『残された熱』
夜会は、まだ続いていた。
ルミエ・ヴァロワが会場に現れてから、広間の空気はわずかに変わっている。
劇的に何かが起きたわけではない。
誰かが声を荒げたわけでも、音楽が止まったわけでも、予定にない出来事が挟まれたわけでもない。
ただ、視線の向く方向が変わった。
誰かがルミエの方を見る。
その視線を追って、別の誰かも見る。
会話の途中で、ほんの少しだけ間が空く。
そして、何事もなかったように話が再開される。
それだけのことが、何度も繰り返されていた。
ルミエは、ヴァロワ家の王都拠点の代理人に付き添われながら、幾人もの相手と挨拶を交わしていた。
「ヴァロワ嬢。お噂はかねがね」
「恐れ入ります」
「王立学園の相談室で、生徒たちの話を聞いておられるとか」
「はい。まだ未熟ではございますが、そのような役目をいただいております」
「未熟などと。娘が、あなたのことを話しておりました。ずいぶん気持ちが落ち着いたと」
「そうでしたか。少しでもお役に立てたのでしたら、嬉しく思います」
穏やかな声だった。
謙遜しすぎない。
誇らない。
相手の言葉を受け取り、必要な分だけ返す。
貴族ではない。
だが、場に出しても恥ずかしくない。
それどころか、下手な貴族の子女よりもよほど余計な波を立てない。
そう見る者は、少なくなかった。
「フランソワ殿は、良い娘を育てられた」
年配の商会主が、代理人へそう言うと代理人は丁重に頭を下げる。
「当主も、そのお言葉を喜ぶかと存じます」
「いや、世辞ではないよ。若い者は、どうしても場に飲まれる。目立ちたがる者もいれば、逆に縮こまる者もいる。だが、あの令嬢は違う」
商会主は、少し離れた場所で別の挨拶を受けているルミエを見る。
「場に合わせるのではなく、場があの令嬢を基準に少し静かになる」
代理人は答えなかったが、その言葉は胸の内に留めた。
ヴァロワ家の者として、誇らしくもあり、少し恐ろしくもある評価だった。
そして代理人自身も、どこかで似たことを感じていた。
別の卓では、若い令嬢たちが声を落としていた。
「……本当に、相談室にいらっしゃる時と同じなのね」
「あなた、行ったことがあるの?」
「ええ。一度だけ」
そう答えたのは、以前ルミエと食堂で同席した令嬢だった。
彼女はカップに指を添え、少しだけ視線を伏せる。
「あの方は、どこでも同じように見えるわ。相談室でも、食堂でも、今夜のような場でも」
「それは、すごいことなのではなくて?」
「そうね。たぶん、すごいことなのだと思う」
令嬢は、ルミエの方を見る。
ルミエは、若い貴族の挨拶に微笑みながら答えていた。
相手は少し緊張しているらしく、言葉を探している。
ルミエは急かさず、笑いもせず、ただ待っていた。
その待ち方だけで、相手の肩が少し下がる。
「相談室にいた時も、ああだったわ」
令嬢が言う。
「何か特別なことを言われたわけではないの。ただ、こちらが言葉を出せるまで待ってくださった」
「それだけ?」
「ええ。それだけ」
彼女は少し笑う。誰もが間を恐れ、あるいは忌避してつい、言葉で埋めてしまうものだ。
「でも、それが難しいのだと思う」
その言葉に、周囲の令嬢たちはすぐには返さなかった。
夜会では、誰もが言葉を持っている。
挨拶。
称賛。
探り。
含み。
家名を背負った、綺麗な言葉。
けれど、誰かが黙ることを許す言葉は、あまり多くない。
令嬢たちは、改めてルミエを見た。
「……少し、話してみたいわ」
一人がぽつりと言う。
それは、好奇心だった。
けれど、それだけでもなかった。
エレーヌ・クラリスは、少し離れた場所から夜会の流れを見ていた。
主催側に近い立場として、彼女には確認すべきことが多い。
招待客に不都合はないか。
紹介の順番は乱れていないか。
ルミエが一か所に長く留められすぎていないか。
興味本位だけで近づこうとする者を、さりげなく別の会話へ流せているか。
エレーヌは、それらを一つずつ処理していた。
表情は穏やかで、動作は落ち着いている。
誰が見ても、クラリス家の令嬢として夜会を支えているように見えるだろう。
実際、その通りだった。
だが、彼女の意識の中心には、常にルミエがいた。
ルミエ様は疲れていないか。
囲まれすぎていないか。
失礼な視線を向ける者はいないか。
あの方を、軽々しく消費しようとする者はいないか。
そして同時に、エレーヌは見ていた。
王都の者たちが、ルミエを見ている。
初めは噂を確かめる目だった。
次に、美しさを認める目になった。
そして今は、その言葉や仕草に何かを見出そうとする目になっている。
正しく進んでいる。
エレーヌは、そう判断した。
「クラリス嬢」
声をかけられ、エレーヌは振り向く。
教育行政に関わる家の夫人だった。
「今夜はよい場ですわね。若い方々も、落ち着いて交流できているようです」
「ありがとうございます。皆さまのおかげです」
「いいえ。クラリス家の準備が行き届いているのでしょう。それに……ヴァロワ嬢」
夫人は、ルミエへ視線を向ける。
「不思議な方ですね」
エレーヌの胸の奥が、わずかに反応した。
「不思議、でございますか」
「ええ。目立つのに、出しゃばらない。控えめなのに、埋もれない。ああいう方は、なかなかいません」
「……そうですね」
「学園の相談室について、娘からも少し聞いていました。正直なところ、商家の令嬢を貴族や家格のある子女の相談役に据えるとは、思い切ったことをするものだと思っておりましたけれど」
夫人は、そこで少しだけ笑う。
「今夜、分かった気がします」
その言葉は、エレーヌに深く入った。
分かった。
そう。
分かっていただけた。
「恐れ入ります」
エレーヌは微笑む。
「ヴァロワ嬢は、非常に優れた方です。学園でも、既に多くの方に良い影響を与えておられます」
「クラリス嬢は、ずいぶん高く評価していらっしゃるのね」
「はい」
エレーヌは迷わず頷いた。
「正しく評価されるべき方だと思っております」
夫人は、少しだけ目を細めた。
その熱に気づいたのかもしれない。
気づかなかったのかもしれない。
ただ、それ以上は触れなかった。
「そう。では、今夜はその一歩になったのかもしれませんね」
「……はい」
エレーヌは静かに答える。
「そうであれば、嬉しく思います」
言葉は控えめだった。
だが、胸の奥では、はっきりと声がしていた。
そう。
今夜は、最初の一歩なのだ。
リュシアン・ド・ヴァルテールは、何度かルミエを見ることになった。
見ようとしたわけではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
ただ、会場の視線が彼女へ向かう。
誰かが彼女の名を口にする。
近くで挨拶が交わされる。
そうなれば、自然と視界に入る。
そういうことにしていた。
「リュシアン様、先ほどから何かお気になることでも?」
横にいた青年が尋ねる。
リュシアンは穏やかに笑った。
「いいえ。少し会場の様子を見ていただけです」
「今夜は、ヴァロワ嬢の話題が多いですね」
「そうですね」
「噂には聞いておりましたが、なるほど。確かに目を引く方です」
青年の声には、単純な称賛と好奇心が混じっている。
リュシアンは軽く頷いた。
「ええ」
それ以上は言わない。
言えば、言葉が余計な形を持つ気がした。
彼にとって、ルミエはまだ明確に何かと名づけられる相手ではない。
図書室で時折言葉を交わす相手。
食堂で見かけた相手。
王立学園の相談室にいる相手。
そして今夜、社交場で完璧に振る舞っている相手。
それらが同じ人物であることは分かっている。
分かっているのに、並べると少しずつ像がずれていく。
図書室のルミエは、静かだった。
食堂のルミエは、少し軽やかだった。
今夜のルミエは、誰の前でも過不足なく美しい。
どれも本物に見える。
ならば、どれが彼女なのか。
そう考えかけて、リュシアンは内心で首を振った。
他人をそのように切り分けることに意味はない。
人は場によって振る舞いを変える。
王子である自分が、それを一番よく知っている。
ならば、彼女もそうなのだろう。
ただ、それだけのことだ。
それだけのことなのに。
「……少し疲れているようにも見えますね」
ぽつりと、青年が言った。
リュシアンは、反射的に視線を向ける。
「ヴァロワ嬢が?」
「ああ、いえ。失礼。そう見えただけです。あれだけ挨拶を受ければ、誰でも疲れるでしょう」
青年は軽く笑った。
何気ない一言だった。
リュシアンは、再びルミエを見る。
彼女は、年配の貴族に何かを尋ねられ、静かに答えている。
表情は変わらない。
微笑みも崩れない。
疲れているようには見えない。
けれど。
バルコニーへ向かっていった時の、ほんの少しだけ早い歩み。
夜風を受けた瞬間の、わずかな呼吸。
空を見上げる横顔。
その一瞬だけ、彼女の周囲にあったものが少し遠のいたように見えた。
リュシアンは、なぜかその場面を思い出した。
「……そうかもしれませんね」
気づけば、そう答えていた。
青年は少し意外そうにリュシアンを見る。
「リュシアン様がそうおっしゃるとは」
「誰でも疲れるでしょう。この場は、楽しいだけの場所ではありませんから」
言ってから、自分でも少し意外だった。
青年は納得したように頷く。
「確かに」
話はそこで流れた。
だが、リュシアンの中には小さく残った。
誰でも疲れる。
その当たり前の言葉が、なぜかルミエと結びついたまま離れなかった。
イリーナ・ローデンフェルトもまた、ルミエを見ていた。
彼女は留学生として、またカルヴァーニア公国の大公家の娘として、この夜会に招かれていた。
魔石産出国であるカルヴァーニアにとって、ヴァロワ家は無視できない相手である。
流通を握る家。
各地の魔石を動かし、加工家と結び、必要な場所へ届ける家。
その令嬢が、今夜正式に王都社交の場へ出てきた。
本来なら、商業と政治の目で見るべき相手だ。
イリーナは、そのつもりで見ていた。
「どう思われますか、イリーナ様」
隣にいた同郷の青年が声を落として尋ねる。
「ヴァロワ嬢のことですか」
「ええ。ずいぶん注目されています」
「注目されるだけの理由はあるのでしょう」
イリーナはそう答える。
「少なくとも、この場で無視できる方ではありません」
「美しいからですか?」
「それもあるでしょう」
イリーナは否定しない。事実、容姿だけを取っても、これまで見てきた者の中で並ぶ者は多くない。
「ですが、それだけなら美しい方は他にもいます」
彼女はルミエを見る。
ルミエは、若い令嬢の言葉に静かに耳を傾けていた。
相手の話は、おそらく夜会の感想程度のものだろう。
それでもルミエは、くだらないとも、軽いとも扱わない。
聞く。
そして、少し返す。
それだけで相手の表情が明るくなる。
「彼女は、相手の話をもう少し続けさせるのが上手い」
イリーナは言った。
「相談室のことですか」
「それもあります。けれど、ここでも同じです」
「それは、外交向きということでしょうか」
イリーナは少しだけ考える。
「外交というより、流通に近いかもしれません」
「流通?」
「言葉を止めずに、相手から相手へ流していく。自分で強く押すのではなく、流れを滞らせない」
そう言ってから、イリーナは自分で少しだけ笑った。
「ヴァロワ家の方らしい、と言うべきでしょうか」
「なるほど」
青年は感心したように頷く。
イリーナは、それ以上言わなかったが、内心では少し別のことを考えている。
ルミエ・ヴァロワは、危うい。
人を強引に従わせるわけではない。
権力で押すわけでも、弁舌で圧倒するわけでもない。
だが、相手は自分から話す。
勝手に安心する。
勝手にもう少し近づきたくなる。
それは、強制ではないからこそ扱いづらい。
イリーナは、以前の茶席を思い出す。
魔石を産む側と、扱う側。
便利なものに頼ることと、それを忘れること。
あの時もそうだった。
ルミエは、答えを押しつけなかった。
けれど、イリーナの考えの隣に、そっと別の言葉を置いた。
今夜も同じなのだろう。
「……本当に、厄介ですね」
イリーナが小さく呟く。
「何か?」
「いいえ」
イリーナは微笑んだ。
「ヴァロワ家とは、良い関係を築くべきだと思っただけです」
それは、政治的な判断として正しい。
そして、それだけではなかった。
夜会の終わりが近づく頃には、ルミエの周囲に最初ほどの密度はなくなっていた。
一通りの挨拶は終わり、場の熱も少し落ち着いている。
それでも、誰かが近づいてくる。
別れ際に一言だけ声をかける。
またお話を、と言う。
学園で娘がお世話になっております、と礼を述べる。
ルミエは、そのすべてに応じた。
「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」
「はい。また学園で」
「お話しできて光栄でした」
「どうぞ、お気をつけて」
言葉は自然に出ていく。
誰も、その裏側を知らない。
ルミエの足が少し疲れていることも。
そろそろ座りたいと思っていることも。
夜会の料理をほとんど食べられていないことを、少し残念に思っていることも。
外から見れば、最後まで乱れない令嬢だった。
エレーヌが近づいてくる。
「ルミエ様、本日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、エレーヌ様。素敵な場にお招きいただき、感謝しております」
「ご負担ではございませんでしたか」
その問いは、主催側として自然なものだった。
だが、エレーヌの声にはほんの少しだけ別の色が混じっていた。
ルミエは微笑む。
「少し緊張はしましたけれど、皆さまがよくしてくださったので」
嘘ではない。
少なくとも、外から見てそう言って問題はなかった。
「それならば、よかったです」
エレーヌは微笑んだ。
その胸の内で、また一つ何かが確かめられる。
ルミエ様は、この場を受け入れてくださった。
負担だったとしても、そうは見せなかった。
そして、感謝してくださった。
ならば、この夜は成功だった。
「また、このような場がございましたら」
エレーヌは言いかけて、少しだけ止める。
早すぎる。
今はまだ、今夜を終えるべきだ。
「……いえ。まずは、今夜のお疲れを癒やしてくださいませ」
「ありがとうございます」
ルミエは穏やかに頷く。
「……エレーヌ様、今度は二人で、もう少し静かにお喋りしたいですね」
小声で、悪戯っぽいその言葉に、エレーヌは一瞬だけ動きを止めた。
ルミエは変わらず微笑んでいる。しかし、どこか親しみと気安さのあるように思える笑み。
自分にだけに向けられたもの。
この場ではきっと、あまり相応しくないであろう、同時に、エレーヌ・クラリスだけに向けられた言葉と笑み。
胸の奥にやってきた衝撃を押し込めて笑い返した。
「……はい、是非」
返事は短かった。
エレーヌは礼をする。
完璧に。
けれど、顔を上げた時、その目には先ほどより少しだけ熱が残っていた。
ようやく馬車へ戻った時、ルミエは静かに息を吐いた。
夜会の明かりが背後にある。
王都の夜風は涼しく、馬車の中は思ったより静かだった。
アニエスが向かいに座る。
「お疲れ様でした」
「……疲れたわ」
ルミエは素直に言った。
今度は、誰に聞かせるためでもなく。
アニエスは頷く。彼女も会場の端で従者としてその場にいた。
「大変よくお務めでした」
「そう?」
「はい。ヴァロワ家としても、申し分のないお振る舞いだったかと」
「それなら、よかった」
ルミエは背もたれに身体を預ける。
ドレスが少しだけ窮屈だった。
髪飾りも、長くつけていると重く感じる。
足も少し痛い。
それでも、終わった。
「料理、あまり食べられなかった」
ぽつりと呟く。
アニエスは、少しだけ瞬きをした。
「次回があれば、合間に軽食を取れるよう手配いたします」
「次回……」
ルミエは遠い目をする。
「あるのかしら?」
「おそらくは」
「そう」
ルミエは窓の外を見る。
夜会の屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。
明かりはまだ残っている。
そこでは今も、誰かが話しているのだろう。
今夜のこと。
ヴァロワ家のこと。
ルミエ・ヴァロワのこと。
ルミエはそれを知らない。
知らないまま、静かに目を伏せた。
「……少し寝てもいい?」
「到着しましたら起こします」
「ありがとう」
そう言って、ルミエは目を閉じる。
馬車の揺れは穏やかだった。
会場には、まだ熱が残っていた。
ルミエが去ったあとも、その名は小さく交わされている。
「ヴァロワ嬢、想像以上だったな」
「美しいだけではない。あれは、人を落ち着かせる」
「クラリス家が推すのも分かる」
「いや、あれほどの娘を王都に出してきたヴァロワ家の意図も気になる」
「相談室といい、今夜の顔見せといい、これから何かあるのでは」
言葉はそれぞれ違う。
称賛。
警戒。
期待。
計算。
好奇心。
一つにまとまっているわけではない。
だが、そのどれもが、ルミエ・ヴァロワという名を中心に回っていた。
エレーヌは、その声を遠くに聞きながら、静かに立っていた。
グラスを握る手に力がこもるのは喜びか、あるいは。
夜会は終わりに近い。
けれど、終わったのは場だけだった。
今夜見たものは、それぞれの家へ持ち帰られる。
子へ、親へ、友人へ、使用人へ、また別の誰かへ。
そうして、噂は形を変えていく。
今夜、王都の者たちはルミエを見た。
それだけで十分だった。
エレーヌは、誰にも見えないほど小さく息を吐く。
成功した。
そう思った。
そして、同時に。
これで、さらに多くの者がルミエ様を知ってしまう。
そうも思った。
胸の奥に残った熱が、少しだけ形を変える。
喜びか。
誇りか。
不安か。
あるいは、もっと別のものか。
エレーヌは、それに名前をつけない。
ただ、扇を閉じる。
「……次も」
小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。
「きっと、正しく」
夜会の明かりは、まだ消えていない。
その夜、何か大きな事件が起きたわけではなかった。
ただ一人の少女が招かれ、挨拶を交わし、微笑み、そして帰っただけ。
それだけだった。
けれど、その場に残された熱は、しばらく消えそうになかった。




