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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『噂は静かな部屋から』
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59/89

『残された熱』

夜会は、まだ続いていた。

ルミエ・ヴァロワが会場に現れてから、広間の空気はわずかに変わっている。

劇的に何かが起きたわけではない。

誰かが声を荒げたわけでも、音楽が止まったわけでも、予定にない出来事が挟まれたわけでもない。

ただ、視線の向く方向が変わった。

誰かがルミエの方を見る。

その視線を追って、別の誰かも見る。

会話の途中で、ほんの少しだけ間が空く。

そして、何事もなかったように話が再開される。

それだけのことが、何度も繰り返されていた。

ルミエは、ヴァロワ家の王都拠点の代理人に付き添われながら、幾人もの相手と挨拶を交わしていた。


「ヴァロワ嬢。お噂はかねがね」

「恐れ入ります」

「王立学園の相談室で、生徒たちの話を聞いておられるとか」

「はい。まだ未熟ではございますが、そのような役目をいただいております」

「未熟などと。娘が、あなたのことを話しておりました。ずいぶん気持ちが落ち着いたと」

「そうでしたか。少しでもお役に立てたのでしたら、嬉しく思います」


穏やかな声だった。

謙遜しすぎない。

誇らない。

相手の言葉を受け取り、必要な分だけ返す。

貴族ではない。

だが、場に出しても恥ずかしくない。

それどころか、下手な貴族の子女よりもよほど余計な波を立てない。

そう見る者は、少なくなかった。


「フランソワ殿は、良い娘を育てられた」


年配の商会主が、代理人へそう言うと代理人は丁重に頭を下げる。


「当主も、そのお言葉を喜ぶかと存じます」

「いや、世辞ではないよ。若い者は、どうしても場に飲まれる。目立ちたがる者もいれば、逆に縮こまる者もいる。だが、あの令嬢は違う」


商会主は、少し離れた場所で別の挨拶を受けているルミエを見る。


「場に合わせるのではなく、場があの令嬢を基準に少し静かになる」


代理人は答えなかったが、その言葉は胸の内に留めた。

ヴァロワ家の者として、誇らしくもあり、少し恐ろしくもある評価だった。

そして代理人自身も、どこかで似たことを感じていた。

別の卓では、若い令嬢たちが声を落としていた。


「……本当に、相談室にいらっしゃる時と同じなのね」

「あなた、行ったことがあるの?」

「ええ。一度だけ」


そう答えたのは、以前ルミエと食堂で同席した令嬢だった。

彼女はカップに指を添え、少しだけ視線を伏せる。


「あの方は、どこでも同じように見えるわ。相談室でも、食堂でも、今夜のような場でも」

「それは、すごいことなのではなくて?」

「そうね。たぶん、すごいことなのだと思う」


令嬢は、ルミエの方を見る。

ルミエは、若い貴族の挨拶に微笑みながら答えていた。

相手は少し緊張しているらしく、言葉を探している。

ルミエは急かさず、笑いもせず、ただ待っていた。

その待ち方だけで、相手の肩が少し下がる。


「相談室にいた時も、ああだったわ」


令嬢が言う。


「何か特別なことを言われたわけではないの。ただ、こちらが言葉を出せるまで待ってくださった」

「それだけ?」

「ええ。それだけ」


彼女は少し笑う。誰もが間を恐れ、あるいは忌避してつい、言葉で埋めてしまうものだ。


「でも、それが難しいのだと思う」


その言葉に、周囲の令嬢たちはすぐには返さなかった。

夜会では、誰もが言葉を持っている。

挨拶。

称賛。

探り。

含み。

家名を背負った、綺麗な言葉。

けれど、誰かが黙ることを許す言葉は、あまり多くない。

令嬢たちは、改めてルミエを見た。


「……少し、話してみたいわ」


一人がぽつりと言う。

それは、好奇心だった。

けれど、それだけでもなかった。




エレーヌ・クラリスは、少し離れた場所から夜会の流れを見ていた。

主催側に近い立場として、彼女には確認すべきことが多い。

招待客に不都合はないか。

紹介の順番は乱れていないか。

ルミエが一か所に長く留められすぎていないか。

興味本位だけで近づこうとする者を、さりげなく別の会話へ流せているか。

エレーヌは、それらを一つずつ処理していた。

表情は穏やかで、動作は落ち着いている。

誰が見ても、クラリス家の令嬢として夜会を支えているように見えるだろう。

実際、その通りだった。

だが、彼女の意識の中心には、常にルミエがいた。

ルミエ様は疲れていないか。

囲まれすぎていないか。

失礼な視線を向ける者はいないか。

あの方を、軽々しく消費しようとする者はいないか。

そして同時に、エレーヌは見ていた。

王都の者たちが、ルミエを見ている。

初めは噂を確かめる目だった。

次に、美しさを認める目になった。

そして今は、その言葉や仕草に何かを見出そうとする目になっている。

正しく進んでいる。

エレーヌは、そう判断した。


「クラリス嬢」


声をかけられ、エレーヌは振り向く。

教育行政に関わる家の夫人だった。


「今夜はよい場ですわね。若い方々も、落ち着いて交流できているようです」

「ありがとうございます。皆さまのおかげです」

「いいえ。クラリス家の準備が行き届いているのでしょう。それに……ヴァロワ嬢」


夫人は、ルミエへ視線を向ける。


「不思議な方ですね」


エレーヌの胸の奥が、わずかに反応した。


「不思議、でございますか」

「ええ。目立つのに、出しゃばらない。控えめなのに、埋もれない。ああいう方は、なかなかいません」

「……そうですね」

「学園の相談室について、娘からも少し聞いていました。正直なところ、商家の令嬢を貴族や家格のある子女の相談役に据えるとは、思い切ったことをするものだと思っておりましたけれど」


夫人は、そこで少しだけ笑う。


「今夜、分かった気がします」


その言葉は、エレーヌに深く入った。

分かった。

そう。

分かっていただけた。


「恐れ入ります」


エレーヌは微笑む。


「ヴァロワ嬢は、非常に優れた方です。学園でも、既に多くの方に良い影響を与えておられます」

「クラリス嬢は、ずいぶん高く評価していらっしゃるのね」

「はい」


エレーヌは迷わず頷いた。


「正しく評価されるべき方だと思っております」


夫人は、少しだけ目を細めた。

その熱に気づいたのかもしれない。

気づかなかったのかもしれない。

ただ、それ以上は触れなかった。


「そう。では、今夜はその一歩になったのかもしれませんね」

「……はい」


エレーヌは静かに答える。


「そうであれば、嬉しく思います」


言葉は控えめだった。

だが、胸の奥では、はっきりと声がしていた。

そう。

今夜は、最初の一歩なのだ。



リュシアン・ド・ヴァルテールは、何度かルミエを見ることになった。

見ようとしたわけではない。

少なくとも、自分ではそう思っている。

ただ、会場の視線が彼女へ向かう。

誰かが彼女の名を口にする。

近くで挨拶が交わされる。

そうなれば、自然と視界に入る。

そういうことにしていた。


「リュシアン様、先ほどから何かお気になることでも?」


横にいた青年が尋ねる。

リュシアンは穏やかに笑った。


「いいえ。少し会場の様子を見ていただけです」

「今夜は、ヴァロワ嬢の話題が多いですね」

「そうですね」

「噂には聞いておりましたが、なるほど。確かに目を引く方です」


青年の声には、単純な称賛と好奇心が混じっている。

リュシアンは軽く頷いた。


「ええ」


それ以上は言わない。

言えば、言葉が余計な形を持つ気がした。

彼にとって、ルミエはまだ明確に何かと名づけられる相手ではない。

図書室で時折言葉を交わす相手。

食堂で見かけた相手。

王立学園の相談室にいる相手。

そして今夜、社交場で完璧に振る舞っている相手。

それらが同じ人物であることは分かっている。

分かっているのに、並べると少しずつ像がずれていく。

図書室のルミエは、静かだった。

食堂のルミエは、少し軽やかだった。

今夜のルミエは、誰の前でも過不足なく美しい。

どれも本物に見える。

ならば、どれが彼女なのか。

そう考えかけて、リュシアンは内心で首を振った。

他人をそのように切り分けることに意味はない。

人は場によって振る舞いを変える。

王子である自分が、それを一番よく知っている。

ならば、彼女もそうなのだろう。

ただ、それだけのことだ。

それだけのことなのに。


「……少し疲れているようにも見えますね」


ぽつりと、青年が言った。

リュシアンは、反射的に視線を向ける。


「ヴァロワ嬢が?」

「ああ、いえ。失礼。そう見えただけです。あれだけ挨拶を受ければ、誰でも疲れるでしょう」


青年は軽く笑った。

何気ない一言だった。

リュシアンは、再びルミエを見る。

彼女は、年配の貴族に何かを尋ねられ、静かに答えている。

表情は変わらない。

微笑みも崩れない。

疲れているようには見えない。

けれど。

バルコニーへ向かっていった時の、ほんの少しだけ早い歩み。

夜風を受けた瞬間の、わずかな呼吸。

空を見上げる横顔。

その一瞬だけ、彼女の周囲にあったものが少し遠のいたように見えた。

リュシアンは、なぜかその場面を思い出した。


「……そうかもしれませんね」


気づけば、そう答えていた。

青年は少し意外そうにリュシアンを見る。


「リュシアン様がそうおっしゃるとは」

「誰でも疲れるでしょう。この場は、楽しいだけの場所ではありませんから」


言ってから、自分でも少し意外だった。

青年は納得したように頷く。


「確かに」


話はそこで流れた。

だが、リュシアンの中には小さく残った。

誰でも疲れる。

その当たり前の言葉が、なぜかルミエと結びついたまま離れなかった。




イリーナ・ローデンフェルトもまた、ルミエを見ていた。

彼女は留学生として、またカルヴァーニア公国の大公家の娘として、この夜会に招かれていた。

魔石産出国であるカルヴァーニアにとって、ヴァロワ家は無視できない相手である。

流通を握る家。

各地の魔石を動かし、加工家と結び、必要な場所へ届ける家。

その令嬢が、今夜正式に王都社交の場へ出てきた。

本来なら、商業と政治の目で見るべき相手だ。

イリーナは、そのつもりで見ていた。


「どう思われますか、イリーナ様」


隣にいた同郷の青年が声を落として尋ねる。


「ヴァロワ嬢のことですか」

「ええ。ずいぶん注目されています」

「注目されるだけの理由はあるのでしょう」


イリーナはそう答える。


「少なくとも、この場で無視できる方ではありません」

「美しいからですか?」

「それもあるでしょう」


イリーナは否定しない。事実、容姿だけを取っても、これまで見てきた者の中で並ぶ者は多くない。


「ですが、それだけなら美しい方は他にもいます」


彼女はルミエを見る。

ルミエは、若い令嬢の言葉に静かに耳を傾けていた。

相手の話は、おそらく夜会の感想程度のものだろう。

それでもルミエは、くだらないとも、軽いとも扱わない。

聞く。

そして、少し返す。

それだけで相手の表情が明るくなる。


「彼女は、相手の話をもう少し続けさせるのが上手い」


イリーナは言った。


「相談室のことですか」

「それもあります。けれど、ここでも同じです」

「それは、外交向きということでしょうか」


イリーナは少しだけ考える。


「外交というより、流通に近いかもしれません」

「流通?」

「言葉を止めずに、相手から相手へ流していく。自分で強く押すのではなく、流れを滞らせない」


そう言ってから、イリーナは自分で少しだけ笑った。


「ヴァロワ家の方らしい、と言うべきでしょうか」

「なるほど」


青年は感心したように頷く。

イリーナは、それ以上言わなかったが、内心では少し別のことを考えている。

ルミエ・ヴァロワは、危うい。

人を強引に従わせるわけではない。

権力で押すわけでも、弁舌で圧倒するわけでもない。

だが、相手は自分から話す。

勝手に安心する。

勝手にもう少し近づきたくなる。

それは、強制ではないからこそ扱いづらい。

イリーナは、以前の茶席を思い出す。

魔石を産む側と、扱う側。

便利なものに頼ることと、それを忘れること。

あの時もそうだった。

ルミエは、答えを押しつけなかった。

けれど、イリーナの考えの隣に、そっと別の言葉を置いた。

今夜も同じなのだろう。


「……本当に、厄介ですね」


イリーナが小さく呟く。


「何か?」

「いいえ」


イリーナは微笑んだ。


「ヴァロワ家とは、良い関係を築くべきだと思っただけです」


それは、政治的な判断として正しい。

そして、それだけではなかった。

夜会の終わりが近づく頃には、ルミエの周囲に最初ほどの密度はなくなっていた。

一通りの挨拶は終わり、場の熱も少し落ち着いている。

それでも、誰かが近づいてくる。

別れ際に一言だけ声をかける。

またお話を、と言う。

学園で娘がお世話になっております、と礼を述べる。

ルミエは、そのすべてに応じた。


「こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします」

「はい。また学園で」

「お話しできて光栄でした」

「どうぞ、お気をつけて」


言葉は自然に出ていく。

誰も、その裏側を知らない。

ルミエの足が少し疲れていることも。

そろそろ座りたいと思っていることも。

夜会の料理をほとんど食べられていないことを、少し残念に思っていることも。

外から見れば、最後まで乱れない令嬢だった。

エレーヌが近づいてくる。


「ルミエ様、本日は本当にありがとうございました」

「こちらこそ、エレーヌ様。素敵な場にお招きいただき、感謝しております」

「ご負担ではございませんでしたか」


その問いは、主催側として自然なものだった。

だが、エレーヌの声にはほんの少しだけ別の色が混じっていた。

ルミエは微笑む。


「少し緊張はしましたけれど、皆さまがよくしてくださったので」


嘘ではない。

少なくとも、外から見てそう言って問題はなかった。


「それならば、よかったです」


エレーヌは微笑んだ。

その胸の内で、また一つ何かが確かめられる。

ルミエ様は、この場を受け入れてくださった。

負担だったとしても、そうは見せなかった。

そして、感謝してくださった。

ならば、この夜は成功だった。


「また、このような場がございましたら」


エレーヌは言いかけて、少しだけ止める。

早すぎる。

今はまだ、今夜を終えるべきだ。


「……いえ。まずは、今夜のお疲れを癒やしてくださいませ」

「ありがとうございます」


ルミエは穏やかに頷く。


「……エレーヌ様、今度は二人で、もう少し静かにお喋りしたいですね」


小声で、悪戯っぽいその言葉に、エレーヌは一瞬だけ動きを止めた。

ルミエは変わらず微笑んでいる。しかし、どこか親しみと気安さのあるように思える笑み。

自分にだけに向けられたもの。

この場ではきっと、あまり相応しくないであろう、同時に、エレーヌ・クラリスだけに向けられた言葉と笑み。

胸の奥にやってきた衝撃を押し込めて笑い返した。


「……はい、是非」


返事は短かった。

エレーヌは礼をする。

完璧に。

けれど、顔を上げた時、その目には先ほどより少しだけ熱が残っていた。



ようやく馬車へ戻った時、ルミエは静かに息を吐いた。

夜会の明かりが背後にある。

王都の夜風は涼しく、馬車の中は思ったより静かだった。

アニエスが向かいに座る。


「お疲れ様でした」

「……疲れたわ」


ルミエは素直に言った。

今度は、誰に聞かせるためでもなく。

アニエスは頷く。彼女も会場の端で従者としてその場にいた。


「大変よくお務めでした」

「そう?」

「はい。ヴァロワ家としても、申し分のないお振る舞いだったかと」

「それなら、よかった」


ルミエは背もたれに身体を預ける。

ドレスが少しだけ窮屈だった。

髪飾りも、長くつけていると重く感じる。

足も少し痛い。

それでも、終わった。


「料理、あまり食べられなかった」


ぽつりと呟く。

アニエスは、少しだけ瞬きをした。


「次回があれば、合間に軽食を取れるよう手配いたします」

「次回……」


ルミエは遠い目をする。


「あるのかしら?」

「おそらくは」

「そう」


ルミエは窓の外を見る。

夜会の屋敷が、少しずつ遠ざかっていく。

明かりはまだ残っている。

そこでは今も、誰かが話しているのだろう。

今夜のこと。

ヴァロワ家のこと。

ルミエ・ヴァロワのこと。

ルミエはそれを知らない。

知らないまま、静かに目を伏せた。


「……少し寝てもいい?」

「到着しましたら起こします」

「ありがとう」


そう言って、ルミエは目を閉じる。

馬車の揺れは穏やかだった。

会場には、まだ熱が残っていた。

ルミエが去ったあとも、その名は小さく交わされている。


「ヴァロワ嬢、想像以上だったな」

「美しいだけではない。あれは、人を落ち着かせる」

「クラリス家が推すのも分かる」

「いや、あれほどの娘を王都に出してきたヴァロワ家の意図も気になる」

「相談室といい、今夜の顔見せといい、これから何かあるのでは」


言葉はそれぞれ違う。

称賛。

警戒。

期待。

計算。

好奇心。

一つにまとまっているわけではない。

だが、そのどれもが、ルミエ・ヴァロワという名を中心に回っていた。

エレーヌは、その声を遠くに聞きながら、静かに立っていた。

グラスを握る手に力がこもるのは喜びか、あるいは。


夜会は終わりに近い。

けれど、終わったのは場だけだった。

今夜見たものは、それぞれの家へ持ち帰られる。

子へ、親へ、友人へ、使用人へ、また別の誰かへ。

そうして、噂は形を変えていく。

今夜、王都の者たちはルミエを見た。

それだけで十分だった。

エレーヌは、誰にも見えないほど小さく息を吐く。

成功した。

そう思った。

そして、同時に。

これで、さらに多くの者がルミエ様を知ってしまう。

そうも思った。

胸の奥に残った熱が、少しだけ形を変える。

喜びか。

誇りか。

不安か。

あるいは、もっと別のものか。

エレーヌは、それに名前をつけない。

ただ、扇を閉じる。


「……次も」


小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。


「きっと、正しく」


夜会の明かりは、まだ消えていない。

その夜、何か大きな事件が起きたわけではなかった。

ただ一人の少女が招かれ、挨拶を交わし、微笑み、そして帰っただけ。

それだけだった。

けれど、その場に残された熱は、しばらく消えそうになかった。

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