『四行目から』
翌朝。
王立ヴァルテール学園の相談室には、いつもと同じ朝の光が差し込んでいた。
窓際の机には何冊かの本と書類が積まれ、その向かいには相談者のための椅子が置かれている。昨日、王都の会館で舞踏会が開かれていたことなど、この部屋を見ただけでは分からない。
ルミエ・ヴァロワも、見た目だけならいつも通りだった。
髪はきちんと梳かされ、服にも乱れはない。机に向かう姿勢も普段と変わらず、廊下ですれ違った生徒には柔らかな挨拶を返してきた。
ただし。
(……足、重いなぁ。あと、全身がなんとなく怠い)
机の下で、ルミエはそっと右足を動かした。
痛いというほどではない。
歩くこともできるし、階段を上ることにも支障はない。けれど、ふくらはぎから足の裏にかけて、普段とは違う重さが残っていた。あと、何より活動するのが億劫だった。
原因ははっきりしている。
昨日の舞踏会だった。
礼をして、手を取って、曲に合わせて歩く。相手が向きを変えればついていき、自分も決められた手順で足を運ぶ。練習していたとはいえ、本番では床の広さも、周囲の視線も、衣服も違った。
それを何曲も続けた。
(踊るって、思っていたより疲れるのね)
見ているだけなら優雅なものだ。
実際にやる側になると、話は違う。
足の位置を考える。
手の位置も気にする。
相手の足を踏まないようにする。
何より、周囲からずっと見られている。
昨日の夜を思い返して最初に浮かんだのは、華やかな会場でも、音楽でもなかった。
疲れた。
それだった。
今朝、相談室へ来る前にも、アニエスから尋ねられている。
「ルミエ様。本日はどうなさいますか?」
朝の支度を終えたところで、アニエスはいつもの調子でそう聞いた。
「昨日は長い時間お立ちになっておりましたし、舞踏もございました。お疲れが残っているようでしたら、今日は相談室をお休みになってもよろしいかと」
その言葉を聞いた瞬間、ルミエは思った。
休んでもいいのか。
それなら休んでもよい気がする。
今日は部屋で本でも読んで、昼寝をして、足を休ませる。かなり魅力的な一日だった。
けれど。
「これくらいなら問題ないわ。今日はいつも通りで大丈夫」
口から出たのは、そんな返事だった。
声は明るく、表情にも昨日の疲れを引きずった様子はない。
アニエスはルミエの顔を見て、それから足元へ視線を落とした。
「歩く際に痛みはございますか?」
「そこまではないわ。少し重いくらい」
「では、無理を感じましたらすぐにお申し付けください」
「ええ。ありがとう」
会話はそれで終わった。
アニエスが部屋を出てから、ルミエはしばらく扉を見ていた。
(……こういう時は、少しくらい休みたいって言ってくれてもいいのだけれど)
自分の身体への注文である。
もちろん、普段は便利だった。
相手と何を話せばよいか迷っても、口は勝手に適切な言葉を返してくれる。大勢に見られても、緊張がそのまま姿へ出ることもない。面倒な社交の場では、これ以上なく頼りになる。
昨日だって、これがなければどうなっていたか分からない。
途中で足を間違えたかもしれないし、会話に困ったかもしれない。
だから文句を言う筋合いもない。
便利なのだし、ルミエとして産まれてずっとこうだったのだから。
ただ、今日はほんの少しだけ厄介だった。
そして今、ルミエは相談室の机に座っている。
手元には一冊の本がある。
開いてから、まだ三行しか進んでいなかった。
内容が難しいわけではない。眠いわけでもない。
足が重い。昨日の疲れが残っている。何をするにも億劫なのだ。
(今日は誰も来ないといいな)
相談室を任されている者としては、あまり褒められた考えではない気がする。
だが、誰にも聞かれていないし思うだけなら自由だった。
そしてそれの罰のように扉が叩かれた。
(うわぁ)
内心では、きれいなくらいそれだけだった。
けれど顔を上げたルミエには、そんな気配は欠片もない。
「どうぞ、お入りください」
自然に出た声は柔らかく、扉の向こうにいる相手が入りやすい響きを持っている。
ほどなくして扉が開く。
入ってきたのは、学園で何度か顔を見たことのある令嬢だった。
以前にも一度、この部屋へ来たことがある。深刻な相談ではなく、友人との付き合いについて少し話をした生徒だった。曖昧にしか覚えていないが。
少女は扉を閉じると、丁寧に礼をした。
「失礼いたします、ルミエ様」
「いらっしゃいませ。どうぞ、お掛けください」
ルミエは向かいの椅子を示した。
少女が座る。
すぐには話し始めなかった。
両手を膝の上に置き、何から口にするか迷っているようだった。
ルミエは待った。
(できれば、あまり長い相談じゃないといいんだけどなぁ)
そんなことを考えている間にも、表情は穏やかなままだった。急かす気配もなく、少女が自分から話し始めるまでいくらでも待ってくれそうな静かな眼差しが向けられている。
やがて、その沈黙に背中を押されたように、少女が顔を上げた。
「その……昨日は、お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
「舞踏会にいらしたと聞きました。友人が参加しておりまして」
「そうだったのですね」
「はい。とても素敵だったと話していました」
ルミエは微笑んだ。
「華やかな会でしたから。私も慣れないことばかりでしたけれど、よい経験になったと思います」
声には疲労の色など乗らない。
少女は少し安心したように頷いた。
そこで話が終わる。
どうやら、話し出しのきっかけ作りであって舞踏会について聞きに来たわけではないらしい。
少女は指先を重ねたまま、しばらく視線を落としていた。
「今日伺ったのは、その……友人のことで」
「はい」
「仲のよい子がいるのです」
少女はゆっくり話し始めた。
講義の合間も一緒に過ごし、昼食も同じ席で取ることが多い。放課後には勉強をしたり、時には菓子を食べながら長く話したりする。
聞いている限りでは、普通に仲のよい友人だった。
「その方と、何かございましたか?」
「いえ。何も」
少女はすぐに首を振った。
「嫌いになったわけでもありません。むしろ、一緒にいるのは楽しいのです」
「では、どうされたのでしょう?」
「最近……少しだけ、一人でいたい時があって」
その言葉に、ルミエは一度瞬きをした。
(そういうものなのかな)
少し分かった気がした。気がしただけだが。
少女は続ける。
「昼休みに本を読みたい日もありますし、放課後にそのまま部屋へ戻りたい日もあります。でも、あの子はいつも誘ってくれるのです。一緒に食べましょうとか、今日はどこへ行きましょうとか」
「そうなのですね」
「昨日、一度だけ断ろうとしたのです」
少女の声が少し小さくなる。
「今日は一人で過ごしたい、と言いました。そうしたら、すぐに『何か気に障ることをした?』と聞かれてしまって」
「ええ」
「慌てて、何でもないと言って……結局、一緒に過ごしました」
話し終える頃には、少女の肩が少し落ちていた。
「私がおかしいのでしょうか。一緒にいるのは楽しいのに、一人にもなりたいなんて」
ルミエは少女を見る。
おかしい。
とは思わなかった。
むしろ。
(ずっと誰かと一緒にいる方が疲れそうだけど)
それがルミエの率直な感想だった。
一人で本を読む。一人で食事をする。誰にも話しかけられず、何も返事をしなくてよい時間を過ごす。
ルミエにとっては、どれも珍しい願いではなかった。
もっとも、そう思っていることが誰かへ伝わることはないのだが。
「その方と過ごすこと自体は、お嫌いではないのですよね?」
「はい。それは本当です。一緒にいるのは楽しいです」
「ですが、一人で本を読みたい日もある」
「……はい」
ほんの短い間があった。
それから、ルミエの口元に穏やかな微笑みが浮かぶ。
「その二つは、どちらも本当なのですね」
少女はすぐには答えなかった。
やがて、自分の中の言葉を確かめるように頷く。
「……そう、ですね」
「はい」
「あの子が嫌いだから、一人になりたいわけではないんです」
そこまで口にして、少女は自分で少し驚いた顔をした。
「ただ……たまには、一人で本を読みたいだけで」
ルミエは小さく頷いた。
それだけだった。
少女は黙る。
ルミエはそれ以上何も言わない。
沈黙は少女に答えを迫るものではなく、自分の中で考える時間を与えられたように感じられた。
何か難しい決まりがある話でもない。
ルミエなら、一人になりたければ一人で過ごすだけだ。
少女は、その希望を友人へ伝えることに困っているらしい。
少女はしばらく自分の手を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「私、断ったら嫌われると思っていたのかもしれません」
「そうなのですか?」
「はい。あの子が傷ついた顔をしたら、きっと私が悪いのだと思ってしまって」
ルミエは少女を見た。
(断っただけで嫌いになるものなのかな。分からないけど)
「今、その方はあなたを嫌っているのですか?」
少女は目を瞬く。
「……いいえ」
「では、嫌われるかもしれない、というのは?」
「私が、そう思っているだけです」
「そうなのですね」
少女はその言葉を何度か自分の中で確かめているようだった。
やがて、その顔から張りつめていたものが少し抜ける。
「何だか……安心しました」
「そうですか?」
「はい。私、一人になりたいと思うこと自体が、よくないことなのかと思っていたのかもしれません」
「そんなことはありませんよ」
ルミエは微笑んだ。
その短い否定だけで、少女には十分だったらしい。
一人でいたいと思うこと。誰かの誘いを断ること。それだけで友人を嫌っていることにはならない。
少女はようやく、自分の希望をそのまま認めてもよい気がした。
「今日、もう一度話してみます」
「はい」
「今度は、慌てて取り消さないようにします」
「それがよいと思います」
「それでも、もし嫌われてしまったら……」
少女はそこで言葉を止めた。
(まだ嫌われてもいないんだよね)
ルミエの感想は、その程度だった。
短い沈黙のあと、小さく頷く。
その仕草は、少女には「それでいい」と言われたように見えた。
「その時は、また考えましょう」
少女が瞬きをする。
「今ここで、まだ起きていないことまで全部決めるのは難しいですから」
数秒後、少女はふっと笑った。
「……そうですね」
「はい」
「起きてから、考えてもよいのですね」
そう言った少女の顔は、相談室へ入ってきた時より明らかに軽くなっていた。
今回も何とかなったようだ。何がどうなったかは何となくでしかわからないが、まあ、まとまったのならよいのだろう。
「ありがとうございました、ルミエ様」
「いえ。少しでも参考になったのでしたら何よりです」
少女は椅子から立ち、礼をする。
扉の前まで行ったところで、一度振り返った。
「一人でいたいと伝えることを、ずっと悪いことだと思っていました」
「そうでしたか」
「でも、今日はちゃんと話してみます」
「うまくお話しできるとよいですね」
「はい」
今度こそ少女は扉を開け、相談室から出ていった。
扉が閉まる。
廊下を離れていく足音が聞こえなくなるまで待ってから、ルミエは椅子の背へ身体を預けた。
(……終わった)
思っていたより短い相談だった。
それはありがたい。
内容も、そこまで複雑ではなかった。
友人は嫌いではない。
ただ、一人で過ごしたい時がある。
それをどう伝えればよいか分からない。
そういう話だったらしい。
少女は来た時より明るい顔で帰っていった。
(今回も何とかなったみたい)
何がどう効いたのかは、相変わらずよく分からない。
まあ、話が終わったのならよいのだろう。
ルミエは机の上の本へ手を伸ばし開きっぱなしになっていたページを探す。
どこまで読んだのだったか。
三行。
そうだ、三行だった。
そこへノックが響き、アニエスが入ってくる。
「終わりましたか?」
「ええ。今帰ったところ」
アニエスは、朝とほとんど同じところで開かれている本へ目をやった。
「お疲れでは?」
(疲れてるよ)
「平気よ。これくらいなら」
返事はすぐに出た。
ルミエ本人の感想とは、今日も何の関係もない。
アニエスはそれ以上尋ねず、机の上の本へ一度視線を落とした。
「次にお約束の方がいらっしゃるまで、しばらく時間がございます」
「そう。ありがとう」
アニエスが部屋を出る。
扉が閉まった。
(よし)
今度こそ相談室には誰もいない。
ルミエは椅子へ座り直し、本へ視線を落とした。
窓の外では、学園の一日がいつも通り進んでいる。
昨日の舞踏会も、その前の準備も、今この部屋には関係がない。
机の上には本が一冊。
足にはまだ少し疲れが残っている。
そして、しばらくは誰も来ないらしい。
ルミエは四行目から、読書を再開した。




