『順番の作法』
広間のざわめきが、一度だけ薄くなった。
声を張り上げた者がいたわけではない。エレーヌが、広間の中央より少し脇へ進み出ただけだった。クラリス家の令嬢として、この場を預かる者として、彼女は招待客の視線が自分へ向くのを待った。
急かす必要はない。待つことそのものも、主催者の作法の一つだった。
視線がそろったところで、エレーヌは口を開いた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
エレーヌの声は、広間の奥まで届くほどには明るく、しかし浮き立ちすぎてはいなかった。年若い者たちの集まりであっても、ここはただ遊ぶためだけの場ではない。家と家が互いを見て、学園での縁を少し外へ広げ、礼法と舞踏を確かめる場所でもある。
表向きは。
「今宵は、学園でご縁のある皆さまに、少し肩の力を抜いて交流していただくための席です。家や立場、国の違いはありますけれど、だからこそ、同じ広間で同じ曲を聞く時間には意味があるのだと思っております」
そこで、広間の何人かが小さく頷いた。留学生の一人は、隣に立つ令嬢と視線を交わしている。官僚家の子息は、姿勢を直しながらも、視線だけは主催者の顔から離さなかった。
エレーヌは、ルミエの名を出さなかった。
出す必要はなかった。出さなくとも、多くの者がどこを意識しているのかは分かっていた。
広間の端に近いが隅ではない場所。アニエスの近くに立つ、深い紫色のドレスの少女。
ヴァロワ家の娘であり、学園で何度も人の口に上った者であり、先ほど第二王子とごく自然に挨拶を交わした少女。
ルミエは、前へ出されてはいなかった。主賓のように飾られてもいない。ただ、そこにいるだけだった。
それでも、人の意識は彼女の方へ寄っていく。
エレーヌは、その流れを感じ取りながら、表情を変えなかった。ここでルミエを隠しすぎれば、かえって不自然になる。かといって、誰もが好きに近づけるようにしてしまえば、この場を用意した意味がない。
大切なのは、見えること。けれど、届くには順番があること。
「最初は、皆さまご存じの方同士で構いません。けれど、どうか今宵は、まだ言葉を交わしたことのない方とも、一言ずつ、あるいは一曲、交流を持っていただければ幸いです。舞踏も会話も、相手を知るための作法なのですから」
短い挨拶だった。
長すぎれば、若い者たちの緊張は固くなる。短すぎれば、ただの遊びになる。エレーヌは最後に軽く会釈をし、広間の端に控える楽師たちへ目を向けた。
曲は、まだ始めさせない。
まずは歓談。誰が誰へ、どう近づくのか。そこを見なければならなかった。
挨拶が終わりエレーヌが一歩下がるとざわめきが戻った。
先ほどよりも少しだけ柔らかいざわめき。けれど、その中に、細い糸のような緊張が混じっている。誰もが笑みを浮かべている。誰も声を荒らげていない。だが、視線だけは正直だった。
ルミエは、アニエスの隣で、心の中だけで小さく息をついた。
挨拶は短かった。そこは助かった。もっと長く、家や国や礼法について話されるのかと思っていたが、エレーヌは必要なことだけを言って下がった。この手の挨拶を聞く場は、どうにも億劫だった。
「まだ踊りは始まらないのね?」
前回の夜会は入ってすぐに本番とばかりに色々な人々から挨拶や会話を求められたものだが、今回はそうではないらしい。楽団はまだ演奏を開始しない。
ルミエが小さく言うと、アニエスはいつも通りの表情で頷いた。
「はい。最初はご挨拶を交わす時間ですので、無理に動かれる必要はございません」
「それならしばらくはこのままね」
少し楽かもしれない、とルミエは思った。
踊りは本当にやりたくなかったが練習して足を踏まない程度にはできるようになったはずだ。おそらく。
少なくとも、礼法教師は大きな問題があるとは言わなかった。けれど、練習場と広間は違う。見ている人数も違う。誰と踊るのかもまだよく分からない。正直な話、もう帰りたい。
ルミエがそう考えている間に、広間の反対側で一人の青年が動いた。
濃紺の上着に、銀糸の細い刺繍。年齢はリュシアンより少し上か、同じくらいに見える。貴族の子息か、有力な官僚家か、それとも商家に近い家の者か。少なくとも、この場にいる以上、学園か招待客の縁につながる人物なのだろう。ルミエには見覚えがなかった。
ただ、彼の歩き方は丁寧で、あからさまな無礼はない。
青年は、真っすぐルミエへ向かったわけではない。途中で知人に会釈し、近くの令嬢に一言声をかけ、自然な流れの中で少しずつ距離を詰めていた。
見る者が見れば急ぎすぎている。けれど、咎めるほどではない。だからこそ、止めにくい動きだった。
エレーヌはそれを視界の端で捉えた。
案内役へ合図を送るにはまだ早い。
主催者が表から止めてしまえば角が立つ。
アニエスはルミエの傍にいるが、あくまでもルミエ付きの補佐役だ。彼女が主催者側の者のように前へ出て青年を止めるのは、かえって無礼とも言える。
どうしたものかと考えたその時、イザベルが一歩だけ動いた。
動きは大きくない。けれど、彼女が立つ位置が変わっただけで、青年の進路はわずかに細くなった。イザベル・ド・ヴェルディエは、いつもどおりで、広間の灯りを受けても浮ついて見えない。背筋を伸ばし、相手が近づくのを待つ。
青年は足を止めた。
「これはこれは、ヴェルディエ嬢」
「ごきげんよう」
イザベルは丁寧に会釈した。声は穏やかで、咎める調子はない。だが、通すつもりもなかった。
「ヴァロワ嬢へご挨拶をと思ったのですが」
「ええ。ご挨拶は大切です」
イザベルは微笑んだ。
青年の表情に、わずかな安堵が浮かぶ。だが、それは次の言葉で止まった。
「けれど、ヴァロワ様はまだ主催家からのご紹介も済んでおりませんもの。順を経てからの方が、どなたにとってもよろしいのでは?」
青年は、即座には返せなかった。
無礼だと言われたわけではない。近づくなと言われたわけでもない。ただ、順番を示されただけだった。だからこそ、反論のしようがない。
「……失礼。確かに少し急ぎました」
「急ぐ必要はありませんわ。今宵は、皆さまと言葉を交わすための席ですもの」
イザベルはそこで、ほんの少しだけ視線を横へ流した。ルミエを見るのではない。広間全体を見る視線だった。
「せっかくの場なのですから。順を乱さずとも、ご挨拶の機会はございますわ」
青年は一拍置いてから、礼をした。
「失礼いたしました。では、改めての機会を待ちましょう」
「その方が美しいと思いますわ」
イザベルの言葉に、青年は苦笑に近い笑みを返し、別の輪の方へ向かった。
それだけのやり取りだった。
声を荒らげた者はいない。誰も恥をかかされていない。青年は退けられたが、排除されたわけではない。後で紹介されれば、きちんと挨拶できる余地は残った。
イザベルはそれ以上追わず、何事もなかったように近くの令嬢へ声をかけた。
エレーヌは、胸の中で息を吐いた。
機能している。
用意した休憩室も、招待客の選び方も、案内役の位置も、アニエスへの頼みも、すべてが一つの形になっている。もちろん、すべてが思い通りというわけではない。人が集まれば、思った通りにだけ動くはずがない。それでも、線は引けていた。
越えようとした者がいた時、誰かが礼法として止める。止められた者は、退けられたのではなく、順番を待つ者になる。
それなら、この場はまだ保てる。
クラリス家の案内役が、別の客へ柔らかく声をかけた。
「こちらで、先ほどのお話の続きをなさってはいかがでしょう。カルヴァーニアからお越しの方も、魔石灯の意匠にご興味をお持ちだと伺っております」
流れが少し変わる。先ほどルミエの方へ寄りかけていた数人の視線が、自然に別の話題へ散った。
展示準備会にも参加していた留学生の一人が、ほっとしたように笑みを作る。別の令嬢が、興味深げに身を乗り出した。
ルミエは、そのやり取りをぼんやり眺めていた。
イザベルは今日もきちんとしている。あの人は、どこにいても場の形を崩さないのだなと思う。以前の舞踏練習でもそうだった。歩幅、目線、手の位置、始める前の一礼。すべてに決まった形があり、その形に従っていると、迷うことが減る。
ルミエにとって、礼法はありがたいものだった。考えることが少し減るからだ。
「ヴェルディエ様はやはり規律を重んじる方ですね」
「そうね」
アニエスの言葉にルミエは素直に頷いた。
イザベルが何を止めたのか、ルミエは正確には分かっていなかった。誰かがこちらへ来ようとして、途中で別の話になった。それくらいの認識だった。ただ、イザベルがいれば変なことにはならなそうだ、とだけ思う。
そのルミエの横顔を、少し離れた場所からリュシアンが見ていた。
彼の前には、すでに二人の子息がいた。どちらも礼を尽くしている。家の名を告げ、今夜、こうして改めて挨拶ができたことの喜びを述べ、学園での話題を慎重に選んでいる。
リュシアンはそれに一つずつ応じた。王子として、雑には扱えない。
けれど、視界の端にはルミエがいた。
彼女は、広間の中央にいない。誰かに囲まれてもいない。アニエスの近くで、時々短く頷いているだけだ。それなのに、場の流れは彼女を避けていない。むしろ、彼女へ向かおうとする流れがあり、それを周囲が礼法として受け止めている。
リュシアンは、クラリス家の用意した場を理解した。
これは、誰かを飾るためだけの席ではない。若い者たちを集め、交流させるための場であると同時に、近づき方を覚えさせる場でもある。
ヴァロワ家の娘へ、ただ興味だけで手を伸ばしてはいけない。王族がいるからといって、場の順がすべて王族に寄るわけでもない。上級貴族の令嬢がいるからといって、商家の娘を低く置けばよいわけでもない。
クラリス家は、その面倒な均衡を、若い者たちにも分かる形で置いている。
リュシアンは、その慎重さを少し面白いと思った。
図書室では、こんな順番を意識する必要はなかった。
本を取る。席を選ぶ。短く話す。沈黙する。それでよかった。しかしこの場では当然違う。同じ相手に声をかけるにも、場があり、順があり、誰かの目がある。
それでも、ルミエはルミエのままだった。
彼女は、誰かの中心に立っている顔ではない。何かを背負って見せようともしていない。アニエスに何か言われ、軽く頷いている。その姿は、広間の熱を集めながら、どこか少しだけ外れていた。
「殿下」
呼びかけられ、リュシアンは視線を戻した。
「失礼。続けてもらえるかい?」
相手の子息は、少し緊張した様子で話を再開した。リュシアンはそれを聞きながら、今はまだ動かないと決めた。
動けば、場が変わる。そして、場を変えるには時機というものがある。
それは王子として、よく知っていた。
広間の奥で、楽師が楽器を持ち直した。弓が弦に触れる前の、ごく短い沈黙が生まれる。エレーヌはその沈黙を受け取り、案内役へ目配せした。
最初の曲に出る者は、すでに決めてあった。
クラリス家に近い令嬢と、学園でも礼法に慣れた子息。続いて、別の組が一歩後ろに控える。場を温め、緊張をほどき、まだ互いに様子を見ている者たちに、今夜の速度を示すために事前に依頼していた組み合わせだった。
ルミエではない。
それに気づいた者たちの間に、少しだけ息が戻る。ある者は安堵し、ある者は残念そうに視線を下げ、ある者は次の順番を考え始めた。
ルミエは、最初の組が床へ出るのを見ていた。
綺麗な所作だと思う。練習で見た動きより、広間で見る方がずっと滑らかに見える。自分もあのようにできるだろうか。足を踏まないように。手の位置を間違えないように。途中で順番を忘れないように。
考えることは多い。
多すぎるので、ルミエは一度考えるのをやめた。
「これも配慮でしょう。最初からルミエ様を床へ出すつもりはないようです」
「それは助かるわ。練習したと言っても限度があるもの」
ルミエは頷いた。
その返事は少し茶目っ気が込められていたが、アニエスには、こちらの言葉を信じて身を預けてくれたように見えた。
エレーヌには、主催者の順番を乱さず待つ礼儀として見えた。
イザベルには、場の形に従う自然な姿として見えた。
リュシアンには、まだ誰の手も取っていない少女として見えた。
最初の音が、広間に落ちた。
若い者たちが、決められた順に床へ出ていく。布が揺れ、靴音が軽く重なり、会話のざわめきが一段低くなる。誰もが曲を見ているようでいて、すべての意識が曲だけに向いているわけではなかった。
ルミエはまだ、アニエスのそばにいた。
それは主催者が決めた順番であり、少なくとも現時点でその順番を乱す者はいなかった。
広間は、曲に合わせて動き始める。
ルミエはまだ、床へ出ていなかった。
誰も急がない。けれど、次に彼女が誰の手を取るのかを、忘れている者もいなかった。




