『紹介の順番』
最初の曲が、広間の熱を少しだけ落ち着ける。
若い者たちが床へ出て、決められた歩幅で距離を取り、礼を交わし、音に合わせて動き始める。
それだけで、先ほどまで散っていた視線のいくつかは自然にそちらへ向いた。誰が誰に近づくのかを測っていた者たちも、まずは曲を見るしかない。
ルミエは、アニエスのそばでその様子を眺めていた。
練習場で見た時より、広間で見る舞踏はずっと滑らかだった。床の広さも、灯りの当たり方も、衣擦れの音も違う。同じ足運びのはずなのに、見ているだけで難しそうに思える。あの中へ自分も入るのかと思うと、できればもう少し先であってほしかった。
最初ではないのはかなりありがたい。
考えることは多かったが、少なくとも今は、目の前の者たちを見ていればよい。
「ご不安があれば、今のうちにお伝えください」
アニエスが、声を落として言った。
その口調はいつも通りで、広間の華やかさに混じっても浮かなかった。ルミエのドレスの乱れ、立つ位置、周囲の距離、次に動くべき方向。そういうものを、言葉に出さずに一つずつ確認している顔だった。
「今のところは大丈夫。見ているだけだから」
「承知いたしました。床へ出る際には、こちらからお声がけいたします」
「ええ。お願い」
そう返しながら、ルミエは内心で思った。
できれば、その声がけはずっと先であってほしい。場合によってはなくてもいい。
もちろん、それを口に出すほどではない。出したところで、今夜の予定が変わるわけでもない。招かれた以上、最低限のことはしなければならない。礼法教師にも、練習の成果を無駄にしないようにと言われている。無駄にしたいわけではないが、できれば誰か別の人が有効活用してほしい。
曲が半ばを過ぎるころ、広間の緊張は少しほどけていた。
踊っている者たちは破綻なく動いている。見ている者たちは、曲の終わりと次の流れを意識し始めている。会話は戻ってきたが、先ほどのようにルミエへ向かって細く集まる気配は抑えられていた。
エレーヌは、それを見ていた。
止めるだけでは、場は閉じる。近づけないままにしてしまえば、ルミエを守ることはできても、今宵の意味は半分になる。いずれ、エレーヌの手が及ばぬ形で別の機会が設けられるだけだろう。必要なのは、拒む線ではなく、通すための線だった。
誰でもよいわけではない。早すぎてもいけない。けれど、誰も近づけないのでもない。
最初の曲が終わる少し前、エレーヌは案内役へ目配せした。案内役は静かに頷き、広間の一角へ向かう。そこには、先日の合同復習会にも参加していた生徒がいた。
誰が参加し、誰と踊り、どのような態度だったかは、事前に報告を受けていた。
復習にも真面目に参加しており、官僚家に連なる家の子息で、舞踏も礼も大きく外すことはない。目立ちすぎず、軽すぎず、ルミエを面白がって近づくような者でもない。何よりも一度、練習とはいえルミエと踊っている。
エレーヌにとって、最初の相手としては扱いやすかった。
曲が終わり、床へ出ていた者たちが礼を交わす。拍手が控えめに広がり、その余韻がまだ残っているうちに、エレーヌはルミエの方へ歩いた。急がず、しかし周囲に意図が見える速さで。
エレーヌが近づいてくるのに合わせて少しだけ直るルミエの姿勢。
何か来た。
たぶん、来てしまった。
「ルミエ様」
アニエスが、先に小さく告げた。
「あの方は先日の合同復習会でも踊った方です。主催家からのご紹介を経てのお申し込みとなりますので、順序としては問題ございません」
「そう」
知らない相手ではないらしい。踊ったと言われればそんな気もする。
名前まではすぐに出てこないが、顔には見覚えがあった。踊った時にも問題はなかったし、練習会の時に礼法教師から大きな注意を受けていなかった……はずだ、多分。
少なくとも突然変な動きをする可能性は低い。
「断った方がいい理由はある?」
「現時点ではございません。ご負担が強いようでしたら、私から休憩の必要をお伝えいたします」
「なら、大丈夫そうね」
ルミエはそう言って、エレーヌを迎えた。
エレーヌはルミエの前で足を止め、柔らかく微笑んだ。その笑みは友人へ向けるものでもあり、主催者として場へ向けるものでもあった。
「ルミエ様。よろしければ、次の曲のお相手をご紹介してもよろしいでしょうか。先日の合同復習会でもご一緒された方です」
「ええ。お願いします」
ルミエの返事は短かった。
ただ、その短さは広間には別のものとして届いた。過度に気負わず、主催者の進行を信頼しているように見えた。エレーヌが用意した順番を、疑わず受け入れているように見えた。
実際のルミエは、エレーヌが選んだ相手なら大きな問題は起きないだろう、という程度に考えていた。
エレーヌは生徒を招いた。
彼はルミエの前まで来ると、若干緊張している様子だったがしっかりと礼をした。
広間にいる者たちにとっては主催者が直接ルミエに紹介した相手。順番を経た相手。そのことが、何より大きかった。
エレーヌは、彼の名と家を告げた。
ルミエは、それを聞きながら礼を返す。名前は覚えた方がよい……のだろうが、これから踊るのだから余計なことは覚えておきたくないし忘れる気がする。
後でアニエスに確認した方が確実だろう。
「先日の会では、失礼いたしました」
「失礼など、ありませんでしたよ」
ルミエは答えると彼はわずかに表情を和らげる。実際には、彼はあの時、自分の歩幅が少し大きすぎたことを気にしていた。礼法教師に指摘されたほどではない。だが、彼自身は覚えていた。ルミエが覚えていないのか、気にしていないのか、それとも気にしない形にしてくれたのかは分からない。
分からないから、都合よく受け取る余地が生まれる。
「次の曲を、お相手いただけますか」
申し込みは、正しい手順で行われた。
ルミエは、ほんの一拍だけアニエスを見た。アニエスは何も言わず、ただわずかに頷いた。問題なし。そういう合図だった。
「はい、ぜひ。よろしくお願いします」
ルミエがその手を取るとその瞬間、広間のいくつかの視線が動いた。
誰かが驚いたわけではない。誰かが声を上げたわけでもない。むしろ、すべては礼法通りだった。主催者が紹介し、相手が申し込み、ルミエが受けた。それだけのことだった。
けれど、その『それだけ』が重要だった。
先ほどまで届かなかった場所へ、正しい順を経た手だけが届いた。ルミエは拒まれたのではない。隠されたのでもない。ただ、勝手には近づけないのだと示されたあとで、正式に床へ出された。
エレーヌは、その流れが乱れなかったことを確認して、静かに一歩下がった。
イザベルは、少し離れた場所からそれを見ていた。
主催者が紹介した。相手が礼を尽くした。ルミエが受けた。順番は守られている。誰も先を争わず、誰も無理に踏み込まず、場は定められた形に沿って動いている。
それでよい。
そうあるべきものが、そうあるべき形で置かれている。イザベルにとって、それは何より落ち着く眺めだった。
楽師が次の曲を始める。
ルミエは、彼とともに床へ出た。
最初の一歩を踏み出す前に、軽く礼をする。手の位置を確認する。距離を間違えない。相手を見る。見すぎない。練習の時に言われたことを、頭の端に一つずつ並べる。
曲が動き出すと、足は思ったより自然に進んだ。
もちろん、楽しいというほどではない。練習通りに動けばよいと分かっていても、広間で実際に音に合わせるのは別だった。布が揺れ、灯りが視界の端を流れ、周囲の視線が肌に触れるような気がする。
ただ、相手は無理に引っ張らなかった。
彼は、少し緊張している。ルミエには、それがはっきり分かったわけではない。ただ、手に力が入りすぎていないか、歩幅が合っているか、自分が遅れていないかを考えるうちに、身体は自然と相手の動きに合わせてくれる。
彼にはそれが別のものに見えた。
急かされていない。試されていない。自分の緊張に気づいて、歩幅を合わせてくれている。そう受け取った。あの日のように。
実際には、ルミエは自分が転ばないように必死なだけだが、外から見れば、ルミエの所作は相手を立てる落ち着きに見えた。
「……ありがとうございます」
「何がでしょうか?」
曲の途中でそう言われてルミエは、決められた向きへ回りながら聞き返した。
「こちらの歩幅に合わせてくださっているので」
「ふふ、そちらがしっかりと導いてくださっているからです」
必死な内心と異なり微笑みも返す言葉も適切だ。ここは礼を返すところなのだから。
「私も、まだ慣れておりませんから。合わせていただけて助かります」
彼は一瞬だけ目を見開いた。
それは、こちらの未熟さを隠さず、同じ場所へ降りてきてくれた言葉に聞こえた。自分だけが緊張しているのではない。相手も慣れていないと言ってくれた。そう思うと、肩に入っていた力が少し抜けた。動きは先ほどより滑らかになった。手の力も少し抜ける。
曲は静かに進んでいく。
広間で見ていた者たちは、ルミエが華やかに舞っているとは思わなかった。目を奪うような技巧があるわけではない。誰よりも軽やかに回るわけでもない。だが、乱れなかった。相手を置いていかず、相手に引きずられず、曲の中に自然に収まっていた。
初めて床へ出た少女としては、十分すぎるほどだった。
エレーヌは、その様子を見ながら、胸の奥で細く息を吐く。
止めるための線だけではない。通すための線でもある。そうでなければ、ルミエはいつまでも守られるだけの場所に置かれてしまう。けれど、今、彼女はこうして皆の前で踊っている。
しかも、主催者の順に従い、相手を乱さず、誰の面目も傷つけていない。
場は進んだ。
エレーヌはそう判断した。
アニエスは、床の外からルミエを見ていた。表情は変わらない。ただ、曲の拍とルミエの足運び、戻ってくる位置、次に休ませるべきかどうかを見ている。少なくとも、今すぐ中断する必要はなさそうだった。
イザベルは、扇を持つ指に少しだけ力を入れた。
乱れていない。共に何度も踊り練習をしたのだから。彼女が真摯に学び己を磨いたことの証左だった。
その事実が、彼女を静かに満たしていた。何よりも、ルミエが誰と踊ったかよりも、どう踊ったかよりも、順番が守られ、場が崩れなかったことが大切だった。彼女は期待された場所に置かれ、期待された形を返している。
やはり、そうなのだ。
イザベルは、その言葉を胸の内でだけ繰り返した。
リュシアンもまた、床の外にいた。
彼の前には、まだ挨拶を待つ者がいる。王子としての役目は消えない。彼が一歩動けば、周囲の順番も意味も少し変わる。それは分かっていた。
だから、動かないし動けない。
止まったまま、ルミエが踊るのを見ていた。
図書室では見なかった姿だった。けれど、まったく知らない姿でもなかった。彼女は広間の中心で輝こうとしているわけではない。相手を導こうとしているわけでもない。ただ、その場に置かれた形に、静かに収まっている。
そして、不思議なことに、その収まり方が相手の方を少し楽にしている。
リュシアンは、そこに図書室のルミエを少しだけ見た。
押しつけてこない。急かしてこない。こちらが王子らしい答えを返すまで待ち構えているわけでもない。彼女はただ、そこにいる。なのに、不思議と心が軽くなるのだ。
曲が終わりに近づく。
彼は最後まで大きく乱れずルミエも足を踏まなかった。最後の礼を交わした時、彼の顔には、踊り始める前よりもはっきりした安堵があった。
「お相手いただき、ありがとうございました」
「こちらこそ。ありがとうございました」
ルミエは軽やかに、丁寧に礼を返した。
本当に足を踏まずに済んだ。そこが何より大きい。相手も無事だったし、自分も無事だった。ならば、十分だ。
二人とももう一度礼をして下がった。そこには、先ほど申し込んだ時とは違う落ち着きがあった。大きな憧れでも、浮ついた好意でもない。けれど、彼はきっと、今日の一曲を悪くは思わない。
ルミエは、アニエスのそばへ戻った。
「問題ございませんでした」
アニエスが短く言う。
「そう。よかった」
ルミエは小さく息をついた。今度は外に出してもおかしくない息だった。
「少しお休みになりますか」
「できるなら。もう一回すぐに踊るのは少し」
「では、次の流れを確認いたします」
アニエスはそう言って、すぐに周囲へ視線を巡らせた。
広間の空気は、曲の前とは少し違っている。
ルミエが踊れることは、もう示された。踊ってよいことも。
主催者の紹介を経れば、彼女の手を取ることができる。それを見た者たちは、次の順番を考え始めている。
エレーヌは進行表へ目を落とした。
まだ急がない。
急がないが、止めたままにもできない。場は動き出した以上、次の流れを求める。彼女は記された名の並びを見て、ほんのわずかに指先を止めた。
リュシアンは、曲が終わるまで動かなかった。
動かないまま、ルミエが礼を返すのを見ていた。
今はまだ、自分の順ではない。
そう分かっているからこそ、彼は静かに待った。




