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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『噂は静かな部屋から』
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『翌日の噂』

翌日の学園は、いつも通りに始まった。

少なくとも、表向きはそうだった。

朝の回廊には生徒たちの足音が響き、講義へ向かう者、友人と短く言葉を交わす者、教師に呼び止められて姿勢を正す者がいる。

食堂では朝食を取る者たちが静かに席を埋め、交流室では早くも数人が今日の予定について話していた。

王立ヴァルテール学園の日常。

その形は、何も変わっていない。

ただ、その日、いくつかの会話の中に同じ名が混じっていた。


「昨夜、出席なさっていたのでしょう?」

「ええ。クラリス家の夜会に」

「ヴァロワ嬢も?」

「いらしていたわ」

「どうでした?」


問われた令嬢は、少しだけ言葉を探す。

美しかった。

落ち着いていた。

噂以上だった。

そう言えば簡単だった。

だが、どの言葉も少し違う気がした。


「……静かだったわ」


結局、そう答える。


「静か?」

「ええ。あれほど見られていたのに、少しも騒がしくなかったの」


言った本人も、正確な説明ではないと分かっていた。

けれど、その場にいなかった者たちは、少しだけ想像する。

夜会。

明かり。

音楽。

有力家の者たち。

その中に立つ、黒髪の少女。

相談室にいるルミエ・ヴァロワ。

食堂で見かけるルミエ・ヴァロワ。

図書室で本を読んでいるルミエ・ヴァロワ。

そして、王都の夜会に立ったルミエ・ヴァロワ。

各々が見かけたことのあるその像が、学園の中で少しずつ重なっていく。

相談室を訪れる者も、その日はわずかに多かった。

大勢が押しかけたわけではない。

扉の前に列ができるようなこともない。

教師が注意しなければならないような騒ぎも起きていない。

ただ、いつもなら通り過ぎる足音が、一度止まる。

そのうちのいくつかが、扉を叩く。

それだけだった。


「どうぞ」


ルミエが声をかけると、扉が開く。

入ってきたのは、以前に一度だけ顔を見たことのある令嬢だった。

確か、相談というより付き添いで来たことがある生徒だ。


「失礼いたします」

「いらっしゃいませ。どうぞ、お掛けください」


ルミエはいつも通り、向かいの席を示す。

令嬢は腰を下ろしたが、すぐには話し出さなかった。

視線が、ほんの少しルミエの顔へ向かう。

それから机へ落ちる。


「昨日の夜会に、出席なさっていたと聞きました」

「はい。ご招待をいただきましたので」

「……そうでしたか」


そこで会話は途切れた。

相談に来たはずなのに、最初の言葉は夜会のことだった。

ルミエは急かさない。

令嬢はしばらく手元を見ていたが、やがて小さく息を吐く。


「私、昨夜出席した友人から話を聞いて……それで、少し」

「はい」

「自分でもよく分からないのですけれど、なぜか落ち着かなくなってしまって」

「落ち着かなく?」

「はい。友人が、とても楽しそうに話すのです。ルミエ様がいらして、皆が見ていて、とても素敵だったと。それを聞いていると、私も見たかったと思うのと同時に、何だか置いていかれたような気がして」


令嬢は言ってから、少し顔を赤らめた。


「変な話ですよね。自分が招かれていない夜会のことで、そんな風に思うなんて」

「変ではないと思いますよ」


ルミエは静かに答えた。


「自分の知らない場所で、知っている方たちが何かを見てきたと聞けば、少し気になることはあると思います」

「……そうでしょうか」

「はい。羨ましいと思うことと、誰かを悪く思うことは、同じではありませんから」


令嬢は黙った。

その言葉を、自分の中で確かめるように。

やがて、少しだけ肩の力を抜く。


「そう、ですね。私はたぶん、友人を悪く思いたかったわけではないのです」

「はい」

「ただ、羨ましかったのだと思います」

「そう言えるなら、十分だと思います」


ルミエがそう言うと、令嬢は少しだけ笑った。

本当に少しだけだった。

けれど、入ってきた時より、息はしやすそうだった。

その後も、相談室には何人かが訪れた。

夜会に出た者。

出ていない者。

話だけ聞いた者。

家族から尋ねられた者。

内容は、大きなものではなかった。


「昨夜、父がルミエ様のことを話しておりました」

「母が相談室に興味を持っていて……」

「兄が、ヴァロワ家と今後関わるかもしれないと言っていて」

「夜会の場では、緊張されませんでしたか」


それは相談と言うより、確認に近かった。そして、何よりも興味。

夜会に立っていたルミエと、相談室にいるルミエが同じ人物なのか。

昨夜の噂の中の少女が、今ここで静かに座っているこの人なのか。

皆、それを少しずつ見に来ているようでもあった。

ルミエは、特に変わらず応じた。


「はい。少し緊張しました」

「とても華やかな場でした」

「皆さま、よくしてくださいました」

「ただ、人が多い場所ではありますね」


言葉は穏やかだった。

夜会のことを誇るでもなく、過度に疲れたと言うでもない。

ただ、聞かれた分だけ返す。

それで、生徒たちは納得したような、少し物足りないような顔をして帰っていく。

相談室の扉が閉まるたび、ルミエは机の上の本へ視線を戻した。

だが、今日はあまり読み進まなかった。

来訪者が少し多かったから、というのもある。

それに。


(少し眠い)


昨夜の疲れは、まだ残っていた。

きちんと眠ったはずなのに、身体の奥に薄い重さがある。

慣れないドレス。

長い挨拶。

視線の多さ。

帰りの馬車で少し眠ったとはいえ、完全に抜けたわけではない。

何より気疲れした。

それでも、相談室に誰かが来れば、ルミエはいつも通りに応じる。

微笑み、頷き、相手の言葉を受け取って。

問題はなかった。

外から見れば。

昼を過ぎる頃には、来訪者の流れも落ち着いた。

ルミエは扉の札を確認し、相談室を一度離れることにした。

閉室ではない。

少し席を外すだけだ。

札にその旨を示し、ルミエは廊下へ出る。

向かう先は、図書室だった。

相談室にいると、誰かが来るかもしれない。

職員寮へ戻るには少し半端な時間だ。

食堂へ行くほど空腹でもない。

そうなると、やはり図書室になる。

静かで、本があり、椅子がある。

それだけで十分だった。

図書室の扉を開けると、いつもの静けさが迎えてくれる。

広い室内には数人の生徒がいるだけだった。

試験前ではないため、席には余裕がある。

書架の間を歩く生徒の足音も、静性石の効果でほとんど気にならない。

ルミエは窓際の席へ向かった。

いつもの席。

そこが空いていることを確認して、少しだけ安心する。

本を一冊手に取り、席に座る。

開いた本は、王都周辺の古い街道について書かれたものだった。

特別に読みたかったわけではないが、昨日の夜会のような華やかなものより、街道や橋や宿場の話の方が今は落ち着いた。

ページを開く。

数行読む。

少し眠くなる。


(だめだ、今日は眠い)


ルミエは瞬きをした。

その時だった。

近づいてくる足音がある。

大きくはない。

だが、聞き覚えがあった。

ルミエが顔を上げると、リュシアン・ド・ヴァルテールが立っていた。


「ルミエ嬢」

「リュシアン様」


ルミエは本に指を挟んだまま、軽く礼をする。


「昨日は、お見かけしましたが、お話ができませんでしたね」


その言葉はどこか気さくで、浮かぶ微笑みも同じ。

夜会で同じ場にいた相手へ向ける、ただの挨拶。

だがリュシアンは、一瞬だけその言葉を受け止めるように黙った。


「ええ。お声がけする機会を逃してしまいました」

「お忙しそうでしたもの」

「それは、貴女もでしょう」


ルミエは少しだけ首を傾ける。


「そうでしょうか?」

「少なくとも、昨夜は多くの方に囲まれていました」

「そうですね。たくさんご挨拶をいただきました」

「……お疲れではありませんか」


そう尋ねてから、リュシアンは自分で少しだけ意外に思った。

王子としてなら、もっと別の言い方があったはずだ。

昨夜はご立派でした。

初めての場とは思えないほど落ち着いていらした。

評判も良かったようです。

そうした言葉の方が自然だった。

けれど、口から出たのは、疲れていなかったか、だった。

ルミエは一度瞬きをして、それから、少し困ったように笑う。


「少し、疲れました」


その返答は、軽かった。

重くない。

愚痴でもない。

夜会を悪く言うものでもない。

ただ、事実としてそう答えた。

リュシアンは、その一言を聞いていた。


「そうですか」

「はい。人が多い場所は、少し疲れますね」


ルミエは本を閉じる。


「皆さまよくしてくださったので、嫌だったわけではありません。ただ、慣れない場でしたから」

「それでも、そうは見えませんでした」

「そうですか?」

「ええ」


リュシアンは、席の向かいへ視線を向ける。

ルミエが軽く手で示したので、彼は腰を下ろした。


「昨夜の貴女は、とても落ち着いて見えました」

「落ち着いて……」


ルミエは少し考える。


「そう見えたなら、よかったです」

「見せようとしていたわけではないのですか」


問いは、少しだけ踏み込んでいた。

リュシアンも言ってから少し失言だったかと思ったが、ルミエは責められたようには受け取らなかったようだ。


「どうでしょう。失礼がないようにとは思っていました」

「それだけですか?」

「それだけ、というほど簡単ではありませんけれど」


ルミエは小さく笑う。


「でも、夜会はそういう場所なのでしょう?」

「そういう場所」

「はい。誰かと挨拶をして、少し話して、失礼がないようにして、必要ならまた次に繋げる場所」


リュシアンは、その言葉を聞いて少しだけ目を細めた。

夜会の説明としては間違っていない。

あまりに簡潔で、あまりに実務的だった。


「貴女は、昨夜の場を楽しめましたか」


また、少し踏み込んだ問いだった。

聞くつもりがあったのか、自分でも分からない。

ルミエは、ほんのわずかに目を伏せる。


「綺麗な場でした」

「はい」

「音楽も、灯りも、ドレスも、皆さまのお話も。絵のようで」

「絵のよう」

「ええ。見ている分には、とても綺麗でした」


その言い方に、リュシアンは少し引っかかった。

見ている分には。


「では、その中にいるのは?」


ルミエは少しだけ困ったように笑った。


「少し、疲れますね」


同じ答えだった。

けれど、二度目に聞くと少し違って響いた。

リュシアンは、昨夜のバルコニーを思い出す。

夜風を受けたルミエ。

空を見上げる横顔。

遠くから向けられる視線。

落ち着いていた。

美しかった。

だが、あの時たしかに、彼女は外の空気を吸っていた。


「……分かる気がします」


リュシアンは静かに言った。

ルミエが視線を上げる。


「リュシアン様も?」

「ええ。夜会は華やかですが、ただ華やかなだけではありませんから」


その言葉は、王子として場を知っている者の声だった。

ルミエは頷く。


「そうなのですね」

「貴女は、あまり夜会に憧れは?」

「憧れ……」


ルミエは少し考えた。


「物語の中なら、楽しそうだと思います」

「現実では?」

「準備が大変で、人が多くて、料理を食べる時間があまりありませんでした」


あまりに素直な答えだった。

リュシアンは一瞬、返答に迷う。

それから、小さく息を漏らした。

笑った、というほどではない。

だが、確かに口元が少し緩んだ。


「それは、重要な問題ですね」

「ええ。せっかく美味しそうだったのに」


ルミエは真面目に頷く。


「次があるなら、もう少し食べられるといいのですけれど」

「次があることは、もう受け入れているのですか」

「秘書のアニエスに、おそらくあると言われました 」

「それは、信頼できる見立てですね」

「やっぱり、そうなのですね」


ルミエは小さく息を吐く。

その様子は、昨夜の夜会で見た姿とは少し違っていた。

完璧な令嬢ではない。

相談室の主でもない。

ただ、夜会で料理を食べ損ねたことを少し残念がっている少女だった。

リュシアンは、その事実を少し不思議に思う。

そして、なぜか少し安心した。


「次は、食べられるとよいですね」

「はい」


ルミエは微笑む。


「その時は、リュシアン様もおすすめを教えてください」

「私が?」

「はい。夜会にはお詳しそうですから」

「詳しい、というほどでは」

「でも、私よりはずっと」


それは確かにそうだった。

王子として招かれてきた場の数は、彼女とは比べものにならない。


「では、次の機会があれば」

「はい」


ルミエは頷いた。


「お願いします」


会話はそこで一度途切れ図書室の静けさが戻る。

遠くで、誰かがページをめくる。

書架の向こうで、誰かが本を戻す。

ルミエは本へ視線を落とす。

リュシアンも、近くの書架から持ってきた本を開く。

しばらく、二人は何も話さなかった。

その沈黙は、夜会の沈黙とは違っていた。

埋めなければならないものではない。

誰かに見せるための間でもない。

次の言葉を探るための準備でもない。

ただ、そこにあっても良いと許される、そんな沈黙だった。

リュシアンは、ふと気づく。

昨夜の広間で、彼女は常に誰かの言葉を受けていた。

誰かの視線を受けていた。

誰かの期待を受けていた。

ここでは、彼女は本を読んでいる。

それだけだった。

それだけのことが、なぜか昨夜よりも近く見える。


「ルミエ嬢」

「はい」


ルミエが顔を上げる。


「今日、図書室に来たのは、休むためですか」

「……たぶん、そうです」


少しだけ考えてから、ルミエは答えた。


「相談室にいると、誰かが来るかもしれませんから」

「誰かが来ることは、嫌では?」

「嫌ではありませんよ?」


ルミエはそう答える。


「でも、誰も来ない時間があると、少しのんびりできますから」


その言葉は、軽かった。

けれど、リュシアンの中にははっきり残った。

誰も来ない時間があると、のんびりできる。

相談室にいる彼女が。

人の話を聞く彼女が。

夜会で完璧に挨拶を返していた彼女が。


「……そうですか」

「はい」


ルミエはまた微笑み、首を傾げた


「変でしょうか?」

「いいえ」


リュシアンは首を振った。


「むしろ、とても自然だと思います」


ルミエは少しだけ目を瞬かせた。

それから、柔らかく笑った。


「ありがとうございます」


その笑みは、昨夜の広間で見たものより小さかった。

だが、リュシアンには、こちらの方が長く残るような気がした。

鐘の音が遠くで鳴る。

午後の時間が少し進んだことを知らせる音だった。

リュシアンは本を閉じる。


「そろそろ戻ります」

「はい」

「昨夜は、お疲れ様でした」

「ありがとうございます。リュシアン様も」

「私も?」

「はい。夜会は、楽しいだけの場所ではないのでしょう?」


リュシアンは一瞬だけ黙った。

それから、静かに笑う。


「ええ。そうですね」

「では、お疲れ様でした」


その言葉は、ただ返されたものだった。

けれど、リュシアンには不思議と心地よく響いた。

王子としての労いではない。

社交辞令でもない。

少なくとも、そう見えた。

ただ、同じ夜会にいた者として、疲れただろうと返された言葉。

それだけだった。


「ありがとうございます」


リュシアンはそう答え、席を立つ。

図書室を出る時、彼は一度だけ窓際の席を振り返りそうになった。

だが、振り返らなかった。

振り返る理由はない。

そう思いながら、廊下へ出る。

学園の音が戻ってくる。

足音。

話し声。

遠くで笑う声。

いつもの日常だった。

ただ、その中に、昨夜の夜風と、今日の小さな会話が混じっている。

リュシアンは歩きながら、ふと思う。

次の夜会があるなら。

彼女はまた、少し疲れるのだろうか。

そう思ったところで、自分が次を考えていることに気づいた。

そして、その理由を考える前に、リュシアンはいつものように表情を整えた。

相談室に戻ったルミエは、扉の札を元に戻した。

部屋の中は静かだった。

机の上には、朝からあまり進んでいない本が置かれている。

ルミエは椅子に座り、少しだけ息を吐く。

午後の光が窓から差し込んでいる。

夜会の翌日。

少しだけ来訪者が多くて、少しだけ眠くて、図書室でリュシアンと話した日。

それだけの日だった。

少なくとも、ルミエにとっては。

扉の外で、誰かの足音が止まる。

ルミエは顔を上げる。

二度、控えめなノック。


「どうぞ」


口から出た声は、いつものように柔らかかった。

昨日の夜会の熱も。

今日の学園の噂も。

図書室での会話も。

全部を知らないような顔で、ルミエ・ヴァロワはまた、誰かを迎え入れた。

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