『問題はない』
王都の教会本部。その奥に設けられた討議室では、その日もいくつもの議題が扱われていた。
地方教会から上げられた報告、教義の解釈、各地で起きた問題への対応。
教会はこの国だけに根を張る組織ではない。創造主にして、この世界の安寧と人の善き発展を願う神を奉じ、その教えを守る者たちは国境を越えて存在している。
人が生まれれば祝福し、病めば祈り、結ばれれば見届け、死ねば送る。そうして長い年月の中で積み重ねられた記録は膨大だった。
だから、ルミエ・ヴァロワという一人の少女だけを追い続けてきたわけではない。
彼女もまた、数多く存在する案件の一つにすぎない。
ただし、何年も前から一度も閉じられていない案件だった。
「では、次」
進行を務める聖職者が手元の書類を入れ替える。
その動作に特別な重さはない。少なくとも表面上は、先ほどまで扱われていた別の議題と何も変わらなかった。
「ルミエ・ヴァロワ。十五歳。ヴァロワ家長女」
その名前に、円卓を囲む何人かが顔を上げた。
知らない者はいない。
何年も前、まだ幼かった少女を、この教会へ招いたことがある。
幼少期の触礼において、反応するはずの浄界石が沈黙した。その異常について長い検討を重ねた末、教会はもう一度本人を招き、再度、教会本部に安置された、ひときわ大きな浄界石へ触れさせた。
結果は同じ。
……何も、起きなかった。
そこで教会が行ったのが『認定』だった。
聖女であるとも、魔なる者であるとも決めなかった。神意を受ける者とも、その逆とも定めていない。ただ、浄界石がルミエ・ヴァロワに対して通常の反応を示さない。
その事実だけをただ『認めた』。
認定以来、教会は彼女を観測対象から外していない。
「王立ヴァルテール学園より、新たな状況が確認されています」
書記が読み上げる。
ルミエ・ヴァロワが学園で相談役として活動していること、相談室が一定の利用を受けていることはとうに把握している。そして最近では、相談室の外でも、生徒同士の小さな問題へ関わる例が出始めていることまで確認されていた。
その一方で、特定の生徒が彼女へ恒常的に依存する様子はなく、相談を受けた者の一部には、その後むしろ自分で意見を述べたり、対立した相手と話し合ったりする変化が現れているという。
「教師側からの評価は?」
「良好です。生徒側も同様。現時点で、彼女の関与によって悪化したと確認できる事例はありません」
一人の司祭が資料へ目を落とした。
「悪化していない、ではなく……改善している?」
「そのように受け取れる例が複数あります」
室内は静かだった。
驚くほどの報告ではない。
認定以来、教会は似たような記録を何度も受け取ってきた。
正確に言えば、ルミエ本人を追い回していたわけではない。そんなことをする必要がないのだから。
教会はあまりにも広い。
都市にも地方にも、人が暮らす場所にはその根があり葉があり、人々の生活と長い時間を共にする。ルミエが商家に関われば商人たちの口から伝わり、学校に関われば教師や保護者を通じて話が入り、貴族や王都へ活動範囲を広げれば、別の経路からまた名前が届く。
そうして上がってきた報告の中から、彼女に関係するものだけを拾い、照合し、記録してきた。
認定以降、本人へ積極的に接触したことはほとんどない。
定期的な面談も、聞き取りも行わなかった。
少女自身が自分をどう説明するかではなく、彼女が通り過ぎた後に、周囲に何が残ったのかを見る。
結果として、それが教会にとって最も純粋な観測方法になっていた。
「以前の懸念については?」
年嵩の司祭が尋ねた。
書記は別の資料を取り出す。
「人々が判断をルミエ・ヴァロワへ委ね、自ら考えることを避けるようになる可能性について、ですね」
「そうだ」
「現状、その傾向が強まっているとは言い難いかと。相談室への来訪者はいますが、同じ者が繰り返し判断を求め続けている様子はありません。むしろ相談後、自ら行動するようになった例が報告されています」
「ならば、以前の懸念は杞憂だったのでは?」
別の聖職者の問いに、すぐ答える者はいなかった。
やがて最年長の司教が口を開く。
「彼女を必要としなくなった、ということか」
「……そのように見ることもできます」
「だが、変化は残っている」
短い沈黙が落ちた。
相談室へ行く。
話す。
戻る。
その後はルミエがいなくても、自分で考えて動く。
それ自体は、何一つ悪いことではない。
「善き変化ではないのか」
その言葉を否定する者はいなかった。
教会が奉じる神は、人がより善く生きることを願う。
自ら考え、他者をいたずらに傷つけず、過ちがあれば認め、必要な時には自分の意志を示す。そのように変わった者を前にして、教会がそれを悪と呼ぶ理由はない。
「問題はありません」
書記が事実として言う。
その言葉に、数名がわずかに視線を動かした。
『問題はない』。
この案件について、何度繰り返された言葉だろうか。
「過去の記録も改めて確認しましょう」
進行役の言葉に認定から現在までの資料が開かれる。
地方で暮らしていた頃の記録。
学校。
商家との関わり。
調整役としての活動。
貴族社会への接触。
ベルニエ家への逗留。
王都。
そして現在の王立学園の相談室。
教会が彼女の一日一日を全て知っているわけではない。それでも何年にもわたって積み上がった資料は、一人の人間の傾向を見るには十分な量になりつつあった。
「まず、聖女である可能性」
「否」
答えは早い。
これは以前と同じだ。変わらずに奇跡を起こした記録はなく、神意を語ったこともない。教義を説くことも、自身への信仰を求めることもなかった。信徒として特別に敬虔だという報告すらない。
「では、魔なる者」
今度は少しだけ間が空いた。
「確認できず」
悪しきものに反応する浄界石が沈黙した。
それは教会自身が確認した事実であり動かしがたい根拠だった。
その後も、人心を惑わせて破滅へ導いた記録や、故意に争いを生み出した形跡はない。誰かを傷つけて利益を得たことも確認されていない。
ヴァロワ家に好意を持つ家が増えたことは事実だったが、ルミエ自身がそれを利用した様子もない。
政治的な野心についても同じだった。
彼女は派閥を作らない。支持を求めない。特定の勢力へ肩入れせず、王族との接触さえ自らの地位を高めるために使った形跡はなかった。
仮説を立てるたび、それを裏付けるものが見つからない。
一つずつ消えていく。
やがて一人の司祭が、小さく息を吐いた。
「では、単純に非常に善良で、非常に聡明な少女なのではありませんか」
安易ではある。同時に自然な答えだった。
むしろ、それ以外に何があるのか。
しかし最年長の司教は、すぐには頷かなかった。
「それで、すべて説明できるだろうか」
「と、申しますと?」
「善良な者はいる。聡明な者もいる。人に好かれ、人の話を聞き、争いを収めることに長けた者もいるだろう」
司教は手元の資料を指先で押さえた。
「だが、この娘は幼い頃から現在まで、これだけ異なる立場の者と関わりながら、我々が拾えた範囲では一度も決定的な破綻を起こしていない」
誰も答えない。
「もちろん、観測できていないだけかもしれない。我々は神ではない。知らぬ場所で誰かを傷つけたことも、感情に任せて失言したこともあるかもしれない」
その前提を置いた上で、司教は続ける。
「それでも、少なすぎる」
何年にもわたり。
商人とも。
子供とも。
教師とも。
貴族とも。
使用人とも。
同年代の少年少女とも。
王族とも接している。
これほど相手を変えれば、普通はどこかに相性が出る。
誰かには好かれ、誰かには嫌われる。
ある場所では美点だった性格が、別の場所では欠点にもなる。
それが人間だった。
「人物評を」
司教が言う。
書記が報告書をめくった。
「穏やかで慎み深い。毅然としており、同年代とは思えないほど堂々としている。親しみやすく、話しやすい一方で、必要以上には踏み込まない」
そこで一度言葉を切り、別の報告へ移る。
「気持ちを否定せず聞いてくれた。間違っていることについては曖昧にせず指摘してくれた。年齢以上の落ち着きがある。しかし、年相応の柔らかさも感じられた」
読み終える。どれもこれも素晴らしい評判だろう。ただし。
一人の司祭が眉を寄せる。
「……随分と違う人物に聞こえる」
どれも、一人の人間の中にあっておかしくはない。
ただ、それらが必要とされた場面で、必要とされた形のまま現れている。
「そうだ」
穏やかでありながら毅然としている。
近しいのに、踏み込みすぎない。
肯定しながら、必要なら否定する。
それだけなら、人間の多面性として説明できる。
実際、教会は一件ずつ状況と照合していた。
そして。
「矛盾はありませんでした」
書記が答える。
「それぞれの場面において、証言された振る舞いは不自然ではありません」
まただった。
事実だけ、字面だけ見ると不自然に見える。
調べると説明できる。できてしまう。
一つ一つは、すべて人間としてあり得る範囲に戻ってくる。
「ならば、やはり相当に人を見ることに長けているのでしょう」
「その可能性は高い」
否定されない。
否定する証拠がない。
「演技では?」
誰かの問い、それも過去に何度か出た仮説だった。
しかし、凄まじい意思を持って何年も演技を続けているのならば、普通はその先に目的がある。
名誉を得たい。
権力を持ちたい。
家を栄えさせたい。
人に慕われたい。
自分の思想を広めたい。
何か。
ところがルミエには、その目的が見えてこない。
すでに相応の名声があるにもかかわらず、それを広げようとする様子はなく、人を自分の周囲へ集めることもない。何らかの思想を説いた記録すらなく、そもそも彼女が他者へ広めようとしている主張そのものが確認できなかった。
「……何のために?」
若い司祭が思わず口にした。
何のために、そこまで相手へ合わせるのか。
何のために、そこまで適切な振る舞いを続けるのか。
誰も答えない。
しばらくして、一人の老司祭が静かに言った。
「何のためでもないのではないか」
何人かがそちらを見る。
「目的そのものがないと?」
「少なくとも、我々の記録からはそう見える」
奇妙な答えだった。
悪人なら欲望がある。
善行を重ねる者にも、信仰や使命、信念があることは多い。
だが、ルミエ・ヴァロワにはその中心が見えない。
ここで初めて、討議室の中に言葉にしづらいものが残った。
それでも教会は、そこで想像によって空白を埋めなかった。
分からないものを、分かったことにしてはいけない。
それもまた、この組織が長い年月を生き延びてきた理由の一つだった。
「本人へ再度聞き取りを行うという手もあります」
若い者の提案。しかし、司教はゆっくり首を振った。
「必要性がない」
「ですが……」
「彼女自身の説明を聞けば、彼女が自分をどう認識しているかは分かるかもしれない。だが、我々が今確認したいのは、彼女の自己評価ではない」
司教は資料を見る。
「何をしたか。そして、その後に何が起きたかだ」
本人へ接触しない。
それは警戒からではなかった。
ただ、長い観測を続ける中で、結果としてそれが最も良い方法になっていた。
ここでルミエ本人を見た者は、今では一部しか残っていない。
現在、討議に参加する多くの者は、彼女の声を知らない。
どのように笑うのかも。
どんな目で相手を見るのかも。
会話をした時に、どんな感覚を抱くのかも知らない。
彼らが知っているのは記録だけだった。
だからこそ、少なくともこの場では、ルミエ・ヴァロワという少女への個人的な好悪を排して考えることができる。
その記録が示す結論は、今のところ一つしかなかった。
「……問題を示す事実はありません」
書記が言った。
学園は以前より落ち着いている。
彼女が関わった者は、自分で判断できなくなるどころか、むしろ以前より自分の意志を持つようになっている。
調整役として関わった場所でも、対立が悪化した記録はない。
ルミエ自身も、そこから不当な利益を得ていない。
「以前、我々は人々が彼女へ判断を委ねることを警戒した」
最年長の司教が静かに言った。
「はい」
「だが、少なくとも現在の学園では、そうなっていない」
「そのようです」
「彼女へ聞かずとも、自分で考えるようになっている」
「はい」
司教はそこで黙った。
しばらくして。
「それは、教育と何が違う?」
誰かが口にした。
良い教師に出会って変わる。
親から受けた言葉を覚えている。
友人に救われ、それ以降の人生で考え方が変わる。
一冊の本によって価値観を改める者さえいる。
人は、人から影響を受ける。
それ自体を異常とするなら、人間社会そのものが成立しない。
ルミエだけを特別に危険視する根拠は何なのか。
誰も答えられなかった。
やがて進行役が手元の用紙へ視線を落とす。
「現時点の判断を確認します」
筆が走る。
ルミエ・ヴァロワ本人について、悪しき行為は確認されず。
聖女として扱う根拠なし。
魔なる存在として扱う根拠なし。
本人および周囲に対して、教会が何らかの処置を行うべき害も確認されず。
「問題なし」
短い結論だった。
認定以来の観測。
各地からの報告。
教義との照合。
数え切れないほど繰り返された討議。
その結果が、また同じ場所へ戻ってきた。
「ただし」
進行役は続ける。
「過去の認定は維持。今後も、通常の教会活動の中でルミエ・ヴァロワに関する事象が確認された場合、記録を継続。必要に応じて本部へ報告すること」
「期限は?」
若い聖職者が尋ねた。
進行役は少し考えた。
「定める必要はないでしょう」
異論は出なかった。
教会は急がない。
数年で答えが出なければ、その先。
十年経っても分からないのなら、さらにその先。
ルミエが十五歳であることも、いずれ成人し、歳を重ねることも、結論を急ぐ理由にはならない。
彼女が生涯にわたって一度も悪しきを為さないのなら、その生涯を見ればいい。
そして必要なら、その後も。
一人の人間がいなくなった後、残されたものがどう変わっていくのか。
教会には、それを見るだけの時間がある。
討議は、それで終わるはずだった。
だが、誰もすぐには次の資料へ手を伸ばさなかった。
最年長の司教が、認定以来続く記録へ視線を落としている。
一件ずつなら説明できる。
彼女は善良なのだろう。
聡明なのだろう。
人を見ることに長けているのだろう。
相手に応じて振る舞いを変えられる、稀有な少女なのだろう。
どれも成立する。
それなのに、これまでの記録を一つに重ねると、どうしても何かが残る。
破綻がなく……ただただ、完璧だった。
目的も見えない。
害もない。
ただ、人だけが変わっていく。
「……現時点において、何ら問題はない」
司教が小さく言った。
誰かが頷く。
「はい。ありません」
それが、現在の教会に出せる最も正確な答えだった。
司教はもう一度、資料へ目を落とした。
そして、誰に尋ねるでもなく呟く。
「ならば……」
ほんの少し間があった。
「アレは、なんなのだ」
答える者はいなかった。
答えがない以上、問いは消えない。
書記はしばらく迷った後、その一文まで記録へ加えた。
次回へ持ち越すために。




