『軸の置き場所』
翌朝、ルミエは階段を前にして少しだけ立ち止まった。
職員寮の廊下は、いつもと変わらず静かだった。朝の光が窓から入り、磨かれた床に淡く伸びている。遠くでは、使用人が食器を運ぶ小さな音がした。
そのすべてはいつも通りだった。
ただ、ルミエの足だけが、いつも通りではなかった。
「……階段って、こんなに高かったかな」
小さく呟くと、隣にいたアニエスがすぐに目を向けた。
「痛みますか」
「痛いというほどではないの。ただ、昨日使った場所が、はっきり分かるくらい」
「舞踏では、普段使わない筋肉を使いますので」
「筋肉って、律儀なのね」
「無視できない程度には」
アニエスは淡々と答え、ルミエの歩調に合わせて少しだけ速度を落とした。
前日の練習後、湯と温かな布で手入れはした。靴も見直し、今日の相談室業務に支障が出ないよう予定も調整してある。だから、今の痛みは異常ではない。慣れない運動の後として、想定の範囲内だった。
アニエスにとって重要なのは、想定の範囲を越えないことだった。
「今日の練習は短めに調整しております。礼法教師にも、昨日の疲労が残っていることは伝えてあります」
「とても助かるわ」
「ただし、完全に休みにすると、身体が覚える前に戻るそうです」
「舞踏って厳しいのね」
「社交も身体を使うものですので」
ルミエは少しだけ遠い目をした。
相談室で話を聞くことも、討論の場に同席することも疲れる。けれど、それらは主に頭と心の周りが疲れるものだった。
舞踏は違う。
足と背中と、どこにあるのかよく分からない細かな場所が疲れる。
(座って出来る仕事って、ありがたかったんだな)
思えば、相談室に入る前に行っていた話し合いの場での立ち合いも座っているだけでよかった。
少しは体力をつけたほうがいいかもしれない。そんなことを思いながら、ルミエは階段を一段ずつ降りた。
その日の舞踏練習は、午後の相談室業務を終えた後に行われた。
小広間には、礼法教師が待っていた。
壁際にはアニエスが控え、練習用の靴と水、薄手の布を用意している。演奏用の器具も昨日と同じ場所に置かれていたが、その傍らには数枚の曲譜が新しく並べられていた。
それを取り替えることで流れる曲が変わるらしい。便利だとは思うが、仕組みまで知りたいかと言われると、そこまでではなかった。
「昨日はよく眠れましたか、ヴァロワ嬢」
「はい。ただ、足は少しだけ存在感がありますね」
「結構。存在感を覚える程度なら、まだ練習できます」
ルミエが微笑むと礼法教師は穏やかに言った。
慰めるつもりはないらしい。
「本日は、昨日の基本を確認した後、曲を少し変えます。それから、短い会話を加えます」
「会話、ですか」
ルミエは、思わず聞き返すような声になった。
「舞踏会で踊る時、完全な沈黙で一曲を終えることは多くありません。近況、舞踏会の感想など、長く話す必要はありませんが、相手を乱さない程度の受け答えは必要です」
「足だけでも忙しいのですが」
「だから練習するのです」
「正論ですね」
ルミエは諦めたように頷いた。
そこへ、扉が静かに開いた。姿を見せたのはイザベル・ド・ヴェルディエだった。
今日のイザベルは、昨日より少しだけ動きやすい服装をしていた。華美ではないが、所作の邪魔にならない形に整えられている。髪もきちんとまとめられ、練習相手としての準備がよく分かった。
「失礼いたします」
「来てくれてありがとう、ヴェルディエ嬢」
「お役に立てるのであれば」
イザベルは礼法教師へ礼をし、それからルミエへ向き直った。
「ルミエ様、本日もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、お願いいたします。昨日はありがとうございました」
「いえ。私にとっても良い学びでした」
その言葉に、ルミエは少しだけ首を傾げた。
教わっているのは自分のはずだ。けれど、イザベルは本当にそう思っているような顔をしている。
ルミエには、その理由までは分からなかった。
「では、まず昨日の基本から」
礼法教師の声で、二人は向かい合った。
イザベルが手を差し出し、ルミエはその手を取る。昨日と同じ形のはずなのに、一度経験した分、ルミエの戸惑いは少なかった。
イザベルの手も、昨日より迷いなく差し出されているように見えた。
曲が流れる。
ゆっくりとした、昨日と同じ曲だった。
一歩。
寄せる。
回る。
一度練習した分、足の順番は少し思い出せる。だが、意識するとすぐ足元を見たくなる。姿勢を保とうとすると、今度は手の力が分からなくなる。
それでも、イザベルが動くと、ルミエの身体は自然にそれを受けた。
最初ほどの戸惑いはない。相手がどちらへ動くのか、どこで待つのか、どの程度の力で導くのか。それが言葉になる前に伝わってくる。
「止めます」
礼法教師が言った。
二人が止まる。
「昨日より足は覚えています。ですが、ヴァロワ嬢、相手に合わせる感覚が強い分、ご自身の中心が少し流れています」
「中心、ですか」
「軸です」
礼法教師は、ルミエの前に立ち、姿勢を示した。
「相手に合わせることは大切です。ですが、合わせることと、預けることは違います。自分の軸がなければ、相手が大きく動いた時に流されます。逆に、軸が硬すぎれば、相手を受けられません」
「難しいですね」
「難しいからこそ、作法になります」
ルミエは真面目に頷いた。
軸。
身体の話としては、何となく分かる。
背筋を伸ばし、重心を保ち、相手に引きずられないようにする。
だが、それを聞いた時、ルミエは少し別のことを考えた。
(自分の、私の軸って、どこにあるんだろう)
相手がいると、身体は相手に合わせる。
声も、表情も、言葉も、姿勢も、間合いも。
産まれた時からそれはずっとそうだった。
なら、自分の軸とは何だろう。
そう考えかけて、ルミエはやめた。
今は足の順番だけで十分に忙しいし、深く考えるようなことでもない。どうせこの体はなるようになるし、なるようにしかならない。
「もう一度。今度は、ヴァロワ嬢はご自身の背中を意識してください。ヴェルディエ嬢、少しだけ導きを強めに」
「承知しました」
再び手を取ると曲が流れる。
イザベルは礼法教師の指示通り、先ほどより少しだけ明確に導いた。歩幅もわずかに広く、回る時の方向もはっきりさせる。
ルミエの身体は、すぐにそれを受けようとした。
だが、受けすぎると流れる。
礼法教師の言葉が頭の端に残っていた。
軸。
ルミエは背中を意識する。
足ではなく、イザベルの手でもなく、自分の身体の真ん中のどこかを意識する。
すると、少しだけ動きがぎこちなくなった。
イザベルはそれに気づいた。
合わせやすさがほんの少し減る。
代わりにルミエ自身の重さが戻ってくる。重くなるという意味ではない。そこに、彼女がいるという感覚が少し増す。
イザベルは、それを美しいと思った。
相手に合わせるだけではなく、相手の前に自分を置く。
近づきすぎず、離れすぎず、消えすぎない。
導く者だけが強くても、導かれる者だけが従順でも成り立たない。舞踏とは、互いの位置を保つ作法なのだ。
「良いです」
礼法教師が言った。
「まだ不安定ですが、今の方が本番に近い。相手にとって都合の良い影になる必要はありません。相手と共に踊るのです」
ルミエは、その言葉に少しだけ引っかかった。
相手にとって都合の良い影。
そこまで言われたわけではない。
ただの舞踏指導だ。
それなのに、妙に残る言葉だった。
「はい」
ルミエは静かに答えた。
譜面が差し替えられ、次に流れた曲は先ほどより少しだけ速かった。
大きく違うわけではない。だが、昨日の曲よりも区切りが早く、回る動きも増える。足の順番を思い出しているうちに、次の動きが来る。
(忙しい)
ルミエは内心で思った。
昨日と同じようにはいかない。
イザベルの導きは分かる。身体はそれを受ける。けれど、型が追いつかないと、どうしても一拍遅れる。
「焦らないでください」
イザベルが静かに言った。
「一拍遅れても、無理に取り戻そうとしない方が崩れません」
「はい」
ルミエは頷く。
イザベルの声は落ち着いていた。強く導く時も、言葉で補う時も、相手を責める響きがない。
正しい人だ。
ルミエはそう思った。
正しくあろうとする人。
だから、自分にも他人にも厳しい。
けれど今は、その正しさを、こちらが受け取りやすい形にしてくれている。
「ヴァロワ嬢」
礼法教師が声をかける。
「そこで会話を入れます。ヴェルディエ嬢、簡単な問いを」
「はい」
イザベルは曲の流れを乱さないまま、ルミエを見る。
「ルミエ様。先日の夜会は、いかがでしたか」
問いは穏やかだった。
だが、ルミエは一瞬だけ内心で固まった。
(踊りながら聞くこと?)
足。
手。
姿勢。
曲。
視線。
呼吸。
そこに会話が加わる。
面倒くさい、という言葉が頭に浮かぶより早く、ルミエの口は動いていた。
「人が多く、少し緊張いたしました。ですが、皆様が温かく迎えてくださったので、ありがたく思っております」
声は乱れず、顔には微笑みが浮かぶ。
足も、完全には乱れなかった。
イザベルは、手の中の感覚が少し変わるのを感じた。
ルミエは問いを受けると、動きながらも視線を上げた。長く見つめすぎず、けれど逸らしすぎもしない。声は曲の邪魔をせず、息継ぎも足運びの中に収まっている。
踊りながら会話をしている。
それだけなら、できる令嬢は多い。
だが、ルミエの場合、会話が加わったことで逆に動きが馴染んだように見えた。
問いを受ける。
相手を見る。
言葉を返す。
その流れの中に、足も手も含まれている。
「では、次に」
礼法教師が言う。
「ヴェルディエ嬢、少しだけ問いの調子を変えてください」
「承知しました」
イザベルは、今度は少しだけ社交的な柔らかさを加えた。
「もし次に夜会へ出られるなら、何を楽しみにされますか」
「楽しみ、ですか」
ルミエは、自然に少し考える間を置いた。
その間さえ、曲の中に収まっていた。
「そうですね。今度は、少しでも料理を味わえたら嬉しいです」
イザベルは思わず瞬きをした。
返答としては、少し素朴だった。
華やかな出会いでも、音楽でも、会場の美しさでもない。
料理。
だが、その言い方に不作法さはなかった。
むしろ、相手に笑ってよい余地を残す、柔らかな返答だった。
イザベルの口元が、わずかに緩む。
「それは、大切なことですね」
「はい。前回はあまり食べられなかったので」
「では、次は落ち着いて召し上がれるとよいですね」
「そう願っています」
会話は短い。
けれど、流れは止まらなかった。
礼法教師は、それをじっと見ていた。
技術だけで見れば、まだ未熟だ。
足運びは覚え始めで、速い曲には遅れる。回転も甘い。重心も時々流れる。
だが、相手との間に生まれる空気は悪くない。
むしろ、そこだけが先に整いすぎている。
「止めます」
曲が止まった。
ルミエは息を吐く。
「足と会話を同時に行うのは難しいですね」
「ですが、会話が入った方が自然でした」
礼法教師にそう言われてルミエは少し困ったように笑う。
「そうでしょうか?」
「ええ。考えることが増えたはずなのに、相手を見る意識が戻りました。やはり、ヴァロワ嬢は、相手がいる方が動きやすいのでしょう」
その言葉に、アニエスが壁際でわずかに目を伏せた。
ルミエは人に合わせるのがうまい。
それは、アニエスもよく知っている。
相談室でも、廊下でも、教師や生徒との短いやり取りでも、ルミエは相手の欲しい距離を不思議なほど外さない。それが才覚なのか、気配りなのか、生まれ持った勘なのかは分からない。だが、少なくとも社交の場では大きな長所になる。
そして、アニエス自身にとっても。優秀で、茶目っ気があり、気さくで心を許したような一面を見せてくれる上司だった。
アニエスは、それ以上のことを考えない。
今は、礼法教師の評価と、ルミエの疲労の方が重要だった。
「疲れは出ておりますか」
練習の合間に、アニエスがそっと尋ねる。
「少し。頭より足が疲れたかも」
「本日は、あと一度確認したら終わりにしましょう」
「ありがたいわ」
「礼法教師には、そのようにお願いしております」
「本当に頼もしい」
アニエスは静かに礼をした。
「そのためにおります」
そのやり取りを、イザベルは見ていた。
昨日も見た顔だった。
ルミエがアニエスに向ける、少しだけ力の抜けた表情。
相談室の落ち着きとも、討論での穏やかさとも違う。
舞踏中に自分へ向けられた受け取り方とも、また違う。
この方は、相手によって距離を変える。
それは誰でもしていることだ。
家族への顔、友人への顔、教師への顔、社交の顔。
人は場によって姿勢を変える。
だが、ルミエの場合、その距離があまりにも自然だった。
自然すぎて、相手は自分に向けられたものを特別だと思ってしまう。
イザベルは、そう考えて、少しだけ息を整えた。
自分もまた、そう受け取りかけている。
ルミエ様は、自分の正しさを窮屈ではなく、助けとして受け取ってくださった。
自分は、この方の役に立てる。
この方の近くで、自分の在り方を確かめられる。……正しいと、証明できる。
それは、あまりに甘い考えだ。
「ヴェルディエ嬢」
礼法教師の声で、イザベルは意識を戻した。
「最後に、もう一度基本へ戻します。先ほどより小さな動きで、軸を崩さずに」
「はい」
二人はもう一度向かい合った。
ルミエは手を差し出された瞬間、少しだけ背中を意識した。
相手を見る。
けれど、流されない。
合わせる。
けれど、全部を預けない。
言葉にすると簡単だった。
身体でやると難しい。
曲が始まる。
ゆっくりとした基本の曲に戻ると、先ほどより動きが分かりやすかった。イザベルの導きも、礼法教師の指摘も、アニエスが壁際で見守っていることも、すべてが小広間の中に収まっている。
ルミエは、足を運ぶ。
一歩。
寄せる。
回る。
今度は、少しだけ自分の身体が残っている気がした。
相手に合わせるだけではなく、自分の場所から相手を見る。
それが正しいのかは、まだ分からない。
ただ、少なくとも足は踏まなかった。
「結構です」
礼法教師が曲を止めた。
「本日はここまでにしましょう。ヴァロワ嬢、型はまだ浅いですが、相手への反応は良い。今後は、その反応に軸を添える練習をします」
「軸を添える、ですか?」
「はい。相手を乱さず、ご自身も消えないことです」
ルミエは、少しだけ沈黙して困ったように笑った。
「……難しいですね」
「舞踏としては、そうです」
礼法教師は穏やかに答えた。
「ですが、覚えられます」
ルミエは頷く。
覚えられる。
足運びなら、たぶんそうだ。
姿勢も、重心も、練習すれば少しずつ身につくだろう。
けれど、自分が消えないことを覚えるというのは、どういうことなのだろう。
そこまで考えて、ルミエはまた考えるのをやめた。
今は足が疲れている。
難しいことは、足が痛くない日に考えた方がいい。
練習を終えた後、アニエスはルミエの靴を確認した。
「靴擦れはありませんね」
「よかった」
「ただ、昨日より足首に負担が出ています。今夜も温めてください」
「お願い」
「明日の予定は、相談室業務を通常より少し軽くしましょう」
「そこまで?」
「階段と移動がありますので」
「ふふ、階段は本当に敵ね」
ルミエがそう言うと、アニエスはわずかに目元を緩めた。
「敵にしないための調整です」
「やっぱり。頼もしい」
「そのためにおります」
ルミエはその返答に安心するように笑いながら、小広間の椅子に少しだけ腰を下ろした。
イザベルは礼法教師と短く言葉を交わしている。男性側の導き方について、次回の確認をしているようだった。真面目で、正しくて、丁寧な人だと改めて思う。
「イザベル様は、すごいわね」
「はい」
アニエスは答えた。
「舞踏の技術だけでなく、教える際の言葉も安定していらっしゃいます」
「経験と練習なのでしょうね。私なんてまだまだ足と手だけでいっぱい」
「ルミエ様は、相手に合わせることがお上手です」
アニエスは、自然にそう言った。
深い意味を込めたわけではない。
ただ、見たままの評価だった。
「そうなのかしら」
「はい。舞踏に限らず」
「……そう」
ルミエは小首を傾げて少しだけ視線を落とした。
舞踏に限らず。
それはその通りだと思う。
舞踏に限らず。
それは、たぶんそうなのだろう。
相手がいれば、身体は勝手にそちらへ向く。声も、表情も、間の置き方も、気づけば相手に合っている。
それで相手がどう受け取っているのかまでは、ルミエにはよく分からない。
ただ、話が終わる頃には、たいてい相手の顔が少し変わっている。
「良いことなのよね、きっと」
「少なくとも、社交の場では大きな長所です」
「社交の場では」
「はい」
アニエスはそこで言葉を止めた。
それ以上は、今言うことではない。
ルミエは目を閉じたまま、少し笑った。
舞踏に限らず。
それは、たぶんそうなのだろう。
相手がいれば、身体は勝手にそちらへ向く。声も、表情も、間の置き方も、気づけば相手に合っている。
それで相手がどう受け取っているのかまでは、ルミエにはよく分からない。
ただ、話が終わる頃には、たいてい相手の顔が少し変わっている。
自分の軸というものまで、覚えてくれるかは分からないけれど。
そもそも、必要性もわからないけれども。
その夜、職員寮の部屋で。
いつか、もっと明るい灯りの下で、誰かが手を差し出すのかもしれない。
その時、曲が流れ、視線が集まり、自分はまた相手に合わせるのだろう。
ルミエは、ぼんやりとそう思った。
そして最後に、少しだけ思いをはせた。
(……舞踏会、なければいいなぁ)
今のところ、彼女にとっての軸は、そこにあった。




