『席の距離』
昼の食堂は、思っていたよりも騒がしかった。
午前の相談室業務を終えたルミエは、職員寮へ戻る前に少しだけ足を止めていた。廊下の先から、温かいスープの香りが流れてくる。
前日の舞踏練習の疲れはまだ足に残っていて、階段を降りるたびに、それまで意識していなかった筋肉が小さく主張していた。
本当は、部屋で静かに食べてもよかった。
けれど、温かいものは少し魅力的だった。食堂であれば、軽い昼食もすぐに取れる。午後の来訪予定は多くない。
早めに済ませてしまえば、少し休む時間も作れる。
「……温かいものだけ」
誰に言うでもなく呟いて、ルミエは食堂へ入った。
王立ヴァルテール学園の食堂は広い。長い卓がいくつも並び、奥には注文を受ける台があり、頼んだ食事は後から配膳係が席へ運んでくれる。貴族の屋敷の食卓ほど形式ばってはいないが、町の食堂ほど雑然ともしていない。
けれど、席には目に見えない線があった。
窓際には、家格の高い生徒たちが集まりやすい。中央には、官僚家系や成績上位の生徒が多い。配膳口に近い側には、商会やギルド関係の生徒たちが座ることが多い。壁際の少し落ち着いた場所には、留学生が数人まとまっている。
誰が決めたわけでもない。
席札もない。
教師が指示しているわけでもない。
食堂の規則にも、そんなことは書かれていない。
それでも、毎日座っていれば分かるのだろう。どの席が誰のもののように扱われているか。どこへ座れば目立つか。どの卓へ近づくと、話しかけるつもりがなくても意味が生まれてしまうか。
ルミエは、そういうものを見て、少し疲れた。
(ご飯を食べる場所なのに)
もちろん、それだけでは済まないのだろう。食堂も学園の一部であり、学園はただ勉強する場所ではない。立場ある者たちが、互いの距離を覚える場所でもある。
ルミエにも、この学園にしばらくいれば、その程度の空気は分かった。
分かるけれど、昼食くらいはもう少し単純でもいい気がした。
食事は席で待つこともできる。ルミエは注文を済ませ、先に座る場所を探した。
選んだのは、壁際に近いが配膳口からも遠すぎない席だった。窓際の華やかな一角からは少し離れ、留学生たちの卓とも完全には重ならない。出口にも近く、食べ終わったら出て行きやすい。
実務的に見れば、とても良い席だった。
ただし、食堂の中の目に見えない線で言えば、どこにも完全には属していない席でもあった。
(出やすそう)
ルミエはそれだけを決め手にして、その席へ向かった。
その時、いくつかの視線が動いた。
露骨ではない。誰かが声を上げたわけでもない。ただ、食堂の空気の中で、薄い布が引かれたように、視線だけがわずかに集まった。
ヴァロワ嬢が、あそこに座る。
その事実が、昼食の席に小さな意味を持った。
ルミエは気づいていないわけではなかった。見られていることは分かる。けれど、理由を考え始めると食事が遠のくし、考えても仕方ないことだった
席に着いてしばらくすると、温かいスープと柔らかいパン、軽く焼いた魚が運ばれてきた。
「ありがとうございます」
配膳係に礼を言い、ルミエは匙を取った。
その時、近くの卓で小さな沈黙が落ちた。
商会系の男子生徒が一人、盆を持ったまま立っている。
その先には、工房ギルドに関わる家の少女と、留学生らしい少女が座っていた。二人の前には資料らしき紙が何枚か置かれている。
彼は、どうやらそこへ座ろうとしていたらしい。
だが、座る直前で足を止めていた。
理由は単純だった。
その卓は、普段なら彼の席ではない。
別に座っても良かった。
話す理由はある。
資料もある。
討論や意見書の流れで、魔石器具の修理体制や流通について話したいのだろう。商会に関わる家の者として、彼にも言えることはあるはずだった。
けれど、食堂で同じ卓につくことは、廊下で立ち話をするより少し重い。
座れば、周囲から見える。
あの者たちは、昼食を共にする程度には近いのか。
商会の家と工房の家と留学生が、何を話しているのか。
誰が誰に寄っているのか。
そんな意味が、勝手に生まれる。
この学園では、ただ親しいかどうかという話では済まない。誰が誰と同じ席につくかに、家や立場の意味が勝手について回る。
男子生徒は、それを分かっている顔をしていた。工房の少女も、無理に招かない。留学生の少女も、席を空けてはいるが、強く促すほどではない。
三人とも、それぞれに正しい距離を測っていた。
その結果、誰も動けなくなっている。
ルミエは、匙を持ったままそれを見ていた。
(座ればいいのに)
内心ではそう思うが、自分がわざわざ声をかけることでもない。
ルミエはスープを口に運んだ。
温かい。
おいしい。
それだけで、少し世界がましになる。
「あの、ヴァロワ様」
声をかけられて、ルミエは顔を上げた。
先ほど盆を持って立っていた男子生徒だった。彼は礼儀正しく一礼し、少しだけ困ったような顔をしている。
「お食事中に失礼いたします」
「構いません。どうかされましたか?」
ルミエの声は、食堂の騒がしさの中でも柔らかく届いた。
男子生徒は、一瞬だけ視線を揺らした。
「その……こちらの席の近くで、少し資料の確認をするのは、どう、思われますか? 先日の討論の後に出た話で、工房側の意見を聞きたくて」
なぜ、ルミエに聞くのか。
席の管理者ではない。教師でもない。食堂の規則を決める者でもない。
けれど、彼はルミエに尋ねた。
おそらく、自分で決めるには少し怖かったのだろう。
誰かに許可をもらいたい。だが、教師に聞けば大げさになる。相手に聞けば、相手に負担をかける。食堂の係に聞くことでもない。
だから、ちょうどそこに座っていたルミエへ、言葉が向いた。
ルミエは男子生徒を見た。
それから、少し離れた卓に座る二人を見る。
工房の少女は緊張している。留学生の少女は表情を抑えているが、興味は隠せていない。周囲の何人かは、見ていないふりをしている。
面倒だな、と思った。
何となく、周りの視線も増えた気がする。
ただ、口はいつも通り、そうは言わなかった。
「食堂は、食事をする場所ですものね」
ルミエは静かに言った。
「互いの邪魔にならないのなら、近くに座ること自体は、不思議なことではないと思います」
男子生徒が、少し目を見開く。
ルミエは続けた。
「話すことがあるなら、食事の邪魔にならない程度に話せばよいのではないでしょうか。話すことがなくなったら、また食べればよいですし」
それは、何も特別なことではなかった。
席は空いている。
話す理由がある。
食事の邪魔をしない。
なら、座ればよい。
ただそれだけの言葉であり、ある種当たり前の一言だった。
しかし、その柔らかな言葉と浮かべられた微笑みに、男子生徒は、少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「私が許可することではありませんけれど」
ルミエは少し困ったように笑った。
「でも、お昼が冷める前に座った方がよいと思いますよ」
その言葉で、近くにいた工房の少女が小さく笑った。留学生の少女も、控えめに椅子を引く。
「こちらへどうぞ」
ようやく、男子生徒は座った。
盆が卓に置かれ紙が少し寄せられる。
三人の距離が、食事を挟んで形になる。
それだけだった。
だが、その卓の周囲で、空気が少し動いた。
誰かが目を逸らす。
誰かが小声で何かを言う。
別の卓で、一人分だけ席が詰められる。
決まりが変わったわけではない。教師が命じたわけでもない。ルミエが席替えをしたわけでもない。
ただ、誰かが座った。
それだけで、次の誰かが少し動きやすくなる。
しばらくして、中央近くの卓にいた官僚家系の令嬢が、資料を持って立ち上がった。彼女は窓際の上級貴族の席へ向かうのではなく、先ほどの三人の卓に近い場所へ行き、短く声をかけた。
「先日の意見書の件で、少し確認したいことがあります」
工房の少女が顔を上げる。
「私で分かることなら」
「修理体制の費用についてです。行政側の記録だけでは、実感が掴みにくくて」
その言葉は丁寧だった。
だが、以前なら食堂でするには少し硬い話だっただろう。
それでも、彼女は座った。
また一つ、席が変わる。
イザベル・ド・ヴェルディエは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
彼女はいつものように姿勢よく座り、食事の手を止めすぎない程度に視線を動かしている。その卓には、同じように家格ある令嬢たちが数人いた。誰もが騒ぎ立てることなく、けれど何が起きているかは見ている。
「ヴァロワ様は、不思議な方ですね」
隣の令嬢が小さく言った。
イザベルはすぐには答えなかった。
不思議。
その言葉は間違っていない。
だが、便利すぎる。
「座ってもよいのでは、と仰っただけでは?」
別の令嬢が言う。実際その通りだ。座っても良いかと聞かれて、座ったらどうかと答えただけだ。
「ええ。けれど、あの席を選ばれたことで、少し空気が変わりました」
「家格を気にされないということでしょうか」
「そう単純な話でもないでしょう」
イザベルは静かに言った。
ルミエは、おそらく家格を否定しているわけではない。食堂の暗黙の距離を壊そうとしているわけでもない。皆で仲良く座りましょう、と言ったわけでも当然ない。
ただ、空いている席に座った。
尋ねられたことに、穏やかに答えた。
それだけだった。
だからこそ、動いた者たちは、自分で動いたことになる。
命じられたわけではない。
誘導されたと認めるほどの言葉もない。
けれど、気づけば少しだけ動きやすくなっている。
それが、イザベルには少し怖かった。
「食堂の席まで、作法になるのですね」
隣の令嬢が呟く。
イザベルは、視線をルミエへ向ける。
ルミエはスープを飲んでいた。
とても静かに。
何か大きなことをした顔ではない。誰かを導いた顔でもない。ただ、温かいものを味わい、パンを小さくちぎっている。
そのある種の普通さが、余計に奇妙だった。
ルミエの近くの卓では、会話が少しずつ形になっていた。
「修理の費用は、新品の購入額と比べられがちですが、実際には使用期間が大きく違います」
工房の少女が、紙の端に簡単な図を書きながら説明している。
「つまり、購入時の費用だけで判断すると、維持する方が損に見える場合があるということですか」
官僚家系の令嬢が問い返す。
「はい。ですが、修理できる者がいなくなると、いざという時に代替が利きません」
「それは行政側の見積もりに入れにくいですね」
「入れにくいですが、入れないと現場が削られます」
商会系の男子生徒が頷く。
「流通でも同じです。普段は使わない迂回路ほど、費用だけ見れば無駄に見えます」
留学生の少女がそこへ言葉を添える。
「産出地でも、似た話があります。掘らない時期や休ませる場所を、外から見ると無駄に見えることがある。でも、それがなければ山がもたない」
言葉はまだ硬い。
昼食の会話としては、少し真面目すぎる。
それでも、正しさが真正面からぶつかる感じは薄かった。
食事が間にあるからかもしれない。
紙が机の中央に置かれているからかもしれない。
誰かが勝つための場ではないからかもしれない。
ルミエは、少し離れた席でその声を聞いていた。
全部を理解しているわけではない。特に費用や修理体制の細かな話になると、途端に難しくなるし興味も薄れる。
少なくとも、あの男子生徒が特に気まずくもならず、適度に喋りながら食事をとっている。それなら、良いことなのだろう。たぶん。
ルミエは魚を小さく切った。
食事は大事だ。
少なくとも、難しい話より分かりやすい。
少し離れた席で、エドガー・ルクレールもその様子を見ていた。
彼は最初、いつもの卓に座るつもりだった。だが、食堂に入った時、ちょうど商会系の男子生徒が席を迷っているところを見た。
見ないふりをしてもよかった。
自分には関係ない。
席は自由だ。
座りたいなら座ればいい。
そう思うこともできたし、実際そう思った。
だが、足が止まっていた。
討論の時に出た言葉が、頭のどこかに残っていたからだ。
流れが止まる場所。
廊下や書類だけではない。
食堂の席でも、流れは止まる。
話したい相手がいる。
聞きたいことがある。
だが、座る場所の意味が邪魔をする。
それを大げさと言えば、大げさだ。
だが、学園では小さなことがそういう大げさなものになって実際に人を止める。
そして、ルミエは無理に押し流したわけではなかった。
押したわけでもない。
呼んだわけでもない。
ただ、当たり前のような顔で当然のように言って、座ってよい形にした。
エドガーは、自分の盆を見下ろした。
温かい料理から湯気が上がっている。
立っていると冷める。
その事実が、妙に馬鹿らしく思えた。
彼は少し迷った後、先ほどの卓から一つ空けた隣の席へ向かった。
「ここ、いいかな」
商会系の男子生徒が驚いたように顔を上げる。
「ルクレール様?」
「……様はいらない。資料の話をしているのだろうから。自分も少し確認したい点がある」
「もちろんです」
座る。
それだけだった。
だが、エドガーにとっては小さくないことだった。
自分のいつもの席でもない。
けれど、話したい内容に近い席。
そう考えれば、何もおかしくない。
おかしくないはずなのに、少し落ち着かない。
その落ち着かなさごと、彼は盆を置いた。
ルミエは、その様子を見ていた。
エドガーはあの少年と仲が良かったのだろうか。それは知らないし、ルミエにはあまり関係がなかった。
座って冷めないうちに食べる。
それが大事だ。
食堂の中の変化は、本当にわずかだった。
席の配置が変わったわけではない。家格の高い生徒たちが一斉に移動したわけでもない。留学生たちの卓が急に賑やかになったわけでもない。
ただ、いくつかの椅子が少しだけ違う場所へ引かれた。
いつもなら近づかない卓へ、資料を持った生徒が一人座った。話を聞くだけのつもりで、別の生徒が隣に腰を下ろした。誰かが少し席を詰めた。誰かが空いた椅子へ鞄を置くのをやめた。
それだけ。
だが、食堂の目に見えない地図は、少しだけ書き換わった。
書き換えられたと、誰もはっきり認めない程度に。
ルミエは昼食を終え、匙を置いた。
「おいしかった」
小さく誰にも聞かれないくらいの声で呟く。
温かいものを食べると、それだけで少し身体が復活する気がする。足の疲れも、さっきよりは落ち着いていた。
立ち上がると、近くの生徒たちが何人か顔を上げた。
礼をする者がいる。
軽く会釈する者がいる。
何か言いたそうにして、結局言わない者もいる。
ルミエは、それぞれに軽く微笑んだ。
その微笑みは、近すぎなかった。
遠すぎもしなかった。
礼を返すには十分で、話しかけるには少しだけ余白がある。
だから、誰も強く引き止めなかった。
けれど、見送る視線は残った。
ルミエが食堂を出た後も、席はすぐには元に戻らなかった。
商会系の男子生徒は、工房の少女の説明を聞き続けている。官僚家系の令嬢は、自分の紙に何かを書き込んでいる。
エドガーは少し居心地悪そうにしながらも、話から離れない。留学生の少女は、最初より少しだけ声を柔らかくしていた。
イザベルは、それを見ていた。
胸の内で、静かに考える。
これは良いことなのだろうか?
……おそらく、そうだ。
学ぶべき者たちが、立場を越えて話している。
誰かが誰かを無理に引きずったのではなく、それぞれが必要に応じて席を選んだ。学園の創設の目的にも適う。
だが、それでも。
ルミエ・ヴァロワが去った後に残ったこの形は、どこまでが彼ら自身の選択なのだろう。
いや、選択には違いない。
誰も命じられていない。
誰も強制されていない。
ルミエは当たり前のことを当たり前のように言っただけ。
だからこそ、余計に境目が分からない。
イザベルは、自分の前の皿へ視線を戻した。
食堂の席は、ただの席ではなかった。
近づく理由。
離れる言い訳。
話す口実。
避けるための作法。
それらをすべて含んでいる。
ルミエ・ヴァロワは、その一つをほんの少し動かした。
たぶん、本人は温かいスープを飲んでいただけなのに。
廊下に出ると、食堂の騒がしさが少し遠ざかった。
ルミエは息を吐く。
(やっぱり、人が多い場所は疲れる)
足は少し重い。
けれど、食事は温かかった。
魚もおいしかった。
席は出口に近くて助かった。
それだけで、今日の昼は十分だった。
(あの男の子、ちゃんと食べられたのかな?)
ふと思い出す。
話しながら食べると、料理は冷める。
それを承知で座ったのなら、たぶん必要な話だったのだろう。
誰がどこの席に座るか。
その意味がどう変わるか。
そういうことは、今のルミエには少し遠かった。
自分は、食堂で昼食を食べた。
足は少し疲れていた。
スープは温かかった。
魚もおいしかった。
席は出口に近くて助かった。
それだけで十分だった。
職員寮へ続く廊下の窓から、昼の光が差している。
その光の中を、ルミエはゆっくり歩いた。
彼女が去った食堂では、まだ少しだけ席の距離が変わったままだった。




