだそこまで考えている者がいない。
ロランは再び報告へ目を戻した。
最近は学園の話だけではない。王都での交友も広がっているらしい。貴族家の子息や令嬢たちと親しくしている。いくつかの有力家とも繋がりが生まれている。その中に、クラリス家の名があるのは今さら驚かない。
そして。
「……第二王子?」
思わず声に出た。
書記はまだ部屋にいた。
「はい。夜会で一曲踊った、と」
「確かなのか」
「踊ったこと自体は、複数から同じ話が入っております。そのほかについては……」
そこで少し言い淀む。
ロランは片手を上げた。
「いらん」
「はい」
踊った。それだけ分かれば十分だった。
そこから先にどんな噂がついているかなど、今は価値がない。王子が特定の令嬢と踊ったからといって、それだけで何かが決まるわけでもない。社交の場ならば、十分にあり得る。
ただし。
(そういう位置まで行った、か)
その事実にロランは目を細めた。
商家の娘。地方を中心に活動していた調整役。以前なら、それだけだった。今は王立学園に席があり、有力貴族たちと交わり、夜会に出れば第二王子と踊る。
本人が望んだかどうかは知らないが、おそらく、あの女のことだ。自ら地位を求めて動いたとは考えにくい。
それでも周囲が放っておかない。
ベルニエでもそうだった。特別なことをしたようには見えないのに、人は彼女を覚えている。職人たちの間に、彼女が口にした言葉が残った。使用人たちにも妙に好かれていた。
そこまで考えて、ロランは一度思考を止める。
(……俺も?)
違和感を覚えたわけではない。ただ、少しだけ確認したくなった。
ベルニエにいた頃のルミエは、自分に敵対的ではなかった。それどころか滞在が続くにつれ、最初の頃よりも話し方に気安さが出ていたように思う。
他愛のない話もした。ベルニエの茶を気に入ったとも言っていた。こちらが仕事の話をすれば付き合い、考えを聞けば返し、時にはロランの考えそのものを肯定することもあった。
少なくとも、嫌われてはいない。
一定の信頼は得ている。
そう判断するのが妥当だった。
(ならば、なおさら急ぐ必要はない)
焦って本人へ話を持っていく必要はない。ルミエはまだ十五歳だ。何よりヴァロワ家の娘である。
本人の将来に関わる話を、父親であり当主でもあるフランソワを飛ばして進めるなど筋が通らない。
ロランは合理を重んじる。同時に、道理も軽視していなかった。正しい結果を得られるなら手段は何でもいい、とは考えていない。少なくとも、必要のない無礼を働く理由はない。
(まずはフランソワ・ヴァロワだ)
以前から何度も会ったその姿を思い出す。穏やかな男で賢明だ。ヴァロワの当主としては申し分ないだろう。しかし、こちらとは考え方が違う。
ベルニエ家とヴァロワ家。
加工と流通。
本来ならば、今より密接であっていい。ベルニエが作り、ヴァロワが流す。互いが持つ情報を共有し、需要と供給をより早く合わせれば無駄は減る。新しい魔石用品の普及も早くなるだろう。
にもかかわらず、ヴァロワは一定以上近づこうとしない。それは先代から続く姿勢でもあり、フランソワもまた維持している。
ヴァロワ家は安定を重んじる家系であるし、両家が密接になりすぎれば、魔石の加工と流通という二つの大きな部分を握ることになる。独占。支配。外から見れば、そのような懸念が生じる。
分からなくはない。
だが。
(だからいつまでも距離を置き続ける、というのも違う)
危険があるなら、危険を抑える方法を作ればいい。関係を持たないことでしか防げないのならば、それは仕組みとして未熟というだけだ。
適切な枠を設け、互いの役割を明確にし、監視が必要なら監視を置けばいい。利用できるものを、危険だからという理由だけで遠ざけ続ける。
ロランには、そちらの方が無駄に見えた。
そして両家の次代を考えるならば、いつまでも今と同じ距離でいる必要もない。
フランソワの次。
確か、息子がいる。
レオン・ヴァロワ。
まだ若い。以前の魔石規格の件では、任せられる段階ではないと見ていた。だが、いずれヴァロワを継ぐ可能性が高い。
(どんな子供なのか、現状を一度見ておくべきだな)
父親と同じ穏健な人間か。あるいは違うのか。商人としてどの程度育っているのか。ベルニエ家をどう見ているのか。まだ子どもだが片鱗くらいはそこから見える。
今すぐ何かを決める必要はない。だが、次代の相手を知っておくことに損はない。
そして、その先へ思考が移る。
レオンがヴァロワ家を継ぐのであれば、ルミエは家督からさらに自由になる。もともと長女ではあるが、後継ではない。あれほどの能力を持ちながら、家そのものへ縛りつけておく理由も薄い。
ベルニエとヴァロワが、今より強く手を組む。
その方法はいくつもある。
共同で何かを進めてもいい。継続的な協議の場を作ってもいい。互いの人員を行き来させる方法もある。
そして。
婚姻。
そこまで考えても、ロランの表情は変わらなかった。
何も特別な話ではない。家と家の関係を長く固定する方法として、古くから使われている。自分は男。ルミエは女。双方とも、将来的に婚姻が不可能となる事情は、今のところ聞いていない。
ならば選択肢には入る。
それだけの話だ。
(もっとも別に、それでなければならない理由もない)
他の方法で同じ利益が得られるなら、それでもいい。
そう考える。
それで思考は終わるはずだった。
だが、書類へ戻しかけた目が、わずかに止まった。
王都。
夜会。
第二王子。
一曲踊った。
「……」
ロランは紙を裏返す。
情報としての価値は、もうない。王族とヴァロワ家の娘が親交を持とうと、それだけならベルニエ家が口を挟む話ではない。
分かっている。
ただ。
(選択肢を減らされるのは、合理的ではないな)
そう結論づける。
自分が何も決めないうちに状況が変わる。それを嫌うのは当然だ。まして相手が第二王子ともなれば、状況が動いてからこちらの都合で修正できる相手ではない。
ロランは椅子から立ち上がり、窓辺まで歩いた。眼下には工房が広がっている。石を削る者、検査する者、運ぶ者。一つの魔石製品が出来上がるまでに、多くの人間が関わる。
かつては優れた職人だけが知っていた技術も、今では工程として残っているものがある。誰か一人がいなくなれば全て失われる。そんな状態を、ベルニエ家は一つずつ減らしてきた。
ルミエ・ヴァロワも同じだ。
本人を軽視するわけではない。むしろ逆。
価値があるからこそ、一人の人間の中だけで終わらせるべきではない。
彼女がしていることを理解する。再現できるところを探す。仕組みにする。その先に、今より良い形がある。
ロランにはそう思えた。
いや。
そうなるはずだった。
(そろそろ、動くべきだな)
学園へ行く必要はない。少なくとも、まだ。
ルミエ本人へ会いに行くのも違う。
まず見るべきは、ヴァロワ家が何を考えているかだ。父親として、当主として、フランソワ・ヴァロワが娘の現在をどう見ているのか。今後、どこへ進ませるつもりなのか。
自分の考えを全て話す必要はないと同時に、ある程度は明かしていい頃合いだろう。
ルミエをただ各所から求められるまま働かせ続けることが、本当に適切なのか。個人の能力へ依存し続けることに危険はないのか。そして、ヴァロワ家はベルニエとの関係を、この先も今の距離に留めるつもりなのか。
話せば分かる。
少なくとも、フランソワは話の通じない男ではない。同意するなら、それでいい。反対するなら、その理由を知ればいい。
判断材料が増える。
どちらに転んでも無駄にはならない。
「おい」
ロランが呼ぶと、控えていた書記が顔を上げた。
「はい」
「予定を確認しろ」
「どちらの?」
ロランは机へ戻り、先ほどの報告書を閉じた。
「ヴァロワ家だ」
書記がわずかに目を瞬かせる。
以前にも取引や協議はある。訪問そのものが異例というわけではない。ただ、今すぐ必要になる大きな案件があっただろうかと考えたのだろう。
「フランソワ・ヴァロワ様へ、でよろしいでしょうか」
「ああ」
「ご用件は?」
ロランは一瞬だけ考えた。
魔石規格の話ではない。新たな取引でもない。かといって、書面に書けるほど具体的な提案が出来上がっているわけでもなかった。
「今後の両家について、少し話がしたいと伝えろ」
「承知いたしました」
書記が一礼する。
扉へ向かう背中を見ながら、ロランは付け加えた。
「それと」
書記が振り返る。
「先方の都合がつくなら、レオン殿にも挨拶をしておきたい」
「子息のレオン様ですね」
「ああ。いずれ当主になる可能性が高い。顔も知らないままというのはよくない」
「かしこまりました」
今度こそ扉が閉じ、静けさが戻った。
ロランは椅子へ腰を下ろす。机の端には、先ほど閉じたルミエの報告が残っている。
学園。
相談室。
貴族。
王都。
第二王子。
少し前まで地方で『調整役』と呼ばれていた少女は、いつの間にか随分と遠くまで歩いていた。本人が、どこまでそれを望んでいるのかは分からない。
だが。
(待つ理由も、もうない)
道筋はまだ完成していない。
だからこそ、作る。
それが自分の役目だと、ロランは疑っていなかった。
まずは、父親から。
ロラン・ベルニエは次の書類を手に取った。決めるべきことは決めた。
ならば後は、動くだけだった。




