『良い変化』
イザベルが最初に気づいたのは、自分が口を挟む回数が減っていることだった。
もちろん、王立ヴァルテール学園で大きな問題が頻発していたわけではない。
ここへ通う者の多くは幼い頃から家に相応しい振る舞いを教えられており、人前で声を荒らげることが望ましくないことくらい知っているし、気に入らない相手がいたからといって、その場で好き勝手に振る舞えるわけでもない。
だが、知っていることと、常にできることは違う。
まだ若く、自分が何者になるのかも決まりきっていない。それでいて家の名や周囲からの期待はすでに背負っている。
家同士の関係や成績、友人、将来。誰と親しく、誰に認められ、誰より優れているのか。些細な一言が気に障ることもあれば、相手には何の悪意もないのに、その言葉へ勝手に意味を見つけてしまうこともある。
そうした小さな行き違いを、イザベルは昔から好まなかった。立場のある者の振る舞いとして相応しくないとすら思っていた。
放っておけばよいものもあるが、小さな不満が別の不満を呼び、本人たちの間だけでは済まなくなることもある。家を背負う者同士なら、なおさらだった。だから必要なら口を挟み、順番を示し、礼を守らせる。今話すべきではないのなら一度離れさせ、後にするよう促す。
それが自分の役割だと自負していた。
ところが最近、その程度のことをする機会が減っている。
その日もそうだった。
授業を終えたイザベルが廊下へ出ると、少し先で二人の令嬢が話していた。珍しい組み合わせではないが、片方の表情には明らかな不満が残っている。授業の中で、もう一方の発言を教師が高く評価したらしい。
以前にも似たようなことはあった。その時は翌日になっても棘のある言葉が残っていたと記憶している。
今回もそうなるだろうか。
そう思って見ていると、不満そうだった令嬢が一度息を吐いた。
「……悔しいですけれど」
向かいにいる少女が、少し困ったような顔をする。
「ええ」
「今回については、貴女の方が分かりやすかったと思います」
相手が瞬きをした。言った本人も、まだ完全に納得したわけではないらしく、口元にはわずかな不満が残っている。
「次は負けませんから」
「ええ。私も負けるつもりはありません」
二人は顔を見合わせ、そのまま別の話を始めた。
仲良く肩を組んだわけでもなければ、急に互いを称え始めたわけでもない。片方はまだ悔しそうだったし、もう片方にも譲るつもりはなさそうだった。ただ、そこで終わった。
イザベルは少しだけ足を緩め、その二人が何事もなかったように話し続ける姿を眺めた。
(……珍しいわね)
悔しいなら、悔しいままでいい。だからといって、相手の成果まで否定する必要はない。
考えてみれば当たり前のことだ。
それでも、感情が先に立てば、その当たり前が難しくなる。
二人が廊下の先へ去るのを見届ける必要もなく、イザベルもそのまま歩き出した。今回は注意する必要がなかった。ただそれだけのことだが、似たようなことは、その後も何度かあった。
数日後、授業の中で何人かに意見を求められる場面があった。
教師の問いかけに順番に意見が出されていき、その中に一人、イザベルの知っている少女がいた。
決して考えていないわけではない。むしろ彼女はよく考える。ただ、考えすぎるのだ。他人の話を聞き、自分の中で順序を作り、言葉を選び、そうしているうちに話題が次へ進んでしまう。
以前はよく見た光景だった。
教師の視線が彼女へ向く。
少女は一瞬だけ黙った。
いつもなら、そのまま「皆様と同じです」とでも言って終わっていただろう。
だが、その日は違った。
「私は、少し違うと思います」
教室の何人かが少女を見る。
本人もその視線に気づいたらしく、少しだけ肩に力が入った。それでも黙ることはなく、前に出た意見とは異なる考えを、途中で言葉を探しながらも最後まで口にした。
教師は急かさなかった。
「……その方が、後から役割を変えずに済むと思います」
言い切ると、教室の中にほんの短い沈黙が落ちた。
それから教師が頷く。
「なるほど。それも一つの考え方ですね」
少女の肩からわずかに力が抜けた。
別の生徒が手を上げる。
「でも、それでは最初の確認に時間がかかるのでは?」
「はい。ですから――」
今度は先ほどより早く返事をした。
賛成されただけではない。反対もされた。それでも少女は黙らず、自分の考えを説明し、相手の意見にも耳を傾けている。
イザベルは、そのやり取りを眺めていた。
何か特別なことが起きたわけではない。
授業で生徒が自分の意見を言った。ただそれだけだ。
だが以前の彼女なら、最初の一言すら口にできなかっただろう。
授業を終えたあと、少女は隣の生徒と話していた。
「珍しかったですね。あんなにはっきり仰るなんて」
そう言われ、少女は少し恥ずかしそうに笑った。
「私もそう思います」
「何かあったのですか?」
「いいえ。ただ……」
少女は少し考える。
「間違っていたら、その時に考え直せばいいのかな、と」
「それだけですか?」
「それだけです」
本人にも、それ以上の説明はないらしい。
二人は次の授業について話しながら去っていった。
イザベルはその後ろ姿をしばらく見てから、自分も次の場所へ向かった。
また別の日には、廊下の端で二人の少女が立ち止まっていた。
「今日は先に戻っていて」
片方が言う。
「どうかしたの?」
「少し一人で本を読みたいの。昨日から続きを読めていなくて」
相手は少しだけ寂しそうな顔をした。
言った側もそれに気づいたのだろう。しかし慌てて弁解を重ねたり、やはり一緒に行くと言い直したりはしなかった。
「夕食には行くわ」
「本当?」
「ええ。その頃には読み終わっていると思うから」
「分かった。では、先に行っていますね」
「ありがとう」
二人はそこで別れた。
片方は廊下の先へ、もう片方は本を抱え直して反対側へ歩いていく。
喧嘩ではない。
嫌いになったわけでもない。
ただ、その日は一人でいたかった。
そして、それを言えた。相手も受け入れた。
イザベルはその光景を見ながら、以前ならどうだっただろうと考える。
誘いを断れば嫌われるかもしれない。断られれば、自分を嫌っているのかもしれない。そんな小さな不安から必要のない気遣いが重なり、それが別の不満になることは珍しくない。
けれど、今の二人にはそれがなかった。
少なくとも、イザベルにはそう見えた。
(悪くないわね)
むしろ、良い。
どれも小さなことだった。
学園の決まりが変わったわけでもなければ、新しい規律が設けられたわけでもない。誰かが生徒たちを集めて正しい振る舞いについて説いたわけでもなかった。
なのに、少しずつ。本当に少しずつ。
以前なら余計な摩擦になっていたものが、その手前で止まることが増えている。
不満がなくなったわけではないし、競争心も嫉妬もある。一人になりたい日もあれば、誰かと一緒にいたい日もある。それでも以前より、感情をそのまま相手へぶつける者が減り、自分の意見を持つことと他人を否定することを分けられる者も増えた。
少なくとも、イザベルにはそう感じられた。
不思議なことだった。
だが、悪いことではない。
ある日の午後、廊下を歩いていると、以前相談室について言葉を交わした教師とすれ違った。挨拶を交わしたあと、教師の方から足を止める。
「最近、少し学園の雰囲気が変わりましたね」
イザベルも足を止めた。
「先生も、そうお感じになりますか」
「ええ。以前より、こちらが間へ入る前に収まることが増えました。もちろん、全員というわけではありませんが」
「それは当然でしょう。人が集まる以上、何も起きないということはありません」
「そうですね」
教師が苦笑する。
「ただ、良い傾向ではあります」
「はい」
イザベルも同意した。
良い傾向。
その表現に違和感はなかった。
そこで、ふと一つの言葉を思い出す。
戻るための場所。
以前、相談室でルミエが口にした言葉だ。
あの部屋に留まり続けるのではない。少し落ち着いたら、教室へ、寮へ、友人のところへ、家族のもとへ戻っていく。
止まり木のような場所。
当時のイザベルは、その答えを高く評価した。
相談室が生徒に必要とされること自体は悪くない。ただし、何かを決めるたびにルミエを訪ねるようになれば、それは別の問題になる。自分で考えず、ルミエの答えだけを求めるようになれば、学園にとって健全とは言い難い。
だから確認した。
そしてルミエは、留まる場所ではないと答えた。
今、実際に生徒たちは戻っている。
教室へ。
友人のところへ。
自分の生活へ。
相談室の前に人が溜まり続けることもなく、一度訪れたからといって、翌日も、その翌日も、同じ者が答えを求めて通い続けている様子もない。むしろ以前より、自分で判断する者が増えているようにさえ見える。
イザベルは小さく息を吐いた。
「ヴァロワ嬢の相談室も、今のところ問題はなさそうですね」
教師が何気なく言った。
イザベルは教師を見る。
「そうですね」
「始まった頃は、少し心配していました」
「依存、でしょうか」
「ええ」
教師は頷いた。
「彼女は、人の話を聞くのが上手すぎるのではないかと。あの若さで様々な年齢、立場の人々の間に立ち、調整役として活躍していると聞いていました。そして、年頃の生徒は、自分より明確な答えを持つ者に頼りたくなることがあります。彼女のような人物が相手なら、なおさらでしょう」
その表現に、イザベルはわずかに目を細めた。
上手すぎる。
確かにそうだ。
「ですが、今のところはそうなっていない」
「そのようですね」
教師は周囲へ視線を向ける。
ちょうど何人かの生徒が笑いながら廊下を歩いていくところだった。その中にルミエはいない。誰も相談室へ向かっているわけでもなく、それぞれ次の場所へ向かっているだけだ。
「自分で考えるために使われているのなら、悪いことではありません」
教師はそう言ってから、少し間を置いた。
「急ぎすぎなければ、ですが」
以前にも似た言葉を聞いたような気がする。
イザベルは頷いた。
「ええ。私もそう思います」
そこで話は終わった。
教師は仕事へ戻り、イザベルも歩き出す。その足取りは、先ほどよりほんの少しだけ軽かった。
そう、自分の評価は間違っていなかった。
ルミエは生徒たちを自分のもとへ留めようとしていない。答えを押しつけてもいない。むしろ、自分で考えられる状態にしてから元の場所へ返している。
相談室という制度だけではない。
考えてみれば、普段からそうなのかもしれない。
ルミエと話した者が、そのまま彼女の周囲へ集まり続けるわけではない。
話して、笑って、何かを持ち帰り、そして自分の場所へ戻っていく。
その繰り返し。
(……やはり)
胸の奥に、馴染みのある感覚が広がった。
正しい場所へ物が収まった時のような安心。
ルミエ・ヴァロワは、やはり自分が思っていたような人なのだ。
相手を見ている。踏み込みすぎない。必要以上に自分へ引きつけることもなく、それでいて必要な時にはきちんと応える。
イザベルが求める距離の形を、彼女は何度見ても崩さない。
その日の帰り際。
イザベルは相談室の近くでルミエを見かけた。
ちょうど一人の生徒が部屋から出てきたところだった。生徒はルミエへ礼をすると、そのまま廊下の先へ向かっていく。足を止めて何度も振り返ることも、名残惜しそうに扉の前へ残ることもなく、ただ少しすっきりした顔で自分の場所へ戻っていった。
それを見て、イザベルはまた納得した。
ルミエがこちらへ気づく。
「イザベル様」
いつもの穏やかな声だった。
「ごきげんよう、ルミエ様」
「ごきげんよう」
ルミエの表情に、自然な微笑みが浮かぶ。
イザベルは相談室から離れていった生徒の背中を一度見てから、ルミエへ向き直った。
「以前、こちらへ伺った時のお話を覚えていらっしゃいますか」
ルミエは瞬きをした。
(前に来た時?)
何の話だったか。
相談室についてだったことは覚えている。
(……うん、思い出せない)
ほんの短い間のあと、ルミエの声が返った。
「ええ。もちろんです」
迷いのない声だった。
イザベルは満足そうに言葉を続けた。やはりルミエは聡明だ、と。
「ここは、戻るための場所であればいい、と仰いましたね」
「はい」
「最近、その意味が少し分かったように思います」
ルミエの紫紺の瞳がイザベルを見る。
急かさない。
続きを求めるようでいて、無理に言葉を引き出そうとはしない。
イザベルはそれにも安心し、確信を深めた。
「以前より、学園の中で小さな衝突が減りました。自分の意見を言えるようになった方もいますし、以前なら揉めていたところで、一度考えられるようになった方もいる」
イザベルは少しだけ言葉を選んだ。
「皆様が少しずつ、自分の場所へ戻れるようになっている。そんな気がするのです」
ルミエは静かに聞いていた。
(そんなこと言われてもなぁ)
ルミエにはよく分からなかった。
以前の学園がどの程度揉めていたのか、細かく覚えているわけではないしあまり興味もないし、そもそも揉めていたの?といった程度だ。
誰と誰が仲が悪いのかも、どんな相談を受けたのかも、もう忘れてしまっている。
ただ。
(最近、相談が早く終わる人は増えた気がする)
それはありがたかった。
本を読める時間が増えるし、予定も押しにくい。揉め事が減っているなら、なおさら良い。
ルミエの口元には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「それなら、とても良いことですね」
「はい」
イザベルも頷く。
「相談室へ頼りすぎることを、以前の私は少し心配していました」
「そうでしたね」
「ですが、杞憂だったのかもしれません」
その言葉に、ルミエは少しだけ首を傾けた。
「必要がなくなったのなら、それが一番良いのかもしれません」
イザベルの目が、わずかに見開かれる。
ルミエの声はいつも通り穏やかだった。
「ここへ来なくても、ご自分で考えられるのであれば、その方が困ることは少ないでしょうから」
それは、イザベルが確認したかったことだった。
相談室そのものを必要とさせるのではない。
ルミエ自身を必要とさせるのでもない。
人を元の場所へ返し、次はその人自身が考えられるようになる。
やはり。
胸の内に残っていた小さな懸念が、綺麗に収まっていく。
「……そうですね。私も、それが最も望ましい形だと思います」
ルミエは微笑んだ。
「イザベル様がそう仰るのであれば、きっとそうなのでしょうね」
その言葉に、イザベルは一瞬だけ黙った。
自分の考えを、そのまま認められたように感じた。
何度目だろう。
ルミエと話していると、自分が重んじてきたものが、決して間違っていなかったのだと思える。
規律。
順序。
距離。
感情を否定するのではなく、かといって感情にすべてを任せもしないこと。
誰かに寄りかからず、自分の場所へ戻ること。
それらを、ルミエは理解している。
少なくともイザベルには、そう見えた。
「ありがとうございます、ルミエ様」
「私は何もしていませんよ」
その返事に、イザベルは少しだけ微笑んだ。
そういうところも、この方らしい。
必要以上に自分の功績にせず、人が変わったのなら、その人自身の変化として扱う。
やはり、この方は。
「では、失礼いたします」
「はい。また」
イザベルは歩き出した。
廊下の先では、先ほど相談室から出ていった生徒が友人と合流していた。何かを話すと友人が驚き、それを見た生徒が笑う。
それだけだった。
ごく普通の学園の日常。
イザベルはその光景を見て満足した。
相談室へ閉じこもる者はいない。
ルミエに答えを求め続ける者もいない。
皆、それぞれの場所へ戻っている。
それでいい。
それがいい。
相談室の中では、イザベルの姿が見えなくなると、ルミエが机へ戻っていた。
開いたままにしていた本がある。栞を挟んだ場所から、まだほとんど進んでいない。
(最近、少し楽になってきたかも)
相談がなくなったわけではないし、今日だって一人来た。ただ、以前より話が早くまとまることが増え、自分で途中まで考えてきている者もいる。
何が変わったのかは、よく分からない。
(まあ、いいか)
困ることではない。
ルミエは頁をめくった。
廊下では、生徒たちが誰かと話しながら、あるいは一人で考えながら、それぞれの教室へ戻っていく。
以前より、ほんの少しだけ迷わずに。
相談室は、今日も静かだった。




