『次の話』
舞踏会から幾日かが過ぎた。
王立ヴァルテール学園では、あの夜に参加した者たちもそれぞれ普段の生活へ戻っていた。
廊下ですれ違えば挨拶をする。
講義が終われば次の予定へ向かう。
舞踏会について話す者もまだいたが、いつまでもそれだけが話題になるわけではない。別の催しの話もあれば、家から届いた手紙について話す者もいる。学園の日々は、昨日までの出来事を少しずつ過去へ押し流していく。
リュシアンも同じだった。
声をかけられれば応じる。
必要な話には耳を傾ける。
王族として確認しておくべきことがあれば覚えておく。
舞踏会へ出席したからといって、その後の生活が大きく変わったわけではない。
その日の講義を終えた後も、数人の生徒と廊下を歩いていた。
話題は講義から始まり、やがて何でもない雑談へ移っている。
「そういえば、昨日ひどい目に遭いました」
一人の青年が言った。
「どうしたんだい?」
隣を歩く者が尋ねる。
「父から手紙が届いたのです。『最近はよく勉学に励んでいるそうだな。感心している』と」
「それのどこがひどいんだ?」
「私も最初はそう思いました。ところが、その後に『お前の友人から聞いた』とありまして」
青年はそこで顔をしかめた。
「誰がそんなことを父に伝えたのかと思って問いただしたら、友人は『本を開いたまま机で寝ていたから、勉強しているように見えた』と」
一緒にいた者たちから笑いが起きた。
「間違ってはいないね」
「本は開いていたんだろう?」
「開いていただけです。朝まで同じ頁でした」
もう一度笑いが起きる。
リュシアンも口元を緩めた。
特別に面白い話というほどではない。
身近な失敗を少し大げさに話しただけの、よくある雑談だった。
そのまま聞き流すはずだった。
「それで、お父上には何と?」
別の者が尋ねる。
「もちろん、『励んでおります』と返しました」
「それは少し苦しくないかい?」
「これから励めば嘘ではなくなります」
「それなら、本当に励まないといけないね」
話はそのまま続いていく。
リュシアンも聞きながら歩いていた。
けれど。
(……これは)
ふと、思った。
ルミエ嬢なら、笑うだろうか。
足が止まるほどではなかった。
表情にも出なかった。
ただ、その考えだけが自然に浮かんだ。
夜風の中で聞いた笑い声を思い出す。
最初は、何を言われたのか分からないような顔をしていた。
それから少し笑った。
自分が冗談の失敗を認めると、とうとう堪えきれなくなった。
あれほど笑うとは思っていなかった。
「殿下?」
隣から声をかけられる。
リュシアンは顔を向けた。
「なにかな」
「いえ、少し考え事をされているようでしたので」
「ああ。大丈夫だよ」
それから、先ほど話していた青年を見る。
「殿下?」
「なにかな」
「いえ、少し考え事をされているようでしたので」
「ああ。大丈夫だ」
リュシアンは先ほどの青年へ目を向けた。
「面白い話だったよ」
青年は少し驚いたあと、笑った。
「殿下にそう言っていただけるなら、朝まで机で寝ていた甲斐がありました」
「そこは勉強した甲斐と言うべきじゃないかな」
「……次からそういたします」
また周囲が笑う。
話題はそのまま別のものへ移った。
リュシアンも会話に加わる。
それだけだった。
それなのに、先ほどの話は頭に残った。
朝まで開かれたままだった本。
勉強していると誤解した父。
これから励めば嘘ではなくなると言った青年。
覚えておく必要のない話だ。
王族として知っておくべきことでもない。
誰かへ報告するものでもなかった。
それでも、忘れないようにしようと思った。
理由も、すぐに分かった。
次に話せるかもしれない。
誰に。
そこまで考える必要もなかった。
その日の午後。
リュシアンは図書室にいた。
いつも使う席に本を置き、椅子へ座る。
周囲では数人の生徒がそれぞれ本を読んでいる。頁をめくる音と、時折椅子を引く小さな音がする程度だった。
以前から好んでいる場所だ。
静かで、人の出入りも激しくない。
誰かに囲まれ続けることもない。
リュシアンは本を開いた。
数頁読む。
内容は頭に入っている。
さらに頁をめくる。
そこで、ふと向かい側を見た。
誰もいない。
ルミエがいつも必ずそこにいるわけではない。
そもそも約束をして図書室へ来ているわけでもなかった。
会う日もある。
会わない日もある。
今までもそうだった。
リュシアンは本へ視線を戻す。
もう一頁。
少しして、扉が開く音がして反射的に顔を上げる。
入ってきたのは別の生徒だった。
本棚へ向かって歩いていく。
リュシアンは再び本へ目を落とした。
(……何をしているんだ)
自分でも少しだけ可笑しくなる。
誰かを待っているわけではない。
それなのに、扉が開くたびに確認している。
理由を考えれば、難しいことではなかった。
舞踏会の夜に、自分は言った。
『次までには、もう少しましな話を覚えておきます』
ルミエは答えた。
『次もあるのですか?』
そして、
『では、あまり期待せずにお待ちします』
約束と呼ぶほどのものではない、その場の軽いやり取りだ。
それでも、一度口にした以上、次に会った時に何か一つくらい話せるものがあった方がよい。
そう考えることに、おかしなところはない。
リュシアンは一人で納得し、本へ戻った。
しばらくは読書に集中できた。
けれど何頁か進んだところで、先ほどの青年の話がもう一度浮かぶ。
本を開いたまま寝ていた。
それを父親が勉強していると聞いた。
これから勉強すれば嘘ではなくなる。
(……少し弱いな)
思わずそう考えた。
夜会で聞いた話より面白いかと言われれば、怪しい。まあ、夜会で聞いた話も決してそこまで面白いものではなかったように思える。
そもそも前回も、話そのものより、自分が真面目な顔で失敗を認めたところを笑われたようなものだった。
では、何なら笑うのだろう。
そこまで考えて、リュシアンの視線が本の一行で止まった。
何なら。
彼女が。
笑う。
考えてみれば、妙なことだった。
冗談とは、聞いた者が笑えば成功なのだろう。
だが今、自分は「面白い話」を探していたのではなかった。
ルミエが笑う話を考えていた。
違いなどないようにも思える。
けれど、どこか違う。
リュシアンは少しだけ考えたが答えは出ない。
出す必要も感じなかった。
ただ、前回よりひどい話を聞かせるのは避けたい。
それだけでいい。
本を読み進める。
今度は十頁ほど進みその間、扉は二度開いた。
二度ともルミエではなかった。
図書室を出た後、リュシアンは廊下で別の知人に呼び止められた。
少しだけ立ち話をする。
学園内で起きた大したことのない話だった。
提出する書類を忘れた生徒が、届けに戻ったところ、今度は筆記具を教室へ置いてきた。
取りに戻れば、最初に持っていた書類を机へ置いてきた。
三往復したところで、教師から「次は自分を忘れてくるな」と言われたらしい。
「それは本当なのかい?」
リュシアンが尋ねる。
「ええ、本当ですよ。僕もその場にいましたからね」
話していた青年が笑う。
「本人は全く笑っていなかったけれど」
「それはそうだろうね」
「殿下も気をつけた方がいいのではないですか?」
「私が?」
「忙しいでしょう? そのうち書類だけ王宮へ帰って、殿下だけ学園に残るかもしれない」
リュシアンは思わず笑った。
「それは困るな」
「でしょう?」
青年も満足そうに頷いた。リュシアンは王子ではあるが、学園にいる間まで誰もが一言一句を畏まるわけではない。同年代との間では、この程度の軽口も珍しくなかった。
会話はそこで終わりリュシアンは歩き出す。
数歩進んでから。
(こちらの方がいいかもしれない)
そう思った。
すぐに、何と比べているのかにも気づく。
朝の話より、今の話の方がルミエには合いそうな気がした。
なぜそう思うのか。
分からないが……教師の最後の一言を面白がってくれるのではないだろうか。
そこまで考えてから、リュシアンは足を止めかけた。
自分は何を真剣に考えているのだろう。
話す機会がいつあるのかも分からないし、そもそもルミエと何かを約束したことなんてない。
いつ会えるとも知れず、次にいつ会うとも決めない。そんな距離感。
そもそも、次に会った時、冗談を話すような状況になるとも限らない。
普通に挨拶だけして終わるかもしれない。
図書室で会ったとしても、互いに本を読んで終わる日もある。
それなのに、候補だけが二つになった。
リュシアンは小さく息を吐く。
まあ、いいだろう。
覚えておいて困る話でもない。別の誰かへ披露する機会があるかもしれない。学生同士の他愛ない雑談としてなら、使い道はいくらでもある。
そう結論づけた。
それから数日。
似たようなことが何度かあった。
誰かの失敗談。
食事の席で聞いた、少し気の抜けた話。
真面目に語られたせいで、かえって可笑しかった出来事。
以前なら、その場で笑って、それで終わっていた。
今も、ほとんどはそのまま忘れる。
ただ時折、
(これは)
と思うものがある。
そのたびに、夜風の中で笑うルミエが浮かんだ。
声を堪えようとして失敗し、最後には肩を揺らしていた。
いつもとは違う、あの軽やかな笑い声。
思い出すのは、そこまでだった。
なぜ覚えているのか。
なぜまた聞きたいのか。
考えようとすれば、いくつか説明はできる。
あれほど笑うルミエを初めて見たから。
自分の話で笑ったから。
次もあると口にしたから。
どれも間違ってはいない。
だから、それ以上の理由を探す必要もなかった。
ある日の図書室。
リュシアンはいつもの席で本を開いていた。
今日も向かいは空いている。
最近は互いのタイミングが合わないらしい。
別に珍しいことではない。
そう思いながら頁をめくる。
一頁。
二頁。
三頁。
ふと、朝に聞いた話を思い出す。
知人の妹が、菓子を焼こうとして砂糖と塩を間違えたらしい。
ひどい味になった。
それでも兄は「見た目は完璧だ」と褒め、妹は「では飾っておきます」と答えた。
悪くない。
だが、少し弱い。
(……これは笑わないだろうな)
そこで、リュシアンは本から目を上げた。
誰もいない向かいの席を見る。
数秒。
自分が今、何を基準に話を選んでいたのかを理解する。
リュシアンは小さく息を吐いた。
「……何をしているんだろうな」
思わず口から零れた言葉に、もちろん返事はない。
図書室なのだから当然だった。
けれど、少し可笑しくなった。
以前なら、こんなことを考える時間そのものがなかった。
面白い話を覚えておこうなどと思ったこともほとんどない。
人と話すために必要な話題なら考える。
相手の家。
学園。
今後の予定。
共通の知人。
王子として会話を続ける材料なら、いくらでも知っているし学んでいる。
だが。
相手を笑わせるためだけの話。
それは、今までほとんど必要としたことがなかった。
リュシアンは再び本へ目を落とした。
舞踏会の夜を再び思い出す。
『では、あまり期待せずにお待ちします』
そして、耳の奥に蘇るあの声。
リュシアンの口元が少し緩んだ。
期待していないと言われたのだから、失敗しても構わないし、そもそも話さなくてもいい。
その程度の話だったはずだ。
ならば、なおさら気楽に考えればいい。
次に会った時。
話せる時間があって。
話題がなくて。
ちょうど思い出したなら。
その時に一つ話せばいい。
そこまで考えてから、リュシアンは気づいた。
次に会うこと。
次に話すこと。
それ自体については、もう何の疑問も持っていなかった。
いつになるかは分からない。
どこになるかも分からない。
約束もないのだから。
それでも、次があることだけは、ごく自然に考えている。
少し前なら、それを不思議に思ったかもしれない。
今は、それほどでもなかった。
図書室で会う。
少し話す。
時には、何も話さず本を読む。
その中に、また一つくだらない話が増える。
それでよい気がした。
扉が開く音がしてリュシアンは顔を上げる。
入ってきたのは、見知らぬ下級生だった。
少しだけ視線を止め、それから本へ戻る。
今日も違った。
なら、また別の日だろう。
朝に聞いた菓子の話は、たぶん使わない。
書類を三度忘れた話は、まだ候補に残しておく。
机で寝ていた青年の話は、その次。
リュシアンは頁をめくった。
次に話すことだけは、いつの間にか少しずつ増えていた。




