『意味のない話』
曲が終わっても、広間は止まらなかった。
最後の音が消えれば、床へ出ていた者たちは礼を交わし、次の曲を待つ者たちの視線が動く。楽師たちは譜面を入れ替え、会話のざわめきも戻り始めていた。誰かにとって特別な一曲であっても、舞踏会そのものは何事もなかったように続いていく。
リュシアンは、差し出していた手を下ろした。
「ありがとうございました、ルミエ嬢」
「こちらこそ、ありがとうございました。リュシアン様」
ルミエは礼を返した。
深い色のドレスも、長い黒髪も、床へ出る前と変わらない。呼吸も大きく乱れてはいなかった。ただ、顔を上げた直後、肩から少しだけ力が抜けたように見えた。
見間違いだったかもしれない。
すぐにアニエスが近づいてきた。ルミエの顔を見て、足元へ視線を落とし、それからエレーヌを見る。
エレーヌも二人のもとへ来た。
「ルミエ様。少しお休みになられますか?」
「ええ。そうさせていただけると助かります」
ルミエは素直に頷いた。
その返事を聞いたアニエスが、一歩前へ出る。
「では、休憩室へ参りましょう」
「お願い」
ルミエはアニエスに伴われ、広間の端へ向かった。途中で何人かが彼女を見る。声をかけようとした者もいたようだが、アニエスが付き添っているのを見て、そのまま道を譲った。
休憩へ向かう相手を引き留める者はいない。
少なくとも、今夜の広間では。誰もがもう、守るべき順番を知っていた。
リュシアンは、その後ろ姿を見送る。
追うつもりはなかった。
先ほど自分が一曲を申し込んだ時でさえ、広間の流れはいくらか変わった。第二王子という立場は、自分が考えている以上に周囲を動かすことがある。舞踏を終えた途端、そのことを忘れるわけにはいかない。
「殿下」
呼ばれて振り向く。
先ほど挨拶を交わした官僚家の子息が、もう一人の青年と並んでいた。二人とも最初に話した時よりは気が楽になったらしく、表情にも少し余裕がある。
「先ほどの一曲、見事でございました」
「ああ、ありがとう。ルミエ嬢が合わせてくれたおかげだ」
それは謙遜ではなく自然に出た言葉だった。
実際、ルミエはよく合わせていた。
王子を相手にしても、ルミエの足取りは変わらなかった。自分が一歩出ればついてきて、方向を変えれば同じように身体を移す。
その話から、舞踏の失敗談へ話題が移った。
青年の一人が苦笑する。
「私は先日の練習で、相手の足を踏みまして。あれはなかなか忘れられません」
「それなら私は優秀ですよ」
隣の青年が得意げに胸を張った。
「本日は一度も相手の足を踏みませんでした」
「ほう。何曲踊った?」
「一曲も」
一拍置いて、二人が笑った。
リュシアンも口元を緩める。
上等な冗談ではなかった。
青年自身もそのつもりだったらしく、「申し込めなかっただけですが」と肩をすくめ、話はすぐ別のものへ移った。
けれど、その言葉だけが妙に残った。
一度も足を踏まなかった。
図書室で舞踏の本を開いていたルミエも、それをずいぶん気にしていた。
正式な場にふさわしく。
相手に失礼のないように。
ヴァロワ家の娘として恥ずかしくないように。
そうした理由も当然あったのだろうが、彼女が何より先に口にしたのは、足を踏まないことだった。
しかも、ひどく真面目な顔で。
先ほども踏まなかった。
曲が終わった時、少しだけ安心したようにも見えた。
その後も、何人かがリュシアンへ挨拶に来た。
彼は一人ずつ応じる。家の名を聞き、学園の話を受け、必要なら短く問い返す。王子として参加している以上、それを疎かにするつもりはない。
ただ、会話が途切れるたびに無意識に広間の端へ目が向いた。
ルミエはまだ戻ってこない。
三曲踊った後に一度休み、そこから自分との一曲を受けたのだから、長めに休ませるのは当然だろう。
それでよい。
それでも、もう少し話したいと思った。
先ほどの舞踏について感想を聞きたいわけではない。
自分と踊った一曲を、彼女が特別に思ったか確かめたいわけでもなかった。
そんなことを聞けば、その返事まで社交の意味を持ってしまう。
ただ、図書室で向かいに座っていた時のように、少しだけ言葉を交わしたかった。
できれば、この広間の外で。
リュシアンは、招待客との会話を終えたエレーヌへ近づいた。
「クラリス嬢」
「殿下。何かございましたでしょうか」
エレーヌはすぐにリュシアンへ向き直る。
「ルミエ嬢は、まだ休憩中でしょうか」
「はい。少し長めにお休みいただいております。体調に問題があるわけではございません」
「それなら安心しました」
そこで終えることもできた。
だが、リュシアンは続けた。
「彼女に負担がなければ、少しだけお話しする時間をいただけないでしょうか」
エレーヌはすぐには返事をしなかった。
休憩室のある方へ視線を向け、それからリュシアンへ戻す。
「休憩室には、小さなバルコニーがございます。広間からは見えませんので、外の空気に当たりたい時にも使えるようにしております」
「では、よろしければルミエ嬢へ確認していただけますか」
「承知いたしました」
「もちろん、断られても構いません」
その一言に、エレーヌがほんの一瞬だけリュシアンを見る。
それから主催者として礼をし、近くにいた案内役を呼んだ。短く言葉を伝えると、案内役は休憩室の方へ向かっていく。
返事を待つ間、リュシアンは自分が何をしているのかを考えた。
舞踏の後、疲れて休んでいる招待客を気遣う。
相手はヴァロワ家の娘であり、学園でも何度か言葉を交わしている。
先ほどは一曲踊った。
少し話す理由なら、いくつもある。
それでも、一つずつ理由を並べていくほど、自分はただ彼女と話したいのではないかという考えが残った。
残ってしまった。
やがて、案内役が戻ってきた。
「ルミエ様は、ちょうど外の空気に当たりたいとのことで、今はバルコニーに出ておられます。殿下がお越しになることをお伝えしましたところ、構わないとのことでございました」
「分かった。ありがとう」
リュシアンは案内役に従い、広間の脇へ続く廊下へ入った。
扉を一枚隔てただけで、音楽が遠くなる。
休憩室まで来ると、アニエスが扉の前で待っていた。
「殿下」
彼女は礼をする。
「ルミエ様は、だいぶお休みになられました。今は外の空気に当たっておられます」
「少しだけ、お話しさせてもらいます」
「はい。ただ、あまり長い時間にならないようお願いいたします」
「もちろんです」
第二王子を前にしても、アニエスの言葉は変わらなかった。
リュシアンは、僅かに感心する。
アニエスが扉を開いた。
「私はこちらにおります。何かございましたら、お呼びください」
リュシアンが休憩室へ入ると、アニエスは入口のそばに控えた。
椅子と低い卓、水差しと軽い菓子。先ほどまでルミエが休んでいたらしく、卓の上には半分ほど水の減ったグラスが残されている。
部屋の奥に、大きな硝子扉があった。
片側だけが少し開かれている。
その向こうに、ルミエがいた。
石の手すりへ片手を置き、夜の王都を眺めている。
広間と同じ深い色のドレス。同じ髪飾り。同じ少女のはずなのに、灯りの少ない場所に立っているだけで少し印象が違った。
室内から漏れる光が黒髪の端へ触れ、夜風が長い髪を揺らしている。
リュシアンが硝子扉へ近づく。
その気配に気づいたのか、ルミエが振り返った。
「リュシアン様」
「ルミエ嬢。お疲れのところ、すみません」
「いいえ。事前に伺っていましたので。ちょうど風に当たっていたところです」
ルミエが少しだけ場所を空ける。
それが招く仕草に見えて、リュシアンも硝子扉を抜けた。
背後には休憩室の灯りがある。
アニエスの姿も、扉越しなら確認できた。
けれど、バルコニーの奥まで来れば会話までは届かない。
広間の音楽も、ここではもう旋律までは分からなかった。遠くで何かが奏でられているという程度の響きだけが残っている。
夜風が頬を撫でた。
庭にはいくつかの灯りがあり、その先には王都の屋根が連なっている。
ルミエは石の手すりへ手を置いた。
「以前の夜会でも、外へ出ていらっしゃいましたね」
リュシアンが言うと、ルミエが少し目を見開く。
「ご覧になっていたのですか?」
「遠くからですが。夜風に当たって、空を眺めていらしたなと」
「では、あの時も一人ではなかったのですね」
声には少しだけ笑いが含まれていた。
「申し訳ありません。見張っていたわけではありませんよ」
「ふふ。そこまでは思っておりません。ただ、外へ出れば一人になれると思っていたものですから」
リュシアンは少し迷ってから尋ねた。
「今夜も、そうでしたか?」
言った後で、答えにくいことを聞いたかもしれないと思った。
自分がここにいる。
もし彼女が本当に一人になりたかったのであれば、その時間を奪っていることになる。
ルミエは夜空からリュシアンへ視線を戻した。
「今夜は、一人でなくても静かです」
その言葉だけが、夜風の中へ残り、リュシアンはすぐに返事をできなかった。
何かを足してしまえば、せっかくの言葉が別のものになるような気がしたから。
二人の間に沈黙が落ちる。
図書室とは違う。
本も机もなく夜空が広がり、すぐ向こうには大勢の人がいて、音楽も続いている。
それでも今ここでは、次の言葉を急ぐ必要がなかった。
「先ほどの一曲は、疲れませんでしたか?」
「少しは」
ルミエは答えた。
「でも、知らない方と踊るより安心しました。リュシアン様は、歩幅を急に変えたりなさいませんでしたから」
「そこを評価されるとは思いませんでした」
「大切なことです」
「足を踏まないことと同じくらいに?」
「はい。とても」
真面目な返事だった。
図書室で舞踏の本を読んでいた時と、ほとんど変わらない。
広間では王子の相手として一度も乱れなかった少女が、ここでは舞踏について、足を踏まないことを最優先のように話している。
リュシアンは、さきほど聞いた冗談を思い出した。
普段なら、自分から口にするような話ではない。
誰かの役に立つわけでもない。
覚えておく必要もない。
その場で笑って、それで終わる程度の話だ。
だからだろうか。
今は、それを彼女へ話してみたくなった。
今夜のルミエは、ずっと誰かに見られていた。
挨拶を受け、舞踏を申し込まれ、誰かの言葉へ返事をしていた。
せめて今だけは、何の意味もない話をしたかった。
そして。
できることなら、笑ってほしいと思った。
「ルミエ嬢」
「はい」
「先ほど、広間で聞いた話なのですが」
リュシアンは一度言葉を止めた。
いざ口にしようとすると、思っていた以上にくだらない。
王子として気の利いたことを言うよりも、こちらの方が難しく感じる。
ルミエは何も言わず、続きを待っていた。
「先ほど、ある青年が友人へ自慢していたのです。今夜は一度も、相手の足を踏んでいない、と」
「まあ。それはお上手だったのですね」
「友人もそう思ったようで、何曲踊ったのか尋ねました」
ルミエがこちらを見る。
「すると青年は」
「青年は?」
「一曲も踊っていない、と答えました」
夜風が通った。
ルミエは、きょとんとしていた。
一拍。
二拍。
返事がない。風の音がいやに大きく感じる。
リュシアンは、自分でも分かるほど居心地が悪くなり、少し視線を逸らした。
「……聞いた時には、もう少し面白いと思ったのですが」
その瞬間だった。
ルミエの唇が揺れた。
「……ふふ」
小さな声が漏れる。
リュシアンが顔を上げる。
ルミエは口元へ手を添えていた。
けれど、その手の奥から、もう一度声がこぼれた。
「ふ、ふふ……」
肩が揺れる。
目元が細くなる。
笑いを止めようとしているようだったが、止まらない。
「ルミエ嬢?」
名を呼ぶ。
それがいけなかったらしい。
ルミエがこちらを見た。
目が合った途端、押さえていたものが一気にほどけた。
「あ、はは……っ。ふふ、ふふふ……!」
はっきりとした笑い声だった。
リュシアンは動けなかった。
ルミエは手すりへ片手を置き、少し身体を折って笑っている。
黒髪が肩から滑り、夜風に揺れ、初めて聞いた軽やかで涼しげな笑い声が夜空に溶けていく。
頬に熱が差している。
笑いすぎたのか、瞳の端には薄く涙まで浮かんでいた。
広間で見た微笑みとは、まるで違う。
図書室で小さく笑う時とも違った。
表情の形が崩れている。
声も途中で途切れ、息を吸うたびにまた笑いがこぼれている。
彼女は、こんなふうに笑うのか。
そのことが、なぜか信じられなかった。
ルミエ・ヴァロワはいつも、どこにいても、その場に合った顔をしていたように思える。
相談室でも。
図書室でも。
食堂でも。
舞踏会でも。
けれど今、目の前にいる少女は、そんなことをすっかり忘れてしまったように見えた。
ただ可笑しくて、笑っている。
それだけの少女に見えた。
「……ご、ごめんなさい」
ようやく出てきた言葉も、途中から笑いに崩れた。
「いえ。謝られるようなことでは」
「だって……リュシアン様が、あまりにも真面目なお顔で……」
「話よりも、私の顔の方が面白かったのですか?」
ルミエは答えようとした。
けれど、その前にまた笑った。
リュシアンも、つられて声を漏らした。
自分の冗談が成功したのか。
失敗したからこそ笑われたのか。
もうどちらでもよかった。少しの間お互いの笑い声だけが静かに響く。
「それは少し不本意ですね」
「ふふ……申し訳ありません」
「まだ笑っておられますが」
「だって、リュシアン様がそのようなお話をなさるとは思っていませんでしたから」
「私も、自分がするとは思っていませんでした」
そう答えると、ルミエの目元がまた緩んだ。
今度は先ほどのような大きな笑いではない。
笑った後の余韻だけが残っている。
少し照れたようにも見えるその顔を今見ているのは……自分だけだった。
リュシアンは、先ほど自分が何を望んでいたのかを思い出した。
笑ってほしかった。
だから、慣れない話をした。
彼女は笑った。
たったそれだけのことだった。
それでも、王子として受けたどんな称賛よりも、その事実の方が胸に残った。
「次までには、もう少しましな話を覚えておきます」
「次もあるのですか?」
ルミエが尋ねた。
「許していただけるのであれば」
「では、あまり期待せずにお待ちします」
「期待されない方が気が楽ですね」
「今夜より面白ければ十分ですもの」
「随分と低い基準を置かれてしまいました」
ルミエがまた笑う。
次、という言葉がリュシアンの中へ残った。
次の夜会かもしれない。
図書室かもしれない。
また別の場所かもしれない。
王子として決められた予定の中には存在しない、まだ何も決まっていない時間。
硝子扉の向こうから、控えめな音がした。
アニエスだろう。
時間を知らせるための合図だった。
ルミエも扉へ目を向ける。
「戻らなければなりませんね」
「そうですね」
広間へ戻れば、また多くの視線がある。
挨拶があり、順番があり、王子とヴァロワ家の娘としての立場がある。
ルミエは扉へ向かおうとして、そこで足を止めた。
「リュシアン様」
「はい」
「今のことは、皆さまには内緒にしていただけますか?」
少し困ったような顔だった。
それでも目元には、まだ笑いの跡が残っている。
「ルミエ嬢が笑ったことですか?」
「はい。あのように声を上げるのは、舞踏会では少し恥ずかしいですから」
「もちろん。誰にも申しません」
「ありがとうございます」
ルミエが安心したように微笑む。
リュシアンは、その顔を見てから口を開いた。
「ですが、一つだけ」
「何でしょう?」
「私まで忘れる必要はありませんよね」
ルミエは瞬きをした。
夜風が二人の間を通っていく。
遠くでは、次の曲が始まろうとしていた。
「……ええ」
ルミエは答えた。
「リュシアン様には、覚えていていただいて構いません」
短い返事だった。
けれどリュシアンには、それが二人だけで持っていてよい記憶を渡されたように聞こえた。
ルミエは先に休憩室へ戻った。
アニエスが迎え、髪とドレスを確認する。
少し前まで肩を揺らして笑っていた少女は、すぐにヴァロワ家の娘として広間へ戻っていく。
リュシアンはその後ろを追わず、少し遅れて廊下へ出た。
広間へ戻ると、進行の合間にエレーヌがこちらへ目を向けた。
ルミエとリュシアンが予定していたほどの時間で戻ったことを確かめると、それ以上は何も尋ねなかった。
扉が開けば音楽と灯り、人々の声が戻ってくる。
ルミエはそこへ歩いていった。
近くにいた令嬢へ微笑み、エレーヌの言葉に頷き、声をかけられれば自然に応じる。
先ほどの笑い声は、どこにも残っていないように見えた。
けれど、リュシアンは知っている。
彼女が声を上げて笑うことを。
自分のくだらない話に、形を失うほど笑ったことを。
そして、その夜。
リュシアンは初めて、ルミエを笑わせた。




