『及第点』
舞踏会を終え、クラリス家の本家へ戻ってから、エレーヌのもとには次々と書状が届いていた。
早い家では、その晩のうちに礼の文面を用意していたらしい。こうした礼は早いに越したことはない。翌日になればさらに数が増え、今では方々から届いた書状が机の上に重なっていた。
招待への礼を伝えるもの。
娘がよい経験をさせてもらったと記したもの。
息子が学園では話す機会のなかった相手と知り合えたことを喜ぶもの。
次に同じような機会があれば、ぜひまた声をかけてほしいと申し出るもの。
どれも、主催したクラリス家へ礼を返すための書状だった。
エレーヌの机の上には、すでに封を切ったものと、まだ目を通していないものが分けて置かれている。
一通を読み終え、机の端へ置く。
悪くない。
社交辞令が含まれているのは当然としても、わざわざ書状を送る家がこれだけある以上、少なくとも失敗した会とは受け取られていない。遠回しの要望もないところを見ると全員がそれなりに得るものがある会に出来たのだろう。
次の封を切る。
そこには、娘が初めて話した相手と今後も手紙を交わしたいと話していることへの礼が書かれていた。
エレーヌは名前を確認する。
舞踏会の前半、同じ学園に通いながら普段ほとんど接点のなかった二人だ。
最初から引き合わせる予定だったわけではない。歓談の途中で同じ輪に入り、そのまま話が続いた。
それでも、結果として縁ができたのであれば十分だった。
(あの組み合わせは、悪くなかったのね)
覚えておく。こうした家と家の繋がりは貴族として把握しておくべきものだ。
次の書状には、舞踏を楽しんだという短い感想があった。
その次は、会場が大きすぎなかったため、娘も落ち着いて参加できたという礼。
さらにその次には、ヴァロワ家の令嬢へ紹介してもらえたことへの感謝があった。
そこで、エレーヌの指が止まった。
『娘も大変喜んでおりました。ヴァロワ家のルミエ様には、短い時間ながら丁寧にお話しいただき――』
その先にも、いくつか言葉が続いている。
エレーヌは最後まで読んだ。
ルミエの名前が出てくる書状は、これが最初ではなかった。
当然だろうとも思う。
あの場にルミエを招いた時点で、何人かが彼女について触れることは予想していた。そもそもルミエとの接点を求める声を抑えるために開催した舞踏会でもあったのだから。
ただ、実際に文章となって目の前へ届くと、舞踏会の夜とはまた違った実感がある。
あの夜、その場で交わされた会話は、会館を出たところで消えたわけではない。
参加した者たちがそれぞれの家へ持ち帰り、家族へ話し、こうして礼状の一部となって返ってきている。
エレーヌは書状を重ねた。
ルミエだけではない。
イザベルについて触れている家もあった。
第二王子の出席に礼を述べる文面もある。
普段なら同じ場へ集まりにくい家の子弟が顔を合わせられたことを評価する声もあった。
それでよかった。
舞踏会は、誰か一人を見るためだけに開いたものではない。
少なくとも、表向きは。
エレーヌは次の書状へ手を伸ばした。
「ずいぶん届いておりますね」
そばに控えていた使用人が言う。
「そうですね」
「皆様、ご満足だったのでしょう」
「そうだとよいのだけれど」
口ではそう答えながら、エレーヌはもう一通を読み始める。
満足した、という言葉だけでは足りない。
どこがよかったのか。
何が残ったのか。
誰と誰が話し、どの家が次を望み、どの家は礼だけで終えているのか。
書状には、その家が舞踏会の何を見ていたのかも表れる。
すべてを額面通りに受け取る必要はないし、受け取ってもいけない。
ただ、だからといって、疑ってばかりでも意味がない。
言葉の向こうにある事情まで見ながら、次へ使えるものだけを拾う。
それがクラリス家で教えられてきたやり方だった。
届いた書状の半分ほどを読み終えたところで、エレーヌは一度だけ椅子の背へ身体を預けた。
舞踏会の準備を始めた頃を思い出す。
招待客を決める。
会場を借りる。
誰をどこへ通すか考える。
休憩室を用意する。
ヴァロワ家の条件を確認する。
王族を招く以上、他の招待客との釣り合いも考えなければならない。
始まってしまえば、今度は人が動く。
予定していた通りに進むものもあれば、そうならないものもある。
ルミエへ早く近づこうとする者もいた。
イザベルが止めた。
紹介を求める者が増えた。
休憩も必要になった。
リュシアンがルミエとの一曲を望んだ時も、直接ではなく自分を通した。
一つずつ思い返してみれば、何も起きなかったわけではない。
ただ、大きな問題にはならなかった。
それだけでも、最初に考えていた順番や配慮は役目を果たしたと言ってよいだろう。
扉が叩かれた。
「エレーヌ様。当主様がお呼びです」
エレーヌは机の上の書状へ視線を落とした。
「分かりました。すぐに参ります」
立ち上がる。
父に呼ばれる理由は、おそらく同じだった。
舞踏会についての報告はすでに伝わっている。
招待客から届いた礼状のうち、家として確認すべきものも父のもとへ回されているはずだ。
つまり、評価を下す段階に入ったということだった。
父のもとへ向かい、扉の前で足を止める。
「エレーヌです」
「入れ」
短い返事だった。
「失礼いたします」
部屋へ入ると、父は机の向こうにいた。
クラリス家当主。
エレーヌにとっては父親だが、幼い頃から教師のような人物でもあった。
姿勢。
言葉。
食事。
学問。
客への挨拶。
一つ覚えれば、次を教えられた。
出来なければ理由を問われた。
怒鳴られたことなど一度もない。ただ、考えずに何かをすることは許されなかった。
そして、出来れば、それが次からできることを前提として扱われた。
褒められた記憶がないわけではない。
ただし、何をしただけで褒められるのかは、子供の頃からよく分からなかった。
父の机にも、何通かの礼状が置かれている。
「座れ」
「はい、お父様」
エレーヌは向かいの椅子へ腰を下ろした。
父はすぐには話さなかった。
手元の書状へ目を通し、最後まで読んでから机へ戻す。
「報告は読んだ」
「はい」
「礼状もいくつか確認した」
「はい」
一拍置く。
エレーヌは待った。
「先日の夜会に続き、今回も及第点と言えるだろう」
父の言葉は淡々としていた。
「規模は小さいとはいえ、大きな問題もない。招待客の選定も悪くなかった」
「ありがとうございます」
エレーヌは頭を下げた。
及第点。
その言葉は、父が口にする評価としては決して低くない。
父は続ける。
「第二王子を招いておきながら、殿下一人のための場にしなかった点はよい」
エレーヌは顔を上げた。
「はい」
「王族がいる。それだけで周囲は勝手に意味を加える。若者の交流を名目としておきながら、全員が殿下の顔色だけを見るようでは失敗だ」
「承知しております」
「ヴァロワ家についても同じだ」
父の指が、机の上にある一通へ触れた。
「貴族ではない。だが、ただの商家として扱える家でもない。あの家の娘を前へ出しすぎれば、お前が何を意図しているのか余計な詮索を招く。逆に軽く扱えば、クラリス家の見識を疑われる」
エレーヌは黙って聞く。
「最初から主賓として据えなかった判断は妥当だ。紹介を求める者へ順を与えたこともな」
「ありがとうございます」
「礼は一度でよい」
「はい」
返事をすると、父は別の書状を取った。
「上級家の令嬢、官吏の家、有力商家、学園関係者。立場の異なる者を同じ場へ入れた。何も起きなかったことを、何もしていない結果だと思うな」
その言葉に、エレーヌはわずかに背筋を伸ばした。
「はい」
「問題が起きてから動くのは、誰にでもできる。起きる前に考えろ。人が何をするか、何を望むか、どこで衝突するか。そのために学んでいる」
幼い頃から、何度も聞いた種類の言葉だった。
父は人を教える。
クラリス家もまた、人を育てることを家の誇りとしてきた。
だから、できることを増やせと言われた。
誰かに任せれば済むことであっても、知っておけと言われた。
自分が使わない知識であっても、知らないより知っている方がよいと教えられた。
エレーヌはそれを疑ったことがない。
「ただし」
父の声で思考が戻る。
「これで満足するな」
そう。クラリス家のものに現状維持という名の停滞は認められない。
「今回は、お前の目が届く範囲だった。招待客も多くない。学園を通じて互いに顔を知っている者も多かった」
「おっしゃる通りです」
「条件がよかったことを、自分の力量と取り違えるな」
「はい、お父様」
父はそこで初めて、エレーヌを正面から見た。
厳しい目だった。
けれど怒っているわけではない。
いつもと同じ、評価する目だ。
「エレーヌ」
「はい」
「有能さを示せ」
それだけを聞けば、唐突にも思える言葉だった。
だが、エレーヌには何を言われているのか分かった。
父は昔から同じことを言う。
「他家の令嬢と同じ評価に甘んじるな」
父は椅子へ深く腰を下ろした。
「いずれ、お前も嫁ぎ先を決めることになるだろう。そして、嫁ぎ先が決まれば役目を果たしたとされる者もいる。それで家がよいというなら、好きにすればいい。だが、クラリス家の娘は違う」
エレーヌは黙って父を見る。
「お前の価値を、若さや容姿だけで測らせるな」
声音は変わらない。
「有能であることを示せ。人を見ろ。学べ。考えろ。任されたものを形にして返せ」
「はい」
「クラリス家の娘の価値は、優秀さだ」
昔から聞いてきた言葉だった。
綺麗であれとは言われた。
礼儀を知れとも言われた。
それらは貴族の娘として必要だから身につけるものだった。
だが、それだけでは足りない。
父はずっとそう言ってきた。
「他の家とは違うと示せ。嫁ぐしかできん者たちと、同じ場所に収まるな」
「はい、お父様」
エレーヌの返事に迷いはなかった。
それが厳しい言葉だということは分かっている。
他家の令嬢へ向ければ、あまり好まれる言い方でもないだろう。
だから父も、外では口にしない。
これはクラリス家の中で、娘へ課される言葉だった。
「今回の会は、その一つとしては悪くない」
父は礼状へ視線を戻した。
「自分で考え、自分で準備し、結果を出した。だから及第点だ」
「……ありがとうございます」
今度は、父も礼を止めなかった。
エレーヌは頭を下げる。
胸の中に、大きな喜びが湧いたわけではない。
それでも、自分が積み重ねてきたものを父が認めたことは分かった。
及第点。
完璧ではない。
次もできると認められた。
エレーヌにとっては、それで十分だった。
「もうよい」
「はい。失礼いたします」
立ち上がり、扉へ向かう。
手をかけたところで、父の声がもう一度飛んだ。
「エレーヌ」
「はい?」
振り返る。
父は書状から顔を上げなかった。
「次に同じ規模の会を任せても、今回程度にはできるようにしておけ」
エレーヌは一瞬だけ目を見開いた。
それから礼をする。
「はい、お父様」
今度こそ部屋を出た。
自室へ戻るまでの間、父の言葉が何度か頭へ浮かんだ。
次に任せても。
それはつまり、今回の仕事が偶然ではなかったと認められたということだ。
父から見れば、ごく当然の評価なのかもしれない。
それでも。
(及第点、か)
エレーヌはほんの少しだけ口元を緩めた。
自室へ戻ると、机の上にはまだ残りの礼状があった。
父に呼ばれる前に読んでいたもの。
まだ封を切っていないもの。
エレーヌは再び椅子へ座った。
一通取る。
読む。
次へ進む。
父の言葉を聞いた後だからといって、書かれている内容が変わるわけではない。
ただ、先ほどより少しだけ、一つ一つを落ち着いて見られる気がした。
舞踏会は終わった。
招待客はそれぞれの日常へ戻った。
自分が用意した場は、もう存在しない。
残っているのは、そこでできた縁と、こうして届く言葉だけだ。
何通か読み進めたところで、見覚えのある家名が目に入った。
封を開く。
内容は他のものと大きく変わらない。
招待への礼。
若者たちがよい時間を過ごせたこと。
家の子が新しい知人を得たこと。
その中に、短い一文があった。
『リュシアン殿下にも最後までご臨席いただき、楽しまれていたご様子で何よりにございました』
エレーヌの目が、その一文で止まった。
リュシアン。
舞踏会の夜を思い出す。
王族として挨拶を受けていた姿。
すぐにルミエのところへ向かわず、自分の立場を守っていたこと。
そして、後半。
「ルミエ嬢と少しだけお話しする時間をいただけないでしょうか」
そう、自分へ申し出た。
直接ルミエへ向かわず、主催者であるエレーヌを通した。
あの時は、そのことに感心した。
王子だから許されることと、王子だからこそ避けるべきことを理解している。
そう思った。
ルミエへ確認を取り、休憩室側のバルコニーを使わせた。
その後、二人は戻ってきた。
ルミエはいつものルミエだった。
リュシアンも、王子として何かを乱すような様子はなかった。
何を話したのか。
エレーヌは知らない。
尋ねる理由もなかった。
個人的な会話まで主催者が確認する必要はない。
ただ。
エレーヌは礼状の一文を、もう一度読んだ。
楽しまれていたご様子。
(……そうね)
確かに、リュシアンは最後までいた。
帰りを急いでいた様子もなかった。
舞踏会そのものを楽しんでもらえたなら、主催した側として悪いことではない。
それで終わる話だった。
エレーヌは書状を机の端へ置く。
次の封へ手を伸ばす。
けれど、その直前。
ふと、バルコニーから戻ってきた時のリュシアンの顔を思い出した。
特別変わっていたわけではない。
笑っていたわけでもない。
いつも通り、第二王子として人前に立てる顔だった。
それなのに。
(何をお話しされたのかしら)
そんな疑問だけが、一瞬浮かんだ。
答えはない。
エレーヌは知らない。
なら、今考えても仕方がない。
次の書状を開く。
そこにはまた、舞踏会への礼が書かれていた。
何より、それは今考えるほどのことでもなかった。
エレーヌにとって大切なのは、ルミエが相応しい場で見られ、その価値を正しく受け取ってもらえたことだ。
美しいだけではない。ヴァロワ家の娘として、学園の一員として、一人の少女として。
あの方を、ただ珍しいものを見るような目で消費させなかった。
そのための場を、自分は用意できた。
それこそが、エレーヌにとって何より大きな成果だった。
エレーヌは最初の一行から読み始めた。




