『少しだけ』
昼休みの鐘が鳴る少し前から、ルミエは本を閉じる準備をしていた。
今日の午前は比較的静かだった。相談室への来訪者も一人だけで、その相談も思いのほか早く終わった。読みかけだった本も思っていたより進み、残りはあと数頁ほどしかない。
悪くない。むしろ、かなり良い午前だった。
(今日は早めに食べに行けそう)
当然だが、昼時になると食堂は人が増える。少し早く向かえば落ち着いて食べられるし、午後の予定までにも余裕ができる。
ルミエは本へ栞を挟んで立ち上がり、扉を開けて廊下へ出た。食堂まではそれほど遠くない。今日は何があるだろう、そんなことを考えながら歩き始めて、まだそれほど進んでいないところで。
「ヴァロワ嬢」
呼ばれた。
(あ)
足を止める。
声をかけてきたのは、以前から相談室の運用を気にかけている年配の教師だった。その隣には二人の生徒が立っており、一人は不満そうで、もう一人は困っていた。
あまり良い組み合わせには見えない。
(ご飯……)
もちろん、その感想が表へ出ることはなかった。
振り返ったルミエの表情には、呼び止められたことへの不快感など欠片もない。声をかけた教師へ向けられるのは、話を聞く準備が最初からできていたような穏やかな微笑みだった。
「はい。先生」
「昼休みに申し訳ありません。少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
少しだけ。
その言葉に、ルミエは二人の生徒を見る。片方は手元の紙を握っており、もう片方も何か言いたそうだった。
(……少しで終わるかな)
「はい、もちろんです。私でよろしければ」
その返事を聞いて、教師の表情がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます。実は、この二人が共同で提出する資料について少し行き違いがありまして」
教師が説明する。
二人には共同で進めている課題があり、内容そのものには大きな問題はない。だが途中から役割の分担が曖昧になり、片方に作業が偏り始めたらしい。教師が介入して分担を決め直すこともできるが、その前に一度本人たちで話させた方がよい。そう判断したところで、ちょうどルミエが通りかかった。
「なるほど」
ルミエの口から、自然に言葉が落ちる。
(先生が決めた方が早い気もするけど)
そう思ったところで、二人の生徒がこちらを見ていた。視線が集まると、もう身体の方が先に反応していた。
ルミエは二人の真正面に立つのではなく、どちらからも同じ程度の距離になる位置で足を止める。教師を完全に会話の外へ置くこともなく、けれど教師に答えを求める形にもならない。
「何があったのか、お二人から順番に伺ってもよろしいでしょうか」
声は静かだった。責める響きもなく、先に答えた方を正しいと判断するような急かし方もない。
不満そうだった生徒が、一瞬だけ相手を見た。
「では、私からでも?」
「はい。お願いします」
ルミエが微笑むとその生徒は紙を持ち直す。
「最初は、半分ずつ進めるつもりだったのです。ただ、途中からこの子に『あなたがまとめた方が早い』と言われることが増えて……気づけば、ほとんど私が書いていました」
「そうだったのですね」
「別に、作業をすること自体が嫌なのではありません」
そこまで言って、生徒は少し黙る。ルミエは何も言わず、相手の生徒も口を挟まなかった。
「ただ……何も聞かれずに、『これもお願い』『こちらもお願い』と渡されるのが、だんだん嫌になったのです」
その声には、最初にあった棘が少し減っていた。
ルミエの視線が、もう一人へ向く。
「あなたは、どう思われていたのですか」
「私は……」
今度はそちらが困ったように眉を下げる。
「頼っているつもりでした」
「頼っている」
「はい。私よりずっとまとめるのがお上手なので。それに、頼むといつも引き受けてくださったから」
不満そうだった生徒が少しだけ目を伏せる。
「断るほどではなかったからです」
「……そうだったの?」
「ええ」
「私は、任せてもらった方が嬉しいのだと思っていました」
「嬉しくないわけではありません」
また少し間が空いた。
ルミエは静かに二人を見ていた。内心では、
(あれ、もう終わりそう)
そう思っている。
先ほどまで何が問題だったのか、正直なところよく分かっていなかった。作業が多いなら減らせばいい。渡しすぎたなら謝ればいい。それで済むように思える。
この程度なら、ルミエにもごく普通の解決策くらいは思いつく。けれど、口から出たのは別の言葉だった。
「頼られることと、任せきりにされることは、同じではないのかもしれませんね。それに、引き受けてくださったことと、それを望んでいらしたことも、同じとは限りません」
二人が同時にルミエを見る。
柔らかな声だった。誰かを責める言葉ではない。だからこそ、頼んでいた側の生徒はすぐに視線を落とした。
「……そうですね。聞けばよかったのですね」
「私も、嫌なら嫌だと言えばよかったのだと思います」
そして、ルミエの口がそっと付け加えた。
「でも、全部が嫌だったわけではないのでしょう?」
そこで二人は初めて、ルミエではなく互いを見た。
「……はい」
「……では、どこまでならお願いしていい?」
話が始まる。
この部分は自分が得意だから担当する。こちらは二人で確認する。最後の整理は一人でやるが、その前に必要な内容をもう一人が用意する。
先ほどまで教師が決め直そうとしていた役割が、本人たちの言葉で少しずつ決まっていった。
ルミエはそれを聞き、途中で何かを言うこともあった。だが本人には、なぜその言葉を選んだのかはいつもどおり分からない。二人が止まれば口が何かを返し、片方の表情が固くなれば声の調子が少し変わり、どちらかが言葉を飲み込めば、その続きを話してもよいと思えるだけの間と微笑みが生まれる。
そうしているうちに。
「では、それでやってみましょう」
「ええ」
終わった。
教師が小さく息を吐く。
「まとまりましたね」
「はい」
二人の生徒がルミエへ向き直る。
「ありがとうございます、ヴァロワ様」
「助かりました」
「いいえ。私は何もしておりません。お二人で決められたことですよ」
その言葉に、二人は少し嬉しそうにし、教師も満足そうに頷いた。
ルミエの表情にも、二人が自分たちで答えを見つけたことを心から喜んでいるような笑みが浮かぶ。
(終わった、かな)
ルミエの意識は、かなり早い段階ですでに昼食へ戻りつつあった。
けれど見た目には、最後まで二人の話を大切に受け止めた少女にしか見えない。
「では、失礼いたします」
生徒たちが去っていきルミエも教師へ軽く礼をする。
「それでは、私も」
「ヴァロワ嬢」
また呼ばれた。
(まだ何かあるの?)
「ありがとうございました。助かりました」
「いいえ」
それならよかったとばかりに、ルミエの表情は相変わらず穏やかだった。
「お役に立てたのでしたら何よりです」
教師はその言葉を聞き、改めて小さく頭を下げる。
「昼休みに申し訳ありませんでした」
「お気になさらないでください」
(まあ、まだ空いているだろうし)
ルミエは今度こそ歩き出した。
少し遅くなっただけだ。食堂へ向かう者は増えているだろうが、まだ座れないほどではないはず。
そう思いながら廊下を曲がる。
「ルミエ様」
今度は生徒だった。
ルミエの足が止まる。
(……また?)
そこにいた少女は、少し申し訳なさそうに両手を重ねていた。
「今、お時間よろしいでしょうか」
ルミエは相手を見る。
「ええ、もちろんです。どうかなさいましたか?」
声は、さきほど教師へ返した時よりも少し柔らかかった。目の前の少女は、その声を聞いただけでわずかに肩の力を抜く。
「本当に少しだけなのですが」
(みんな少しだけって言うなぁ)
もちろん口には出ない。
「ええ。伺います」
「実は、昨日友人と少し言い合いになりまして」
話を聞く。
本当に些細なことだった。一緒に進めていた作業について相手のやり方に口を出した。言い方が強かった。相手も言い返した。そのまま別れた。今日になって、謝った方がいいとは思っている。ただ、自分だけが悪かったことにされるのは納得できない。
なんだか、つい数分前まで似たような話を聞いた。このくらいの歳の生徒たちの悩みなんて大体こんな感じなのだろうか。
少女はそこまで一気に話して、ルミエを見る。
「私から謝ったら、私が全部悪かったと認めることになるのでしょうか」
(ならないんじゃないかな)
ルミエはそう思った。
だが、口はもっと丁寧に動いた。
「謝ることと、ご自分の考えを取り下げることは、同じでしょうか」
その問いに少女が瞬きをする。
「……違う、と思います」
「では、何について謝りたいのですか?」
「言い方です」
今度は早かった。
「言い方が悪かったのです。考えそのものを変えたいわけではなくて」
「そうなのですね」
「……あ」
少女の顔が少し変わった。
「それなら、それをそのまま言えばいいのでしょうか」
「きっと、その方が伝わりやすいと思います」
ルミエの微笑みに少女はしばらく考えたあと、大きく息を吐いた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
「何だか、聞いていただいたら簡単なことだった気がします」
「そういうこともあります」
(……それなら、最初からそう考えられたら早いんだけどなぁ)
今は仕事中ではないのだ。とはいえ、表情は変わらない。
少女はすっきりした顔で去っていった。
ルミエはその背中を見送ってから廊下を見る。さっきより人が増えている。
(……今度こそ行こう)
歩き始める。
今度は誰にも声をかけられなかった。食堂が見えてくる。
よし。
そう思ったところで。
「ヴァロワ嬢」
(嘘でしょ)
今度は別の教師だった。
けれど教師はルミエの前まで来ると、手にしていた紙を見せながら言う。
「すみません、午後の予定の確認だけです」
(よかった)
本当に確認だけだった。二言三言で終わる。
「ありがとうございます」
「はい」
教師が離れる。
ルミエは少しだけ安心した。
今日は妙によく呼び止められる。それだけだ。相談室を始めてから顔を覚えられた者が増えたからだろうか。
(有名になりたいわけじゃないんだけどな)
思ったところで、それ以上考えることはなかった。そういえば、昔はよく周囲に振り回されたものだ。
食堂に入ると、アニエスがすでに待っていた。ルミエを見るなり、わずかに眉を下げる。
「遅かったですね」
「ええ。途中で何度か呼び止められてしまって」
「存じております」
ルミエは椅子へ座りながら瞬きをした。
「知っていたの?」
「はい」
「そう」
何をどうやってそれを知ったかは不明だが、ともかくそれなら説明する必要もなさそうだ。
目の前には昼食が用意されている。まだ温かい。
(よかった)
一番最初に思ったのは、それだった。
アニエスはそんなルミエを見ながら、少しだけ息を吐いた。
「最近、こうしたことが増えておりますね」
「そうかしら」
「以前よりは」
言われてみれば、そうかもしれない。
廊下で声をかけられる。相談室以外でも話を聞かれる。教師から少しだけ頼まれる。
以前は毎回、相談室へ来るか、正式に依頼されるかしていた気がする。
今は。
「少しだけよろしいですか」
それで始まることが増えた。
(まあ、本当に少しならいいんだけど)
今日も一つ一つは短かった。最初の二人もそれほど時間はかからなかったし、次の少女も数分程度だろう。最後の教師に至っては、本当に予定を確認しただけだ。
大したことではない。
ルミエは食事へ手を伸ばした。
「午後は?」
「相談室の予定が一件ございます。その後は、現時点では空いております」
「本当に?」
「はい」
少し嬉しくなる。とはいえ、約束はなくてもいつでも来てよいという建付けなのが相談室だ。どこまで忙しくなるかはわからない。
「では、午前の本を読み終えられそうね」
「そうですね」
食事が始まった。
ルミエにとっては、それで今日の昼休みの出来事はほとんど終わっていた。
少し前。
ルミエが食堂へ向かったあと、廊下には先ほどの年配教師と別の教師が残っていた。二人の生徒が自分たちで役割を決め、去っていった場所だ。
「助かりましたね」
若い方の教師が言う。
「ええ。思っていたより早くまとまりました」
「最初からヴァロワ嬢にお願いすればよかったでしょうか」
冗談めいた言葉だった。
だが年配の教師は、すぐには笑わなかった。
以前なら、その言葉にもっとはっきり警戒したかもしれない。
便利だから使う。効果があるから呼ぶ。それではいけない。
そう考えていた。
今も、その考え自体が間違っているとは思っていない。
「頼りすぎるのは、よくありません」
「そうですね」
「本来、我々教師の本分ですから」
若い教師も素直に頷く。
年配の教師は少し考えてから続けた。
「ただ……今回は、彼女が答えを出したわけではありません。本人たちが話しただけです」
「ええ」
実際、その通りだった。
ルミエは分担を決めていない。どちらが正しいとも言っていない。教師ならこうしろと指示を出せた場面で、あえて答えを与えず、二人が自分で話せるようにした。
結果として、生徒たちは教師に決められた時より納得している。
「ですが、我々が間に入るより良かったかもしれませんね」
若い教師の言葉に年配の教師はしばらく考えた。
「……そうですね」
否定する理由がなかった。
ルミエへ負担をかけた時間も長くない。本人も嫌そうには見えなかったし、生徒たちにも良い結果だった。むしろあの少女は人の役に立てると本当に嬉しそうにするくらいだ。
「もちろん、本当に必要な時だけですが」
年配の教師は付け加える。
「ええ。少しだけ、ですね」
若い教師が笑い、年配の教師も今度は小さく笑った。
「少しだけです」
二人はそれぞれの仕事へ戻っていく。
以前なら慎重に検討していた一つの選択肢が、いつの間にか、ごく自然な選択肢の一つになっていた。
けれど、それによって困っている者は誰もいないのだから。
生徒は納得していた。教師は助かっていた。ルミエも昼食に間に合った。
だから、その日の学園には何の問題もなかった。
そして午後。
相談室の扉が、予定どおり一度だけ叩かれた。




