『自分の順番』
最初の一曲を終えたあと、ルミエはさらに二度、床へ出た。
どちらもエレーヌの紹介を経てのことだった。
主催家から名を告げられ相手が礼を尽くし、ルミエが応じる。
手順は崩れなかった。だから、広間も崩れなかった。
一度目の相手は、少し年上の令嬢だった。学園に通う生徒の姉とのことだ。
舞踏の相手として女性同士の形を取ることに不自然はなく、むしろ場を柔らかく見せるにはちょうどよかった。
二度目は、学園で何度か顔を合わせたことのある男子生徒で、家格も態度も目立ちすぎない相手だった。
ルミエは、どちらにも過不足なく応じた。
礼をする。
手を取る。
曲に合わせる。相手を見て、見すぎず、距離を保ち、足を踏まない。本人の頭の中では、それだけで手一杯だった。だが、表情も声も歩幅も、広間の中で少しも浮かなかった。
相手が緊張すれば、ルミエの所作は自然と速度を落とした。相手が話題を探せば、返す言葉は短く、しかし相手を困らせない形で出た。相手がもう少し気軽な会話を望めば、返る言葉もそれに沿った。
ルミエ自身からしてみれば身体が、口が、声が、勝手に反応するのは産まれてからずっと置き続けてきたことだ。それでも、外からは当然そうは見えない。
主催者に紹介されれば、”あの”ルミエ・ヴァロワと踊ることはできる。踊り終わった者は品無く騒ぐようなことはしないが、それでもルミエと踊った感想を静かに、しかし、熱く語る。
ますます周囲の期待と熱量は上がっていくが、勝手に近づくことはできない。
その理解が、広間の中へ少しずつ広がっていった。
そして三曲目が終わったところで、アニエスがルミエのそばへ戻った。
「ルミエ様。そろそろ一度、お休みいただいた方がよろしいかと存じます」
「そうね」
ルミエは、短く答えた。
返事は落ち着いていた。けれど、内心ではかなり助かったと思っている。足が痛いわけではない。靴も合っている。ドレスが重すぎるわけでもない。けれど、踊るというのは思っていたより消耗する。何より、ずっと見られている気がするのが疲れる。
「休憩室へご案内いたします」
「お願い」
アニエスが一歩先へ出る。エレーヌの側で控えていた案内役も、すぐに動いた。休憩室への道は最初から用意されている。広間の端を抜けても不自然に見えないよう、声をかける者の位置まで事前に用意されていた。
エレーヌは遠目にそれを確認し、軽く頷いた。
休ませるための線も、必要だった。ルミエが疲れて退いたように見えれば、それだけで広間に余計な解釈が生まれる。
広間を離れ、用意された小さな部屋へ入ると、音は少し遠くなる。扉の向こうに気配は残っているが、直接肌に触れるような視線はない。椅子、低い卓、水差し、軽い菓子、静かな灯り。華やかさは控えめで、けれど粗末ではなかった。
ルミエは椅子に腰を下ろし、ようやく肩の力を抜いた。
「疲れたわ」
それは、広間では出なかった声だった。
それは弱音というほど大げさではなく、慣れないことを続けた少女がようやくこぼした、ごく自然な一言だった。
アニエスは水を注ぎ、ルミエの前へ置いた。
「慣れない場で三曲お相手なさいましたので、当然かと存じます」
「一曲ずつなら何とかなると思ったのだけれど、続くと別物ね」
「次からは、間隔を調整いたします」
「お願い。できれば長めに」
「承知いたしました」
アニエスの返事は、いつも通りだった。
けれど、その目はルミエを見ていた。普段は理知的で、冷静で、時折こちらの予想を軽く外すような茶目っ気を見せる主人。その主人が、自分の前でだけ少し力を抜いているように見える。
それが本当に素なのか。
それとも、こちらが最も信頼したくなる形を選んでいるのか。
アニエスには、今も分からない。
分からない以上、崩れるべきではなかった。踏み込みすぎず、離れすぎず、必要なものを先に用意し、不要な言葉を挟まない。それが自分に許された距離だった。だから、いつもどおりに振る舞う。
「足に痛みはございますか」
「痛くはないわ。疲れただけ」
「では、少しお休みいただければ問題ございません。戻られる前に、髪と裾を確認いたします」
「ええ。お願い」
ルミエは水を一口飲んだ。
ほどよく冷たく飲みやすい。こういうところまで整えてあるのだろう。エレーヌもアニエスも、よくこんなに先回りして考えられるものだと思う。
自分なら途中で面倒になっているし、そもそもそこまで気が回っただろうか。たぶん、無理だ。
そう思いながら、ルミエは少しだけ目を伏せた。
広間では、その間にも流れが変わり始めていた。
ルミエが休憩室へ下がったことで、次を期待していた者たちは今すぐ申し込むことはできなくなった。だが、できない理由は一時的なものだった。先ほどまでに、正しい手順は示されている。主催者を通し、順を待ち、場にふさわしい形を取れば、ルミエと踊ることはできる。
それならば、次にすべきことは明らかだった。
「クラリス嬢」
最初に声をかけたのは、礼法に慣れた子息の一人だった。彼は距離を保ち、声も落としていた。急いでいるようには見せない。だが、言いたいことは分かる。
「もし差し支えなければ、後ほどヴァロワ嬢へご紹介いただけますでしょうか」
エレーヌは微笑みを崩さずに応じた。
「ルミエ様はただいまお休み中ですから、戻られてから様子を見て、という形になりますわ」
「もちろんです。ご無理をお願いするつもりはありません」
そう言って、子息は一歩下がった。
しかし、それで終わりではなかった。
別の令嬢が、少し間を置いて同じように申し出た。さらに、先ほどイザベルに止められた子息も、今度は正しい距離から、主催者へ紹介を願い出た。誰も無礼ではない。誰も順を乱してはいない。だからこそ、扱いが難しかった。
正しい手順を示した以上、それに則った願いをすべて無視するわけにはいかない。
けれど、すべて通せばルミエが疲れる。順番を誤れば、誰を重く見たのかという意味が生まれる。家格、学園での関係、先ほどまでの態度、ルミエの体力、場の流れ。考えるべきことが、一気に増えていた。
エレーヌはそれとなく進行表へ目を落とした。
止めるだけなら簡単だった。
通すとなると、難しい。
その様子を、リュシアンは少し離れた場所から見ていた。
彼の周囲にも、まだ挨拶を望む者はいる。王子として応じるべき言葉もある。だが、広間の流れがどこへ向かっているのかは見えていた。
クラリス家が線を引いた。
若い者たちは、それを理解した。
理解したからこそ、今度はその線の前に並び始めた。
このままでは、エレーヌは選ばなければならない。誰を先に通すのか。誰を待たせるのか。どう断るのか。どう休ませるのか。その判断は主催者のものだが、年若い令嬢が一人で抱えるには少し重い。
ならば、王族が一度そこへ入ることには意味がある。
自国内に生まれうる不和の芽を、早いうちに摘むことも役目の一つだ。
リュシアンは、心の中でそう考えた。
第二王子が正式に申し込めば、他の者は一度引く。王族の一曲として扱えば、特定の家を重く見たという偏りは薄まる。自分の後に踊る者たちも多少は考慮や遠慮をするだろう。
ヴァロワ家の娘を軽く扱わないという示しにもなる。主催者が作った順番を壊すのではなく、その順番を通って申し込めば、この場の品位も保てる。
それに、ルミエは休憩を挟んでいる様子だ。
今なら、無理を押しつける形にはなりにくい。
理由はあった。
十分すぎるほど、理由はあった。
リュシアンは、そう結論づけた。
自分がルミエと踊りたいと考えているということを度外視して。そう結論づけたあとで、ようやくエレーヌの方へ歩いた。
彼が動くと、広間の視線がわずかに揺れる。大きなざわめきにはならない。だが、誰も気づかないということもなかった。自然とリュシアンの歩みを妨げる位置にいるものは道を開ける。
リュシアンは、エレーヌの前で足を止めた。
「クラリス嬢」
「殿下」
エレーヌは、主催者として礼をした。
リュシアンもまた、そこで無理に距離を詰めなかった。王子として命じるのではなく、この場の主催者へ申し出る形を取る。それが必要だと分かっていた。
「差し支えなければ、次の一曲をルミエ嬢にお願いしたいのですが、ご迷惑でしょうか?」
丁寧な声だった。
王子の命令ではない。けれど、第二王子の申し出であることに変わりはない。その場にいた者たちは、自然と口を閉じた。先に紹介を願い出ていた者たちも、ここで自分を先にとは言えない。では、その後に、とも言えない。
リュシアンは割り込んでいない。
主催者を通している。
そして、王族である。無理に押し通らなくとも、その申し出には場を動かすだけの重さがあった。
誰も、文句を挟めなかった。
エレーヌは一瞬だけ考えた。
断る理由はない。むしろ、この申し出は助かる。今この場で誰か一人を選ぶより、リュシアンの一曲を挟む方が流れを整理しやすい。王族が正式な順を通ったことも、他の者への示しになる。
ただし、目立つ。
ルミエとリュシアンが踊る。それは、ただの一曲では済まないかもしれない。けれど、すでに二人の自然な挨拶を見ているエレーヌには、ここで無理に避ける方がかえって不自然にも思えた。
「承知いたしました。ルミエ様が戻られましたら、確認いたします」
「ありがとうございます」
リュシアンは、穏やかに礼を返した。
そのやり取りだけで、広間の流れは一度決まった。
休憩室から戻ったルミエは、空気が少し変わっていることにすぐ気づいたわけではなかった。髪と裾を整えられ、少し足も休め、ようやく広間へ戻ったところである。できればもう少し休みたかったが、それを言い続けても予定は進まない。広間へ戻るべき場面になれば、身体はきちんと戻るための姿勢を取ってしまう。
連絡係から何かを伝えられたアニエスが、ルミエの耳元で声を落とす。
「ルミエ様。リュシアン殿下より、次の一曲のお申し込みです」
「リュシアン様が?」
ルミエは思わず聞き返した。
「はい。主催家を通してのお申し込みです。順序として問題はございません」
「そうね」
知らない相手よりは、ずっとましだった。
図書室で何度も話している。会話の間が妙に苦にならない相手でもある。もちろん、王子である以上、足を踏んだら最悪だろう。広間中に見られるだろうし、たぶん今までで一番目立つ。
ただ、それでも、まったく知らない相手よりはいい。
「断る理由は?」
「現時点ではございません。ただし、お疲れが強いようでしたら、私からお伝えいたします」
「大丈夫よ。少し休んだもの」
それは本当だった。
もう一曲分くらいなら、たぶん大丈夫だ。たぶん。
アニエスはそれ以上言わず、一歩引いた。
エレーヌが近づき、正式に申し出を伝える。ルミエはそれを受けた。返事は短く、しかし広間の中では丁寧に響いた。本人の内心が「たぶん大丈夫」で止まっていても、声も姿勢も、そのようには見えなかった。
リュシアンが歩み寄る。
彼はルミエの前で足を止め、丁寧に礼をした。
「ルミエ嬢。休憩の後に申し込むのは、少し急だったでしょうか。ご迷惑でしたか?」
声は穏やかだった。
王子として上から許可を与える声ではない。広間の中にいる一人の青年として、しかし礼を崩さずに尋ねる声だった。
「いいえ。少し休ませていただきましたから」
ルミエはそう答えた。
本当は、もう少し休んでもよかった。けれど、それをここで言うものではない。そもそも、先ほどよりは確かにましなのだ。
リュシアンは、少しだけ表情を和らげた。
「それならよかった。では、一曲お願いできますか」
「はい。よろしくお願いいたします、リュシアン様」
ルミエは、差し出された手を取った。
その瞬間、広間の視線が集まる。
けれど、それは乱れた視線ではなかった。主催者を通し、申し込みを受け、礼法に従って床へ出る。形は整っている。だからこそ、誰も声を上げず、誰も止めなかった。
曲が始まる。
最初の一歩で、ルミエは内心だけで息を整えた。相手はリュシアンである。足を踏むわけにはいかない。手順を間違えるわけにもいかない。見られている。とても見られている。できれば、楽師にはあまり難しい曲を選ばないでほしい。
だが、身体の方は迷わなかった。
リュシアンの歩幅に、自然と合う。手の位置も、視線の高さも、近づきすぎない距離も、広間の中で過不足のない形に収まっていく。ルミエ本人は、次の足運びを忘れないようにしているだけだった。けれど外から見れば、彼女は王子の相手として、少しも気後れしていないように見えた。
リュシアンは、それをすぐ近くで感じていた。
先ほどまで見ていた踊りとは違う。自分が相手だから分かることがある。ルミエは、王子である自分に媚びない。かといって、王子としての形を乱させることもない。何かを求めない。何かを押しつけない。ただ、こちらの速度に合う。
図書室と同じだった。
場所も音も視線も違う。だが、こちらに過剰な答えを求めてこないところだけは同じだった。
「ずいぶんとお上手ですね」
リュシアンが、曲の流れを乱さない程度の声で言った。
ルミエは、決められた向きへ身体を移しながら答える。
「そうでしょうか」
「ええ。先ほどの一曲も、皆が見ていました」
皆が見ていた。
それは、できれば聞きたくなかった情報だった。
ルミエは内心で少しだけ遠い目をした。やはり見られていたのか。いや、見られていないはずはないのだが、言葉にされると困る。
けれど、外に出た表情は穏やかだった。
「足を踏まずに済みましたので」
リュシアンは、一瞬だけ目を細めた。
笑い出すほどではない。だが、声にならない笑みがそこにあった。
「ええ。変わらず、大切なことですね」
「はい。とても」
図書室での会話に思いをはせているようにルミエは楽しそうにほほ笑んだ。二人しか知らない図書室での静かな時間が、この衆目にさらされた広間で、形だけを変えて続いているようで、リュシアンには少しおかしかった。
広間の中で、ルミエは整っている。王子の相手として破綻しない。周囲の視線を受けても乱れない。だが、その奥に、図書室で本を前にしていた時と同じ軽さが見え隠れする。
リュシアンは、そこから目を離せなかった。
周囲は、二人を見ている。
エレーヌは、広間の端で静かに息を詰めるようにしていた。二人の踊りは華美ではない。人目を奪うような熱もない。けれど、不自然なほど自然だった。王子と商家の娘という距離が、礼法の中に収まりながら、どこか最初からそこにあったように見える。
今夜の挨拶の時も、そうだった。
何かがある、と断じるには早い。けれど、何もないと言うには、二人の間は静かすぎた。
イザベルは、扇を閉じたまま見ていた。
リュシアン殿下が主催者の順を通した。そのことが、まず正しい。ルミエがその申し込みに応じ、王子の相手としても場を乱していない。そのことも、正しい。順番は守られ、広間は崩れていない。
それならばよい。
そう思う一方で、イザベルは、ルミエの足運びから目を離せなかった。以前の練習で見た形が、今、王子の前でも崩れていない。共に積んだものが、確かに広間の中で形になっている。
アニエスは、二人ではなく、ルミエの呼吸と足運びを見ていた。
今すぐ止める必要はない。だが、この曲が終わったら、もう一度休ませた方がよい。王子との一曲は、身体だけでなく場の重さも違う。ルミエが表に出さないものを、あるいは出せないものを予定の側で補うのが自分の役目だった。
曲は、静かに終わりへ向かっていく。
最後の回りで、リュシアンの手がほんの少しだけルミエを導いた。ルミエの身体はそれに合わせ、決められた位置へ戻る。足は踏まなかった。手順も、おそらく間違えていない。
「随分と練習されたのですね」
「ええ、大変でした」
ルミエは、少し困ったように笑った。
当然ですとも言わず、過度に謙遜もしない。その答えは、リュシアンには好ましかった。
リュシアンはふと思った。
自覚と呼ぶほどはっきりしたものでもなく、ほとんど無意識に。
まだ、終わらないでほしいと。
しかし、当然に終わりは来る。奏でられる曲が徐々に静かになっていき、余韻を残し終わった。
その事実に、ルミエは内心でかなり安堵した。
二人は礼を交わす。
「ありがとうございました、ルミエ嬢」
リュシアンの声は、最後まで丁寧だった。
「こちらこそ、ありがとうございました。リュシアン様」
ルミエもまた、過不足なく礼を返した。
周囲には、きちんとした王子と、礼を知るヴァロワ家の娘の挨拶に見えた。主催者の順を経て、正しく申し込まれ、正しく終わった一曲。それ以上でも、それ以下でもないように見えた。
けれど、リュシアンには少し違っていた。
広間の灯りの下で、彼女はまた誰かの手を取った。
礼法の中に収まり、主催者の順に従い、誰から見ても整った一曲だった。
それでもリュシアンには、その時間だけが、図書室のひと時に似ているように思えた。




