『足を踏まないために』
図書室は、リュシアンにとって数少ない静かな場所だった。
王立ヴァルテール学園には、第二王子が一人でいてよい場所があまり多くない。
教室にいれば誰かが近づき、廊下を歩けば誰かが礼をし、食堂では少し離れた場所に取り巻きのような者たちが自然と集まる。
彼らに悪意があるわけではない。
むしろ、ほとんどは善意と礼節でできている。王子を一人にしてはいけない。退屈させてはいけない。不便をかけてはいけない。近づきすぎず、遠ざかりすぎず、必要なら話しかけ、必要でなければ控える。
そういう正しさが、リュシアンの周囲にはいつもあった。
だが、正しさに囲まれていると、時々、空気が薄く感じる。
図書室だけは違った。
ここでは、声を潜めることが礼儀になる。静性石の働きで、余計な音は自然と吸われる。
遠目には会話をしているように見える者たちがいても、小声であれば、その声はこちらまで届かない。
誰かが近くにいても、本を読んでいる者を不用意に煩わせることは不作法とされた。
第二王子であるリュシアンにも、それは適用される。
もちろん、完全に一人になれるわけではない。遠くから視線を向ける者はいる。彼がどの本を取ったか、どの席に座ったかを気にする者もいる。
いつかの話題にするためなのか、単なる興味なのかはリュシアンにもわからない。
それでも、ここでは誰もすぐには話しかけてこない。
本を開いている限り、リュシアンはしばらく一人でいられた。
だから、図書室へ来ること自体は珍しいことではなかった。
ただ、最近は少し多い。
午前の講義が終わった後、午後の空き時間、夕方近くの短い時間。気がつくと、足が図書室へ向いている。
読みたい本があるからだと、リュシアンは思っていた。実際、読みたい本には事欠かなかった。学園の蔵書は、国内でも指折りだった。
最近は各国の港湾政策に関する記録や、古い領地運営の覚書を読んでいる。王位に強い関心があるわけではないが、知らないままでいることを好むほど愚かでもない。
知識は、役割から逃げるためではなく、役割に押し潰されないために必要だった。
そう考えれば、図書室に通う理由は十分にある。
だから、今日もリュシアンは窓際から少し離れた席に座り、厚い本を開いていた。
文字を追う。
港の税収、倉庫の管理権、季節風による航路の変化、港湾都市と内陸都市の摩擦。
内容は興味深いはずだった。
けれど、何度か同じ行へ目が戻る。
リュシアンは小さく息を吐いた。
疲れているのだろうか。
そう思って、視線を本から少しだけ外した時だった。
図書室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、ルミエ・ヴァロワだった。
遠目からもわかる黒く長い髪。今日の彼女もいつもと同じように静かだった。
歩き方に大きな乱れはない。ただ、よく見れば、足を置く時にほんの少し慎重さがある。痛みを隠しているというより、どのくらい動かせば疲れないかを確かめながら歩いているように見えた。
彼女は受付で本の場所を尋ねたようでそのまま奥の棚へ向かう。
リュシアンは、本へ視線を戻した。
戻したはずだった。
けれど、文字は少し遠いままだった。
しばらくして、ルミエが三冊ほどの本を抱えてやってきた。彼女はいつも使っている席へと向かう。リュシアンの向かい側に近い、静かで、窓からの光が強すぎない席だ。
椅子を引き、腰を下ろす。
それから、彼女は初めてリュシアンに気づいたように顔を上げた。
「あら」
紫紺の瞳が、少しだけ瞬く。
次の瞬間、ルミエはいつものように穏やかに微笑んだ。
「リュシアン様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、ルミエ嬢」
リュシアンも本を閉じきらない程度に手を添え、微笑み返した。
「お邪魔してしまいましたか」
「いいえ。図書室ですから。本を読む方がいらっしゃるのは自然なことです」
「それならよかったです」
ルミエは安心したように頷き、抱えていた本を机の上へ置いた。
本の背表紙が見える。
『舞踏会における基本礼法』
『円舞の足運びと姿勢』
『若き令嬢のための社交心得』
リュシアンは、少しだけ目を留めた。
「舞踏の本ですか」
「はい」
ルミエは少し困ったように笑った。
「最近、舞踏を習い始めましたので」
「舞踏を?」
「ええ。今後、舞踏会に出ることがあるかもしれないそうです。そうなった時に、あまりご迷惑をおかけしないように、と」
それは、令嬢として自然な言葉だった。
正式な場に出る可能性があるなら備える。
踊る機会があるなら、失礼のないように練習する。
貴族ではなくとも、ヴァロワ家の令嬢として求められることはある。
リュシアンは頷いた。
「それで、教本を?」
「はい。足を踏まないために」
返答があまりに真面目だったので、リュシアンは一瞬だけ言葉を失った。
ルミエは、冗談を言った顔をしていなかった。
むしろ、かなり重要なことを口にしたような顔をしている。
「足を踏まないために、ですか」
「はい。足を踏むのは、よくないと思います」
「それは、確かに」
リュシアンの目元が、わずかに緩んだ。
図書室なので、声を上げて笑うことはしない。だが、普段から少し浅かった呼吸が、そこでわずかにほどけた。
多くの令嬢なら、きっと別の答えを用意する。
正式な場にふさわしくあるため。
殿方に失礼のないように。
家の名に恥じぬように。
招いてくださる方々のご厚意に応えるため。
どれも正しい。
ルミエの答えも、もちろんそれらを含んでいるのだろう。彼女は礼儀を知らないわけではないし、場の意味をまったく理解していないわけでもない。
むしろ、これまでの言葉や振る舞いを見れば、彼女が場の意味を外す人物でないことは分かっていた。
それでも、最初に出てきたのは、足を踏まないため。
だからこそ。不意に、目の前のものが少し軽くなった。
舞踏会。
手を取る。
曲に合わせて歩く。
なによりも、足を踏まない。
なるほど、それも確かに舞踏だった。
「リュシアン様は、舞踏がお得意ですか?」
ルミエが本の表紙を指で撫でながら尋ねた。
リュシアンは少し考えた。
得意か。
得意という言葉は、楽しさや好みを含むことがある。だが、彼にとって舞踏は、そういうものではなかった。
「不得手ではありません」
「すごいですね」
「覚える必要がありましたから」
リュシアンは静かに答えた。
「王族は、誰と踊るか、どの順に踊るか、どれだけ話すか。それだけでも意味を持ちます。ですから、踊れるかどうか以前に、間違えないことが求められます」
言ってから、少しだけ余計だったかと思った。
図書室で交わすには、硬い話だったかもしれない。
だが、ルミエは驚いた顔をしなかった。深く頷きすぎることも、同情めいた顔をすることもなかった。ただ、少しだけ本から視線を上げてそっと微笑んだ。
「では、リュシアン様も足を踏まないことは大切なのですね」
リュシアンは、また少し言葉に詰まった。
王族の舞踏。
誰と踊るかという政治的意味。
順序の重さ。
話す時間の長さ。
そういうものを話した後に、返ってきたのは足の話だった。
けれど、不思議と軽んじられたようには感じなかった。
むしろ、重くなりすぎた言葉から、余計な飾りを一つ外してくれたような感覚があった。
「ええ」
リュシアンは答えた。
「大切ですね。踏めば、相手は痛いでしょうから」
「はい。痛いのは困りますね」
ルミエは真面目に頷いた。
その表情があまりにも素直だったので、リュシアンは今度こそ少しだけ笑った。
もちろん、声は小さかった。
ルミエは不思議そうに首を傾げる。
「何か、おかしなことを言いましたか」
「いいえ。とても大切なことだと思います」
「それならば、良かったです」
ルミエは納得と安心したように教本を開いた。
リュシアンは、その様子を見ていた。
彼女はこちらが王子であることを忘れているわけではない。言葉遣いも、姿勢も、視線の置き方も、礼を失わない。近すぎることもなく、無遠慮でもない。
それなのに、彼女と話していると、王子という形の内側に少しだけ空気が入る。
誰もが王子に意味を重ねる。求める。
未来。
家。
派閥。
利益。
可能性。
危険。
それは当然のことだ。リュシアン自身、それらを知らないふりはできない。第二王子という立場は、ただそこにいるだけで誰かの計算に入る。
それは仕方のないことだ。
ルミエも、同じように彼女の立場としてきっと何かしら計算される立場にいる。
魔石のヴァロワ家、その令嬢。
相談室の人間。
夜会で注目を集めた少女。
クラリス家が招いた存在。
彼女にも、いくつもの意味が既に貼られている。
けれど、本人は今、教本を見ながら小さく眉を寄せていた。
「……図だけでは、よく分からないですね」
「足運びですか」
「はい。右足を出して、寄せて、回る。と書いてありますが、文字で読むと余計に分からなくなります」
「実際に動いた方が早いかもしれませんね」
「ええ、実際に踊るとわかるのですが、ただ、動いていると足が忙しくて覚える暇がありません」
困ったように笑うルミエにリュシアンは目を伏せた。
また笑いそうになったからだ。
彼女は、奇妙なほど大きな意味を持って見える時がある。先日の夜会で見た彼女は、確かにそうだった。人々の視線を集め、言葉を柔らかく受け、周囲の空気を変えていた。
だが、こうして向かいに座っている彼女は、舞踏の足運びに困っている一人の少女だった。
その二つが、どうして同じ姿の中に収まっているのか。
リュシアンには、まだ分からない。
「練習は大変ですか」
「少し」
ルミエは素直に答えた。
「けれど、教えてくださる方が丁寧ですし、イザベル様、いえ、ヴェルディエ様も手伝ってくださっています」
「ヴェルディエ嬢が」
「はい。とてもお上手です。男性側の動きもご存じで、説明も分かりやすくて」
「それは心強いですね」
「本当に。私は、相手がいてくださる方がまだ動きやすいみたいです。一人で足だけ考えると、足がどこかへ行きそうになります」
「足がどこかへ」
「はい」
ルミエは、冗談を言ったつもりもなさそうに頷いていた。
リュシアンは、彼女の手元の本へ視線を落とす。
誰かと踊るルミエ。
その光景が、ふと頭に浮かんだ。
手を取られ、曲に合わせて歩き、相手の導きに合わせて回る。夜会の灯りの下で、彼女はきっと穏やかに、美しく微笑むのだろう。相手の話を受け、相手の呼吸に合わせ、足を踏まないように動く。
その相手は誰だろう。
そう考えてから、リュシアンはわずかに瞬きをした。
なぜ、そんなことを考えたのか。
夜会で誰が誰と踊るかに意味があるのは当然だ。王族である自分にとって、それは確認すべき情報でもある。だから気になったのだと、説明することはできる。
できるはずだった。
「リュシアン様?」
ルミエの声で、リュシアンは意識を戻した。
「失礼しました」
「お疲れですか」
「いいえ。少し考え事を」
「それなら、図書室は良い場所ですね」
ルミエはそう言って、また本へ視線を落とした。
慰めでも、探りでもない。
ただ、図書室は静かで、考え事に向いている。
その程度の言葉だった。
リュシアンは、なぜかその言葉をしばらく手の中で転がすように感じていた。
図書室は良い場所。
彼にとって、ここは一人でいられる場所だった。
誰かに囲まれず、王子として整った言葉を返し続けなくてもよい場所。
それなのに最近、この場所へ足が向く理由は、本だけではないのかもしれない。
そう考えかけて、リュシアンは本を開き直した。
まだ、その考えに名前を付ける必要はない。
ルミエは向かいで教本を読んでいる。
時々、図を見て首を傾げる。
足元を見下ろす。
小さく、たぶん本人にしか聞こえない声で「右、左、寄せる……?」と呟く。
その様子を見ていると、リュシアンの本の文字はまた少し遠くなった。
「ルミエ嬢」
「はい」
「足を踏まないためなら、最初は相手の足元を見すぎない方がよいかもしれません」
ルミエは顔を上げた。
「足元を見ないのですか」
「見すぎると、姿勢が崩れます。相手の動きも遅れて伝わる。むしろ、肩や腕の動きの方が分かりやすい場合があります」
「……難しいですね」
「ええ、難しいです」
リュシアンは穏やかに言った。
「ですが、慣れます」
ルミエは少しだけ考え頷いた。
「それでは、足元を見すぎないようにします」
「その方が、踏みにくいと思います」
「大事ですね」
「ええ。大事です」
二人の会話は、そこで自然に途切れた。
図書室の静けさが戻る。
だが、先ほどまでの静けさとは少し違っていた。
リュシアンは本へ目を落とす。港湾都市の税制に関する記述が続いている。読むべき内容だ。頭に入れる必要もある。
しかし、ページの端に、いつかの夜会の灯りが重なる。
ルミエ・ヴァロワが、誰かと踊る。
それは近いうちに本当に起こることかもしれない。
その相手が誰であるかに、自分が少しでも関心を持つ理由は、いくらでも用意できる。
王族として。
学園の一員として。
夜会に出る者として。
彼女が注目されている存在だから。
理由はある。
けれど、そのどれもが、今の小さな引っかかりを完全には説明してくれなかった。
向かいで、ルミエがそっとページをめくる。
その指先は白く、静かだった。
舞踏の本を読むには少し頼りなく見える手。
だが、その手がいつか誰かの手を取るのだろう。
リュシアンは、しばらく本の同じ行を見つめていた。
そして、ふと気づきかける。
今日もまた、図書室へ来た理由を、彼は本のせいにしていた。




