『距離の作法』
その手紙は、午後の少し遅い時間に届いた。
相談室での業務を今日は早めに終え、ルミエが職員寮へ戻った後のことだった。
机の上には、アニエスが整理した書類がいくつか並んでいる。
学園側からの予定表。
相談室の来訪記録。
同席依頼に関する確認書の控え。
そして、クラリス家の封蝋が押された一通の手紙。
封蝋を見た時点で、ルミエは少しだけ嫌な予感がした。
嫌な予感というほど強いものではない。また、エレーヌからの手紙は嫌というわけではない。
ただ、普段の気軽な時候の挨拶以外のエレーヌ・クラリスからの手紙は、たいてい丁寧で、正しくて、断りづらいことがよくわかってしまっていたから。
「エレーヌ様から?」
「はい」
アニエスは封筒を確認してから、ルミエへ差し出した。
「クラリス家を通した正式な書簡です。ただし、宛先はルミエ様個人へ向けたもののようです」
「正式で個人的なのね」
「エレーヌ様らしいかと」
「そうね」
ルミエは小さく息を吐き、封を開けた。
紙は上質だった。
香りは強くない。
文字は整っていて、行間にも無駄がなかった。
実にエレーヌらしい手紙だった。
読む相手が困らないようにしっかりと考えられている。
考えられすぎていて、むしろ逃げ道が見えにくい。
ルミエは文面に目を通した。
先日の夜会以降、王都社交の一部でルミエ・ヴァロワの名が静かに広がっていること。
直接の招待ではなく、まずは紹介を望む声がいくつかクラリス家へ届いていること。
もちろん、現時点で無理に応じる必要はないこと。
だが、いずれ正式な席へ出席を願う場面が生じる可能性があること。
その時、歓談や挨拶だけで済むとは限らないこと。
そして。
「……舞踏会」
ルミエは、思わず声に出した。
アニエスが顔を上げる。
「舞踏会、ですか」
「ええ」
ルミエは手紙を少し持ち上げた。
「今後、舞踏会の開催、それに伴って舞踏を求められる場もあり得るから、無理のない範囲で備えておくとよいのではないか、ですって。学園側にも、エレーヌ様から相談しておいてくださるそうよ」
「なるほど」
アニエスはすぐに理解したようだった。
「確かに、必要です」
「必要なのね」
「はい」
迷いのない返答だった。
ルミエは、手紙を机に置く。
「夜会って、挨拶だけでは済まないのね」
「正式な舞踏会であれば、そうでしょう。先日は初めてのお披露目に近く、挨拶と歓談を中心に済ませられましたが、今後も同じとは限りません」
「踊るの?」
「踊る可能性はあります」
「相手の足を踏んだらどうしましょう」
「踏まないために練習いたします」
「正論ね」
ルミエは椅子の背にもたれた。
外では、夕方の光が薄くなり始めている。
窓の向こうの中庭を、生徒が数人歩いていた。
遠くから笑い声が聞こえる。
その平和な景色とは反対に、ルミエの頭の中には、足を踏む想像が浮かんでいた。
(踏んだら痛いよね。相手も私も)
舞踏会の踊り。
前世の記憶にあるのは、映画や漫画の中のぼんやりした光景だけだ。
華やかな服を着た人々が、広い広間で音楽に合わせて回っている。
優雅で、綺麗で、どこか現実味がない。
童話を元にしたアニメ。そこでお姫様が王子様と出会って、皆から注目されながら中央でクルクル回っている様子が思い浮かぶ。
それを自分がするとなると、途端に現実味が出る。
靴。
裾。
距離。
手。
足の順番。
曲。
人の視線。
考えることが多い。前世は元より今世でも踊ったことなんてない。そもそもこの体の運動神経というものは15年経った今でもよくわからない。走り回ったりボールを投げたりしたこともないからだ。
悪くはないはずだが、良いとも限らない。
「アニエスは、踊れるの?」
「日常的な社交の所作なら多少は。ただ、正式な貴族舞踏会で相手役を務められるほどではありません」
「そうよね」
ルミエは納得した。
アニエスは有能だ。
予定も整える。
書類も読む。
人の動きもよく見る。
衣装や靴の手配もきっと問題なくできる。
だが、宮廷舞踏を教える人ではない。
「学園には礼法の先生がいるのよね」
「はい。正課ではなく、必要に応じた補習や個別指導を担当する方がいらっしゃいます。貴族の子女だけでなく、官僚家系やギルド関係の生徒にも、社交上必要な所作を教える役割を持っているようです」
「なるほど」
「エレーヌ様が学園側へお話しくださるなら、手続きは早いでしょう」
「エレーヌ様、本当に手際がいいわね」
ルミエはそう言った。
感心ではある。
ただ、少し怖くもある。
エレーヌはいつも、必要なものを必要な形で用意する。
正しく、丁寧に、こちらが困らないように。
そして、気づけば道ができている。進まざるを得ない道が。
今回もそうだった。
今すぐ舞踏会に出ろ、とは言っていない。
無理をするな、と書いてある。
正式な依頼があるまで受けなくてよい、とも書いてある。
だが、いずれ必要になるから備えましょう、と言われれば、断る理由はない。
道は、もう敷かれているのだから。
「では、こちらでも準備いたします」
アニエスは言った。
「靴と動きやすい練習着を確認します。ドレスに近い裾の感覚も必要でしょうが、最初から裾の長いものでは危険です。学園側へは、練習場所、指導時間、補助役の有無を確認いたします」
「早いわね」
「舞踏は、靴が合わなければ危険ですので」
「足を踏む以前の問題ね」
「はい」
「……よろしくお願いします」
「承りました」
アニエスは淡々と礼をする。
その横顔はいつも通りだった。
けれど、ルミエは少しだけ思う。
自分が困ったと言えば、アニエスはすぐに道を探す。
自分が面倒だと言えば、アニエスは面倒な部分を整理する。
自分が不安そうにすれば、アニエスは不安が現実になる前に手を打つ。
それが心地いい。
だからこそ、少し慣れすぎている気もした。
「アニエス」
「はい」
「踊りの練習って、疲れると思う?」
「慣れないうちは疲れると思います」
「やっぱり」
「ですが、相談室の応対や討論への同席とは、また違う疲れでしょう」
「違う疲れが増えていくわね」
「増やしすぎないように管理いたします」
「頼もしい」
ルミエがそう言うと、アニエスは静かに頷いた。
「そのためにおります」
いつもの返答だった。
だが、その言葉を聞くたび、ルミエは少し安心する。
そしてアニエスもまた、その安心された様子を見て、次の仕事を増やす。
どちらが先なのかは、たぶん、もう分からなかった。
舞踏練習は、想像していたより早く決まった。
エレーヌの手紙に記されていた通り、クラリス家から学園側へすでに話は通っていたらしい。
学園側も、ルミエが今後社交の場へ招かれる可能性を把握していたため、礼法補習の一環として扱うことに異論はなかった。
練習場所に選ばれたのは、普段は礼法指導に使われる小広間だった。
大広間ほど広くはない。
けれど、数人が歩き、向かい合い、簡単な所作を確認するには十分な広さがある。
床はよく磨かれていた。
壁際には椅子が並び、隅には小さな演奏用の器具が置かれている。
音質はあまりよくないが、練習用に使われる、決まった曲を流すためのものらしい。
ルミエは、動きやすい練習用の服と、低めの踵の靴を身につけていた。
アニエスが用意したものだ。
裾は長すぎず、けれど普段着より少し広がりがある。
本番のドレスとは違うが、足元をまったく気にせず動ける服でもない。
「まずは足運びから確認いたしましょう」
礼法教師は年配の女性だった。
灰色がかった髪をきっちりとまとめ、背筋は驚くほど伸びている。
声は柔らかいが、曖昧なところがない。
微笑んでいても、見逃さない人だと分かる。
「ヴァロワ嬢は、舞踏のご経験は?」
「正式なものは、ほとんどありません」
「よろしい。知らないことは、覚えればよいのです」
礼法教師は当然のように言った。
その言い方には、見下しも慰めもなかった。
「舞踏は、華やかに見えますが、基本は相手に恥をかかせないための作法です。自分を美しく見せるためだけのものではありません。相手を乱さず、場を乱さず、曲を乱さない。そのために、型があります」
「はい」
ルミエは頷いた。
相手に恥をかかせないための作法。
それなら少し分かる気がした。
少なくとも、足を踏まないことは大事だ。
「最初に覚えるのは、歩幅と重心です。大きく動きすぎないこと。相手に引きずられないこと。逆に、相手を引きずらないこと」
礼法教師は床の上に立ち、ゆっくりと足を動かして見せた。
一歩。
寄せる。
回る。
戻る。
動きは大きくない。
だが、滑らかだった。
「まずは一人で」
「はい」
ルミエは教えられた通りに足を動かす。
一歩。
寄せる。
止まる。
「あ」
「足を見すぎですね」
すぐに指摘される。
「足を見れば、姿勢が崩れます。姿勢が崩れれば、相手に重さが伝わります」
「はい」
ルミエは顔を上げる。
もう一度。
一歩。
寄せる。
回る。
今度は、足の順番が分からなくなった。
「……難しいですね」
「最初は皆そうです」
礼法教師は少しも驚かなかった。毎年のように入れ替わる生徒たちに都度教えているのだから慣れているのだろう。
「歩くことと、舞踏として歩くことは違います。普段の身体の使い方を、一度別の型へ移す必要があります」
「はい」
ルミエは真面目に頷く。
ただ、内心では思っていた。
(足が忙しいし……すごく面倒くさい)
右。
左。
寄せる。
回る。
姿勢。
手。
視線。
一つずつ言われれば分かる。
だが、同時にやろうとすると、全部が少しずつ遠ざかる。
普段、身体は勝手に動く。
相手がいれば、勝手に言葉を返し、表情を作り、姿勢を選ぶ。
自分で一つずつ考えることは、あまりない。
だから、こうして相手のいない状態で、決まった型だけをなぞるのは少し苦手だった。
(私、自分の身体を自分で動かすの下手なのかな?)
そう考えて、少し嫌な気持ちになる。
「焦る必要はありません」
改めて言われる。
「一人での足運びは、覚え始めとしては十分です。ただ、舞踏は本来、一人でするものではありません。相手と組んだ時に、また感覚が変わります」
その言葉の後、小広間の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、イザベル・ド・ヴェルディエだった。
「失礼いたします」
姿勢正しく礼をするイザベルに、礼法教師は頷く。
「来てくれましたね、ヴェルディエ嬢」
「はい。必要であれば、相手役を務めます」
ルミエは少し驚いた。
「イザベル様が?」
「はい」
イザベルはルミエを見る。
「学園より、補助役が必要と伺いました。僭越でなければ、私がお手伝いいたします」
「ご迷惑ではありませんか」
「迷惑ではありません」
イザベルはきっぱりと言った。
「社交の場で必要な所作を身につけることは、立場ある者の務めです。ルミエ様は今後、正式な席へ招かれることが増えるでしょう。その準備をお手伝いすることは、学園の一員としても、私個人としても、意味のあることだと思います」
正しい。
とても正しい。
ルミエはそう思った。
そして、正しすぎて断りづらいとも思った。もっとも、この流れで断るという選択肢が、ルミエの前に残っているようにも思えなかった。
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
イザベルは礼を返す。
その顔は落ち着いていた。
だが、内側では少しだけ緊張していた。
ルミエ・ヴァロワの手を取る。
それは、相談室で向かい合うのとは違う。
討論の席で言葉を聞くのとも違う。
舞踏は距離の作法だ。
初めて触れたルミエの手は、少し冷たく、しなやかだった。
強くも、重くもない。けれど、離れてはいない。
導く時は乱暴にならず、導かれる時は重くならない。
相手の動きを読み、同時に自分の型を崩さない。
相手を尊重しながら、場の秩序を守る。
イザベルにとって、それは礼法の中でも特に重要なものだった。
「ヴェルディエ嬢は、男性側の歩法も?」
礼法教師が尋ねる。
「はい。相手の動きを知らずに、自分の動きだけを正しくすることはできませんので」
「結構。では、まずは基本の形を」
イザベルはルミエの前に立った。
「ルミエ様、失礼いたします」
「はい」
イザベルとの距離が近づく。
ルミエは改めて、触れているその手を間近で見た。
白く整った手。
指先まできちんと意識が届いている。
差し出された位置も、角度も、過不足がない。
意識した瞬間、何かが切り替わった。
……自動的に対応するべき対象が、決まったのだから。
足運びを一つずつ考えていた感覚が、少し遠のく。
代わりに、目の前の相手の呼吸が近くなる。
イザベルの肩の高さ。
腕に入っている力の加減。
一歩目を出そうとする前の、ほんの小さな重心の移動。
視線の向き。
息を吸う間。
それらが、言葉にならないまま身体へ届く。
ルミエは、自分で理解するより先に、姿勢を整えた。
「では、始めましょう」
礼法教師が操作をして器具から、静かな曲が流れ始めた。
イザベルが一歩進む。
ルミエは下がる。
先ほど一人で練習していた時より、ずっと迷いが少なかった。
一歩。
寄せる。
回る。
イザベルが少しだけ方向を変える。
ルミエの身体は、それを受けるように動いた。
足元を見ない。
けれど、足は大きく乱れない。
手に重さを預けすぎない。
けれど、離れすぎもしない。
イザベルの動きを邪魔しない位置へ、自然に収まる。
「……」
イザベルは、わずかに目を細めた。
初心者ではある。
足運びは完璧ではない。
回る時に、ほんの少し遅れる。
曲の区切りも、まだ十分には掴めていない。
だが、踊りにくくない。
むしろ、妙に合わせやすい。
ルミエは、イザベルの動きに逆らわなかった。
かといって、ただ頼りきっているわけでもない。
相手の導きを受け取りながら、自分の重心を保っている。
初心者にありがちな怖さが薄い。
引っ張らない。
押し返さない。
急に固まらない。
視線を足元へ落としすぎない。
相手が次に何をしようとしているのかを、受け取っている。
「止めます」
礼法教師の声で、二人は動きを止めた。
イザベルは手を離す前に、ルミエを見る。
「……お上手です」
ルミエは少し驚いた。
「そうでしょうか。足の順番は、まだ少し怪しい気がします」
「それは練習で覚えられます」
礼法教師が言った。
彼女も、少し興味深そうにルミエを見ていた。
「一人での足運びは、確かに覚え始めです。ですが、相手と組んだ時の反応が良い。相手がよく見えているのでしょう」
「見えている……のでしょうか」
ルミエは曖昧に答えた。
見ていたつもりはある。
だが、何をどう見えていたのかは相変わらず分からない。
イザベルの肩。
呼吸。
手。
足。
距離。
見た、というより、勝手に入ってきた。これもいつもどおりだ。
「舞踏は、覚えた型を相手に押しつけるものではありません。型は必要です。ですが、相手の動きを感じ取れなければ、どれほど正確に足を運んでも踊りにはなりません。その点、ヴァロワ嬢は相手を受ける感覚が良い」
「相手を受ける」
ルミエは、その言葉を繰り返した。
少し嫌な響きだった。
自分の身体が、自分より先に相手へ合わせる。
それはいつものことだ。
話している時もそう。
微笑む時もそう。
相手の言葉を聞く時もそう。
けれど、手を取って踊ると、それが身体の動きとしてはっきり分かる。
自分で足運びを考えていた時より、相手がいる方が動ける。
それは便利だった。
同時に、少し気持ち悪かったが、それは今更だった。こうして生きて来たのだから。
(……まあ、踏まないならいいか)
ルミエは、考えるのを少しやめた。
「もう一度、よろしいでしょうか」
イザベルが言った。
声は落ち着いていた。
けれど、ルミエには少しだけ熱があるように聞こえた。
「はい。お願いします」
ルミエは微笑む。
イザベルはもう一度、手を差し出した。
今度は、先ほどより少しだけ意識して、男性側の動きを取る。
歩幅を変える。
回る角度をわずかに変える。
曲の区切りで、ほんの少し間を置く。
ルミエは、それを受けた。
完璧ではない。
遅れるところもある。
けれど、崩れない。
イザベルが強く導けば、それに合わせる。
弱く導けば、待つ。
距離が詰まりすぎれば、自然に半歩分の余白を作る。
離れすぎれば、無理なく戻る。
まるで、相手にとってちょうどよい位置を探しているようだった。
イザベルは、胸の奥に静かな震えを覚えた。
この方は、相手を見ている。
そう思った。
ただ自分を美しく見せるのではない。
ただ正しく型をなぞるのでもない。
相手が動きやすい場所を、自分の身体で探している。
舞踏とは距離の作法だ。
相手を拒まない。
支配しない。
頼りきらない。
乱さない。
その距離を、ルミエはまだ技術として知らないはずなのに、恐ろしく自然に受け取っている。
「そこまで」
曲が止まり、ルミエは足を止め少しだけ息を吐いた。
「難しいですね」
「初回としては十分です」
ルミエの言葉に礼法教師は頷く。
「ただし、相手に合わせる感覚に頼りすぎてはいけません。型は型として覚えなければ、本番で相手が変わった時に崩れます」
「はい」
ルミエは真面目に返事をした。
内心では思う。
(本番で相手が変わるのか)
当然だ。
舞踏会とはそういうものだろう。
相手が一人とは限らない。
その事実に、また少し疲れた。
イザベルは手を離し、離した指先にわずかに感覚が残っている。
ルミエの手は、強くはなかった。
重くもなかった。
だが、確かにそこにあった。
預けすぎず、拒みすぎず。
ちょうどよい重さ。
イザベルは、その感覚を振り払うように姿勢を正した。
「ルミエ様」
「はい」
「差し出がましくなければ、次回以降もお手伝いさせてください」
ルミエは瞬きをした。
「よろしいのですか?」
「はい」
イザベルは迷わなかった。
「舞踏は、一度で身につくものではありません。相手役が毎回変わるより、最初は同じ相手で基礎を固める方がよいと思います」
「確かに、それは助かります」
ルミエは少し安心したように笑った。
「イザベル様は、とても分かりやすく合わせてくださるので」
その言葉は、イザベルの胸に静かに落ちた。
自分が合わせた。
自分が支えた。
自分の正しさが、相手を窮屈にするのではなく、相手の助けになった。
そう受け取れてしまう言葉だった。
「……光栄です」
イザベルは礼をした。
声は乱れていなかった。
だが、胸の奥にあるものは、少し熱かった。
礼法教師はそのやり取りを静かに見ていた。
アニエスもまた、壁際から見ていた。
ルミエが一人で足を運んでいた時。
相手の手を取った時。
イザベルの動きに合わせて、急に滑らかになった時。
それらを、アニエスは見ていた。
不思議ではある。
だが、説明できないわけではない。
ルミエは人を見る。
相手の言葉を受ける。
場に合わせる。
だから、舞踏でも相手に合わせるのが上手い。
そう言えば、説明はつく。
ついてしまう。
アニエスは、それ以上考えなかった。
今考えるべきことは、次回の練習時間、靴の調整、練習後の休息、そして筋肉痛への備えだった。
「アニエス」
練習を終えたルミエが、少しだけ困ったように振り返る。
「足、変なところを使った気がするわ」
「明日は痛むかもしれません」
「やっぱり?」
「はい。湯と軽い手入れを手配します」
「ふふ、頼もしい」
「そのためにおります」
いつものやり取りだった。
イザベルは、その横顔を見ていた。
ルミエが秘書に見せる、少し気の抜けた表情。
相談室で見る顔とも、討論で見た顔とも違う。
その違いを、イザベルは礼を失しない程度にだけ見つめる。
この方には、いくつもの距離がある。
生徒に向ける距離。
教師に向ける距離。
友人に向ける距離。
秘書に向ける距離。
そして今、自分が手を取った距離。
それらはすべて違う。人間はだれしもそういうものなのだろう。
だが、どれも乱れていない。
イザベルは、自分の胸の内で静かに確認した。
やはり、学ぶべきものがある。
その思いは、以前より少しだけ強くなっていた。
その夜。
職員寮の部屋で、ルミエは椅子に座り、足を軽く伸ばしていた。
アニエスが用意した温かい布を足元に当てている。
「変な感じ」
「痛みますか」
「痛いというより、使ったことがない場所があるのが分かるわ」
「明日は無理をなさらないでください」
「相談室にいるだけなら大丈夫。きっと」
「階段はゆっくりお使いください」
「はい」
ルミエは素直に頷いた。
机の上には、エレーヌからの手紙が置かれている。
舞踏会の備え。
また夜会に出るかもしれない。
その時、踊るかもしれない。
誰かの手を取るかもしれない。
ルミエは、自分の手を見下ろした。
イザベルの手を取った時の感覚が、少しだけ残っている。
相手がいると、身体が勝手に合わせる。
言葉だけではなく。
表情だけではなく。
足も、手も、重心も。
便利だ。
本当に、便利だ。
だからこそ、たぶん面倒なことになる。
「アニエス」
「はい」
「舞踏会って、何曲も踊るもの?」
「場にもよりますが、求められれば複数曲になることもございます」
「……そう」
ルミエは少し遠い目をした。
「一曲で十分だと思うのだけれど」
「そうならない場合に備えるための練習です」
「また正論ね」
ルミエは椅子の背にもたれ、目を閉じる。
今日はよく動いた。
相談室で座っているだけの日とは違う疲れだった。
それでも、足を踏まなかった。
倒れもしなかった。
イザベルは分かりやすかった。
礼法教師は厳しいが理不尽ではなかった。
アニエスは温かい布を用意してくれた。
なら、悪くない日だったのだろう。
たぶん。
窓の外には、夜の学園が静かに沈んでいる。
いつかまた、夜会の灯りの下に立つことになるのかもしれない。
その時、誰かが手を差し出すのかもしれない。
ルミエは、その相手の顔までは考えなかった。
ただ、少しだけ思う。
(足を踏まないといいな)
それだけだった。




