『物語が追いつく夜』
夜会への出席が決まってから、職員寮の一室には少しだけ物が増えた。
普段のルミエなら使わない布見本。
装飾品の候補を記した紙。
王都の仕立て屋から届いた確認書。
当日の馬車の手配についての連絡。
相談室で生徒の話を聞き、時間が空けば図書室へ行き、職員寮へ戻れば今度は夜会の準備が待っている。
忙しいというほどではない。
けれど、意識のどこかに常にその予定が残っていた。
「こちらの布地は、夜会向きとしては控えめです。ですが、ルミエ様にはよくお似合いになるかと」
アニエスが机の上に広げた布を示す。
深い色を帯びた布だった。
黒ではない。光の角度によって、わずかに青紫を含む。ルミエの髪の色を邪魔せず、瞳の色を拾うような色合いだった。
ルミエはそれを見て、少しだけ首を傾ける。
「綺麗ね」
「はい」
「でも、夜会って、もっと明るい色の方がいいのではないかしら」
「明るい色も候補にはございます。ただ、今回は王都社交への正式な顔見せに近い場です。可憐さを前面に出すよりも、落ち着きと品を見せる方がよろしいかと」
「なるほど」
ルミエは素直に頷いた。
実のところ、ドレスの良し悪しはあまり分からない。
綺麗かどうかくらいは分かる。着心地が悪そうかどうかも、たぶん分かる。だが、社交の場でどう見えるか、どの家の者がどう受け取るか、そこまで考えるのは専門外だった。
だから、任せられるところは任せる。
「アニエスがそう思うなら、それでいいわ」
「私だけの判断ではございません。その他の専門の者とも確認しております」
「それなら、なおさら安心ね」
ルミエが軽く笑うと、アニエスは少しだけ目を伏せた。
「装飾品は、過剰にしない方がよろしいでしょう。ヴァロワ家の名を示すものは必要ですが、見せつけるようなものは避けた方がよいかと」
「ええ。重いものは疲れるし」
「……重さの問題もございますね」
「あるでしょう?」
ルミエが少しだけ悪戯っぽく言うと、アニエスは小さく頷いた。
「はい。可能な限り、負担の少ないものを選びます」
「ありがとう」
ルミエはそう言って、布見本から視線を外した。
窓の外には、王都の夕暮れが見える。
学園の中にいると、王都の中心にいることを忘れそうになる時がある。けれど、こうして夜会の準備をしていると、自分がいま実家から離れた場所にいるのだと改めて思う。
ヴァロワ家の本拠ではない。
父も、レオンもいない。
セシルの面影が残る部屋も、幼い頃から見慣れた廊下もない。
今いるのは、王都。
王立ヴァルテール学園の職員寮。
そしてもうすぐ、王都の社交場へ行く。
(本当に漫画みたい)
そう思って、少しだけ気が重くなる。
ただし、行くと決めた以上、今さら嫌だとは言わない。
フランソワには出席すると返事を出した。
レオンにも行ってくると書いた。
アニエスも含めて周囲の者も、既に準備を進めている。
エレーヌも、きっと待っているのだろう。
そう考えると、断る理由はもうどこにもなかった。
「ルミエ様」
「なに?」
「当日の流れについて、簡単にご確認を」
「ええ、お願い」
アニエスは紙を一枚取り出す。
「夜会は夕刻からです。まずクラリス家側の案内を受け、ヴァロワ家として挨拶を行います。フランソワ様はご不在のため、王都拠点の代理人が同行いたしますが、主賓に近い扱いを受けるのはルミエ様になるかと」
「……主賓に近い」
ルミエは小さく繰り返す。
「重いわね」
「はい」
「そこは否定してほしかったわ」
「軽い場ではございませんので」
アニエスは淡々と答える。
「ただし、夜会全体の主賓というわけではございません。あくまでも、今回正式に紹介される者の一人です」
「それなら、少しだけ安心ね」
「ですが、注目は集まると思われます」
「安心が消えたわ」
ルミエが困ったように笑うと、アニエスは何も言わなかった。
否定できないからだろう。
同じ頃。
クラリス家でも、準備は進んでいた。
エレーヌは、届いた返書を読み終えたあと、しばらく黙っていた。
ヴァロワ家は招待を受けルミエ・ヴァロワが出席する。
その一文を、エレーヌは何度も目で追った。
ルミエ様が来る。
自分が用意した夜に。
王都の者たちは、噂ではなく実物を見ることになる。
学園の相談室で語られていた少女を。
ヴァロワ家の令嬢を。
あの静かな微笑みを。
「……よかった」
小さく呟く。
声には出した。
だが、それは誰に聞かせるためのものでもなかった。
正しいことをした。
エレーヌはそう思う。
ヴァロワ家にとっても意味がある。
クラリス家にとっても、学園にとっても、王都の若い世代にとっても、この場は決して悪いものではない。
ルミエ様を閉じた場所に留めておくべきではない。
あの方は、正しく見られるべきだ。
正しく評価されるべきだ。
そして、その最初の場を用意したのは、自分だった。
そう考えた瞬間、胸の奥に熱が落ちる。
「……私よ」
それは誇りに似ていた。
責任にも似ていた。
あるいは、もっと単純なものだったのかもしれない。
エレーヌ自身は、その名前をつけなかった。
ただ、当日の手配をもう一度確認する。
出席者の席順。
紹介の順番。
学園関係者への案内。
ルミエが過度に囲まれすぎないようにするための動線。
それでいて、彼女が最も美しく見える場面。
準備は必要だった。
なぜなら、ルミエ様はきっと何も求めないから。
自分を高く見せることもしない。
必要以上に前へ出ようともしない。
誰かの視線を欲しがることもない。
だからこそ、場が必要なのだ。
あの方がただそこに立つだけで、人々がその価値と在り方に正しく気づける場所が。
「……大丈夫」
エレーヌは書類を閉じる。
「今度も、きっと」
そう言ってから、少しだけ目を伏せた。
今度も。
相談室に続いて。
王都社交においても。
ルミエ様が輝く場所を、自分が用意する。
その事実だけで、エレーヌはしばらく呼吸を忘れそうになった。
夜会当日。
ルミエは、アニエスに支度を整えられていた。
アニエスは秘書ではあるが、こういった身の回りの世話も一通り行える。その器用さもフランソワから声をかけられた理由の一つだった。
選ばれたドレスは、深い青紫を帯びた落ち着いたものだった。
光を受けると、黒髪の下で静かに色を返す。過剰な飾りはなく、けれど地味ではない。肩や袖の線は柔らかく、少女らしさを残しながらも、子どもには見えない。
15歳。
可憐さと美しさが、どちらか一方に傾きすぎず、微妙な均衡を保つ年齢。
その境目にいるルミエに、よく似合っていた。
アニエスは最後に髪飾りを整える。
「苦しいところはございませんか」
「今のところは」
「重さは?」
「思ったより軽いわ」
「それは何よりです」
「でも、長い時間着ていると疲れそうね」
「途中で休める場所は確認しております」
「本当に頼りになるわね、アニエス」
ルミエがそう言うと、アニエスは頷く。
「当然のことです」
「そう?」
「はい」
ルミエは鏡を見る。
そこには、夜会に出る少女が映っていた。
自分だ。
ルミエ・ヴァロワ。
黒髪。
紫紺の瞳。
整えられたドレス。
夜会に相応しい姿。
確かに、見た目だけなら悪くない。
悪くないどころか、おそらくかなりよく仕上がっている。
自分であって、どこか自分ではないような、完全に嚙み合うことのない感覚。
(これで人が少なければ、まだよかったのに)
そんなことを思う。
もちろん、夜会なのだから人はいる。
それも、たくさん。
「ルミエ様」
アニエスが声をかける。
「そろそろお時間です」
「ええ」
ルミエは鏡から視線を外す。
もう決めたことだ。
少し面倒で、それなりに疲れそうで、できれば早めに帰りたい。
けれど、ヴァロワ家として必要な場で、父も意義があると判断した。レオンも手紙をくれた。エレーヌも、きっと準備をしている。
なら、行く。
「行きましょうか」
そう言った瞬間、声はもういつもどおりだった。
アニエスは一礼し、扉を開ける。
ルミエは、夜会へ向かった。
会場となる屋敷は、王都中心部から少し外れた場所にあった。
王宮ほどではない。
だが、十分に格式のある建物だった。
馬車が近づくにつれ、明かりが増える。
光性石を用いた灯りが門や庭を照らし、夜だというのに周囲は柔らかい光に包まれていた。
馬車の中で、ルミエは窓の外を見る。
(綺麗ね)
それは素直に思った。
夜の王都。
明かり。
整えられた庭。
ドレス姿の人々。
馬車から降りる貴族や商家の者たち。
絵として見れば、美しい。
ただ、その絵の中に自分が入るとなると、話は別だった。絵とは、眺めているからこそ良いのだから。
(人、多そう)
そちらの感想の方が勝つ。
馬車が止まる。
先に王都拠点の代理人が降り、続いてアニエスが控える。
ルミエは手を取られ、ゆっくりと馬車を降りた。
夜風が頬に触れる。
ほんの少しだけ涼しい。
会場の入口には、既に何人もの視線があった。
ヴァロワ家の馬車。
その紋章を見て、誰かが小さく声を落とす。
「ヴァロワ家だ」
「あの令嬢が……?」
「学園の相談室の」
「クラリス家が招いたという」
声はすぐに消える。
誰も露骨に騒ぎはしない。
ここは王都の社交場であり、相応の家の者たちが集まっている。無遠慮な視線も、声高な噂話も品位を欠く。
だが、完全に隠せるわけでもない。
肖像画はあっても、誰もが気軽に本人の姿を知れるわけではない。
噂でしか知らないものは、言葉で膨らむ。
聡明。
穏やか。
美しい。
人の話を聞く少女。
貴族の子女が、彼女と話すと少し変わる。
そんな言葉だけで作られていた像が、今、目の前に現れた。
ルミエは、その視線の中を歩く。
外面は、静かだった。
歩幅は乱れない。
背筋は自然に伸びている。
伏せすぎない視線。
近づきすぎない微笑み。
ヴァロワ家の娘として、夜会に招かれた者として、何一つ過不足がない。
内心は。
(うわ、もう見られてる)
だった。
会場の扉が開く。
柔らかな音楽と、温かな明かりと、人の気配が一度に流れてくる。
ルミエは一歩、足を踏み入れた。
その日、社交場は異様な熱気に満ちていた。
もともと貴族や商家の子弟が集まるこの場には、常に浮ついた笑い声と優雅な音楽が満ちている。
だが今日は違った。
空気そのものが、何かを待っていた。
そんな錯覚を覚えるほど、いくつもの視線が扉の方へ向いていた。
若い貴族の子女。
有力商会の跡取り。
ギルド関係者。
王立ヴァルテール学園に子を通わせる家の者たち。
魔石流通に関心を持つ大人たち。
分別ある者たちは、露骨に浮足立つことを避けていた。
けれど、完全には隠せない。
彼女を知る者は、再びその姿を見ることができることに静かに胸を高鳴らせていた。
噂でしか知らぬ者は、期待と好奇心を抱いていた。
そして、一部の者は、ほんの少しの警戒すら覚えていた。
ヴァロワ家の令嬢。
相談室の少女。
クラリス家が用意した夜に招かれた者。
エレーヌが静かに蒔いていたものは、いつの間にか芽を出していた。
それは今、熱気と興味となって、この場に満ちている。
その少女が、今、扉の向こうから現れる。
ゆっくりと扉が開いた。
その瞬間、ざわめきが一度だけ薄くなる。
入ってきたのは、貴族ではない。
大商会ヴァロワ家の令嬢。
ただし、今夜この場で、貴族以上に注目を集めている少女だった。
黒い絹糸のような長髪。
夜の光を受けて淡く艶を返すそれが、深い青紫のドレスの上に静かに落ちている。
雪の輪郭をなぞったような肌。
涼やかに切れた紫紺の瞳。
可憐さを残しながらも、子どもとは言い切れない均衡。
“美しい”という言葉で足りるかどうかを、見る者は一瞬迷った。
少女――ルミエ・ヴァロワ。
15歳を迎えた彼女は、噂の中で語られていた少女と同じでありながら、噂よりもずっと静かにそこにいた。
全身全霊の愛を振りまくような微笑みではない。
むしろ、落ち着いていた。
けれど、その微笑みは、向けられた者の呼吸を一瞬だけ遅らせる。
そう。
外面は。
(……人が多い。帰りたい)
内心は、それだけだった。
ルミエが一歩進むたび、広間の空気がわずかに揺れる。
「……あれが」
「噂以上、というより……噂では説明できないな」
「相談室の、ヴァロワ嬢……」
若い貴族が声を抑え、令嬢が扇の奥で息を止める。
商会関係者は、ヴァロワ家への礼を含めて丁寧に頭を下げる。
一部の大人は、魅入られすぎないようにするかのように、少しだけ視線を横へ逃がした。
歓喜と歓迎だけではない。
評価。
好奇心。
警戒。
探るような目。
そのすべてが、ルミエへ向いている。
「ルミエ・ヴァロワ嬢」
会場側の案内役が、丁重に頭を下げた。
「本日はご足労いただき、光栄にございます」
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
ルミエは静かに礼を返した。
声は澄んでいた。
広間の中心に届くほど大きくはない。
けれど、近くにいる者には不思議なほどよく通る。
その一言だけで、近くにいた令嬢がわずかに目を伏せた。
「……声まで」
誰かが小さく呟く。
(声まで、何)
とは言えないので、ルミエは穏やかに微笑む。
完璧な姿勢。
完璧な笑顔。
完璧な声色。
それらすべてが、彼女本人の意思とは少し離れたところで、場に合わせて整っていく。
“最適化された反応”が、勝手に相手へ届けられてしまう。
良い子であれ。
愛されろ。
応えろ。
まるで産まれつき備わっていた呪いのように。
いや、事実それは呪いだった。
(いつも通り。顔が勝手に笑う。口が一人でに動く。相手が安心するように、喜ぶように、きっと一番いい形で)
ルミエは案内に従って進む。
その先には、エレーヌ・クラリスがいた。
クラリス家の令嬢として、主催側に近い立場で立っている。
背筋は伸び、表情は穏やか。
今日の夜会に関わる者として、何一つ乱れはない。
けれど、ルミエが視界に入った瞬間、エレーヌの瞳の奥に小さな熱が灯った。
「ルミエ様」
エレーヌは礼をする。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「エレーヌ様」
ルミエは少し嬉しそうに微笑んだ。
「このたびは、お招きいただきありがとうございます。とても素敵な夜会ですね」
その言葉に、エレーヌの胸の奥で何かが静かに膨らむ。
とても素敵な夜会。
ルミエ様が、そう言ってくださった。
自分が用意した場を。
自分がルミエのために準備した夜を。
「……恐れ入ります」
声は乱れなかった。
乱れなかったが、指先は一瞬だけ扇を強く握った。
「ルミエ様にそう言っていただけるのでしたら、何よりでございます」
「はい。お心遣いに感謝いたします」
感謝。
その言葉が、さらに深く刺さる。
エレーヌは微笑む。
完璧に。
誰かに見られても、ただ主催側として招待客を迎えている令嬢にしか見えないだろう。
けれど、胸の中では。
(見て)
そう思っていた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
王都の者たちへ。
学園の関係者へ。
ルミエを噂でしか知らなかった者たちへ。
あるいは、自分自身へ。
(見て!)
これが、ルミエ様なのだと。
その夜、ルミエは何度も挨拶を受けた。
有力商家の跡取り。
学園関係者の家。
ギルドの幹部。
貴族の子女。
その親。
誰かの紹介で近づいてくる者。
「ヴァロワ嬢のことは、娘から聞いております」
「相談室の試み、興味深いものですね」
「お若いのに、ずいぶん落ち着いていらっしゃる」
「ぜひ一度、お話を伺いたいと思っておりました」
ルミエは、一つずつ返す。
丁寧に。
穏やかに。
過不足なく。
相手が商人なら、商家の娘として。
貴族なら、礼を失わぬ距離で。
学園関係者なら、相談室の役目を踏まえて。
若い令嬢なら、少し柔らかく。
警戒を含んだ大人なら、踏み込みすぎず。
何も考えていないわけではない。
けれど、ルミエが意識する前に、身体はもう最適な位置にいる。
(疲れてきた)
まだ始まったばかりなのに、そう思う。
それでも、表情は崩れない。
むしろ、見られれば見られるほど、求められれば求められるほど、ルミエの外側は美しく整っていく。
その様子を、少し離れた場所から見ている少年がいた。
リュシアン・ド・ヴァルテール。
第二王子として出席している彼は、今夜も穏やかに振る舞っていた。
彼がいること自体は、夜会の格を示すものでもある。
王族として、学園に通う者として、顔を出すべき場だった。
周囲から挨拶を受け、必要な言葉を返し、余計な波を立てない。
いつも通りだった。
その合間に、彼はルミエを見る。
図書室で本を読んでいた少女。
食堂で令嬢たちと昼食を取っていた少女。
相談室の噂の中心にいる少女。
そして今、夜会の明かりの中で、何人もの視線を受けながら微笑んでいる少女。
(……あれが、彼女の社交か)
そう思う。
美しい。
それは誰が見ても分かる。
けれど、リュシアンが引っかかったのはそこではなかった。
彼女は、どこにいても同じように見える。
図書室でも。
食堂でも。
今夜の広間でも。
無理がないように見える。
だが、本当にそうなのか。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
なぜそう思ったのか、リュシアン自身にも分からなかった。
彼女は完璧に応じている。
誰にも失礼はない。
誰かに囲まれても、乱れない。
自分を大きく見せようともせず、相手を軽んじもしない。
ならば、問題はないはずだ。
問題はない。
そう思ったところで、なぜか胸の奥に小さな違和感が残る。
その時、ルミエがわずかに視線を横へ向けた。
一瞬だけ、目が合う。
リュシアンは軽く会釈する。
ルミエも、同じように会釈を返した。
食堂の時と同じように。
図書室で言葉を交わす時と同じように。
ただ、それだけ。
けれど、今夜の広間では、それだけの動作にもいくつかの視線が動いた。
リュシアンはそれに気づく。
ルミエも、たぶん気づいている。
いや。
気づいていないのかもしれない。
彼女はすぐに、目の前の相手へ微笑みを戻していた。
しばらくの時が過ぎた。
十分すぎるほどの視線と賛辞を受け、ルミエはようやく人の波から少しだけ抜け出した。
完全に一人になったわけではない。
だが、周囲の密度は下がっている。
会場の端には、バルコニーへ通じる硝子扉があった。
夜風が入り込んでいるのか、そのあたりだけ少し空気が冷たい。
ルミエは、そちらへ自然に足を向ける。
(少しだけ、外の空気を吸いたい)
それくらいなら、問題ないだろう。
扉の前まで来る。
手をかける。
開くと、夜風が頬を撫でた。
――呼吸ができる。
ほんの一秒だけ、安堵が訪れる。
けれど、その静けさすら、誰かの視線が追いかけてくる。
「ルミエ様が、外へ……」
「立ち姿だけで絵画のようだ」
誰かが遠くで呟く。
(……まだ見てるのね)
視線はどこまでも追いかけてくる。
それすら、もはや慣れたものだった。
ルミエは夜空を見上げた。
紺碧に沈む夜。
薄く流れる雲。
星々の光が黒髪に淡く落ち、深い青紫のドレスの上で静かに揺れる。
「……美しい」
誰かが小さく息を漏らした。
「空を見上げるだけで、あれほど……」
「まるで祈りのようだ」
ルミエは何もしていない。
ただ空を見ただけ。
だがその横顔に、また意味が与えられる。
(落ち着きたいだけなのに)
夜空は静かだった。
その静けさが、胸に少しだけ染みる。
(空って……こんなに遠かったっけ)
原因は分かっている。
自分の世界には、いつだって誰かの視線が満ちているから。
ルミエは、静かに息を吐いた。
長い長い道のりを経て、物語はようやくここへ戻ってきた。
悪魔と契約した少女。
愛されるための反応を与えられた少女。
何も知らないまま、人々に求められ続ける少女。
そして今。
ルミエ・ヴァロワは、王都の夜会で、誰もが見上げる“光の少女”として立っている。
外面は、完璧だった。
内心は。
(……帰りたい)
それだけだった。




