『用意された夜 後編』
「うわぁ、面倒くさい……」
誰もいない部屋で、ルミエはもう一度だけ書簡に目を落とした。
王都の有力家が集まる交流夜会。
クラリス家が関わる正式な招待。
ヴァロワ家としての出席。
そして、可能であれば、ルミエ・ヴァロワ嬢にも同席を願いたい、という依頼。
それがまとめられていた。
エレーヌからの書簡の写しも同封されており、読んでみると、確かにこちらに無理を強いるものではない。
ヴァロワ家を軽んじてもいない。
むしろ、礼を尽くされている。
だからこそ、余計に断りにくい。
(社交界デビュー、みたいなものだよね)
”社交界”。
前世なら、漫画や物語の中で見る言葉だった。
綺麗なドレス。
煌びやかな広間。
音楽。
優雅な会話。
貴族たちの視線。
あくまでもイメージに過ぎないが、なんとなく分かる。
そう並べれば、確かに華やかな場面ではあるのだろう。
だが、ルミエにとって現実のそれは、要するに人が多い場所で、長い時間、見られながら、話しかけられ続けるということだった。
(やっぱり……面倒くさい)
見られることには、もう慣れた。
話しかけられることにも慣れた。
微笑むことも、相槌を打つことも、相手が求める言葉を返すことも、今さら困るようなことではない。
目の前に誰かがいれば、身体は勝手に動く。
口も勝手に動く。
表情も、声色も、視線の向け方も、自然に整う。
だから、失敗する心配はあまりない。
少なくとも、外から見て問題になるようなことは起きないだろう。
問題は、そこではなかった。
(疲れるのよね)
ただ、それだけだった。
身体は最適に動いてくれる。ただ、その間ルミエは眠っているわけでもなく、その光景を見続けている。
それに、根本的に人が多い場所は苦手だ。
得意ではないし、好きでもない。
調整役のように、多少人がいても隅にいれば足りるのならいい。
相談室のように一人ずつ話すなら、まだいい。
図書室のように静かな場所なら、もっといい。
食堂くらいなら、料理が美味しいので多少の騒がしさも許容できる。
けれど夜会は違う。
食べ終わればすぐ終わり、というわけにはいかない。
座って本を読んでいればいいわけでもない。
誰かが来れば挨拶をし、別の誰かが来ればまた挨拶をし、どこかへ移動すれば視線がついてくる。
考えただけで、少し肩が重くなる。
ルミエは、手紙を机の上に置いた。
そして、もう一通を見る。
レオンからの手紙だった。
封は、フランソワのものより少しだけ不器用だった。
文字も丁寧に書かれているが、ところどころ力が入っている。
ルミエは、その封を開いた。
中には、短い文が並んでいた。
『姉さまへ。
お元気ですか。
父さまから、クラリス家の夜会の話を聞きました。
父さまからは、姉さまに出席を迫るようなことは書いてはいけないと言われました。
なので、迫りません。
でも、姉さまが王都でどんなふうに過ごしているのか、僕は少しだけ見てみたいと思いました。
もちろん、無理はしないでください。
姉さまが行きたくないなら、行かなくていいと思います。
姉さまが何を選んでも、僕は姉さまが一番素晴らしいと思っています。
あと、最近は父さまの仕事を少し見せてもらっています。
書類の分類をしました。
まだ難しいですが、少しずつ覚えています。
姉さまが帰ってきた時に、僕がちゃんと成長しているところを見せられるように頑張ります。
レオン』
ルミエは、しばらくその手紙を見ていた。
それから、少しだけ息を吐く。
(……大きくなったね)
文字の形はまだ少年のものだった。
けれど、そこに書かれている内容は、以前のレオンとは少し違う。
昔なら、もっと真っ直ぐだっただろう。
姉さまに会いたい。
姉さまに来てほしい。
姉さまは素晴らしい。
そういう言葉を、何の迷いもなく並べていたはずだ。
今の手紙には、少しだけ遠慮と、成長がある。
父に言われたからなのか、自分で考えたからなのかは分からない。
それでも、レオンなりにこちらを気遣っているのが分かった。
(無理はしないで、か)
ルミエは手紙のその部分をもう一度見る。
無理。
そう、無理かどうかで言えば、無理ではない。
ただ、面倒くさいだけだ。
疲れるだろうと思うだけだ。
できれば行きたくないだけだ。
けれど、行けないわけではない。
そして、行く意味はある。
ヴァロワ家として。
フランソワの娘として。
王都で相談室を任されている者として。
エレーヌに色々と世話になっている者として。
断るほどの理由は、ない。
ルミエは椅子にもたれ、天井を見上げた。
(お父さま、気を遣ってるなぁ)
フランソワの手紙は、命令ではなかった。
出席する意義はある。
しかし、無理に受ける必要はない。
君の意向を聞きたい。
そう書かれていた。
その文面から、父がかなり言葉を選んだことが分かる。
フランソワは、いつもそうだった。
ルミエを大切にしている。
ヴァロワ家の一員として見ている。
けれど、ただ家のために使おうとはしない。
そのことを、ルミエは知っている。それが、きっと親の愛なのだとも。
もちろん、フランソワも完全に正解を知っているわけではない。
ルミエの中身を知っているわけではないし、口が勝手に動く仕組みも知らない。
それでも、自分を大切にしようとしてくれていることは分かる。
それは、悪くなかった。
悪くないどころか。
(……まあ、好きだしね。お父さまも、レオンも)
その言葉は、ルミエの中でだけ浮かんだ。
誰かに見せるためではない。
誰かに聞かせるためでもない。
ただ、自分の中にあるものとして、静かに浮かんだ。
この世界で生まれてから、15年。
最初はよく分からなかった。
今でも、分かっていないことは多い。前世のことを考えることもたまにあるし、その実、隆だったころから中身は大して変わっていないのかもしれない。
けれど、フランソワが父であること。
レオンが弟であること。
自分がルミエ・ヴァロワとして育てられたこと。
それらを、何も感じていないわけではない。
レオンは、姉を信じている。
それが少し重い時も、眩しすぎる時もある。
だが、嫌いではない。
いや。
たぶん、かなり大事に思っている。
ルミエはレオンの手紙を丁寧に畳んだ。
(あの子が頑張ってるなら、私も少しくらいは頑張るか)
大げさな覚悟ではない。
世界のためでもない。
社交界のためでもない。
人々に正しく評価されたいわけでもない。
ただ、父が必要だと思い、弟が少しだけ見てみたいと思っている。
エレーヌにも、きっとこの場を用意するために何かと動いてもらっている。
ヴァロワ家としても、断る理由はない。
なら、行く。
面倒ではある。
絶対に疲れる。
たぶん、途中で帰りたくなる。
けれど、身体は勝手にやってくれる。
挨拶も、微笑みも、会話も、どうせ失敗しない。
なら。
(まあ、少し我慢すればいいし)
ルミエはそう結論づけた。
そして、机の上に新しい紙を置く。
フランソワへの返事を書くためだ。
誰も見ていない部屋で、ルミエはしばらく筆を持ったまま考えた。
この場合、どう書けばいいのか。
父への返事であり、ヴァロワ家当主への回答でもある。
断るつもりはない。
けれど、前向きすぎるほどの熱意もない。
しばらく考えてから、ルミエは筆を下ろした。
手紙を書いている時、ルミエの口は勝手に動かない。
表情も、声色も、誰かに合わせて変わることはない。
ただ、宛先を思い浮かべて言葉を選ぶと、文章はいつも少しだけ綺麗に収まった。
それが自分の文章力なのか、別の何かなのか、ルミエにはよく分からない。
『お父さまへ。
ご連絡ありがとうございます。
クラリス家からのお招きについて、拝見しました。
ヴァロワ家として必要な場であり、お父さまが意義あるものとお考えでしたら、私も出席いたします。
王都での正式な場に出るのは不慣れではありますが、アニエスや王都の皆さんに助けていただきながら、できる限り務めたいと思います。
ご心配くださり、ありがとうございます。
無理はいたしません。
レオンにも、手紙をありがとうとお伝えください。
仕事の見学を始めたと聞いて、とても嬉しく思いました。
帰った時に話を聞かせてもらうのを楽しみにしています。
ルミエ』
そこまで書いて、ルミエは筆を止めた。
文面を読み返す。
問題はない。
たぶん、これでいい。
ただ、最後に少しだけ迷ってから、もう一文を書き足した。
お父さまも、どうかご無理はなさらないでください。
それから、紙を乾かす。
レオンへの返事も、別に書くことにした。
『姉さまは大丈夫です。
夜会は少し大変そうですが、行ってきます。
レオンが仕事を覚えていると聞いて、頼もしく思いました。
無理をせず、でも頑張ってください。
帰ったら、あなたが分類した書類の話を聞かせてね
きっと、私より詳しくなっているのでしょうね』
そう書いてから、ルミエは少しだけ笑った。
誰も見ていない。
だから、その笑みは誰かのためのものではない。
柔らかく、少しだけ困ったような笑みだった。
「……夜会か」
改めて呟く。
言葉にすると、さらに面倒くさそうだった。
綺麗なドレス。
煌びやかな広間。
優雅な会話。
どこかの物語なら、きっと胸が高鳴る場面なのだろう。自分も真っ当な15歳の少女なら楽しみにしていたのかもしれない。
だが、ルミエの胸は特に高鳴らなかった。
むしろ、少し沈んだ。
それでも、返事は決まった。
ルミエは手紙を畳み、封をする。
そして、隣室にいるアニエスを呼ぶために立ち上がった。
扉を開ける前に、ほんの少しだけ自分の頬に触れる。
今は、まだ何の表情も浮かんでいない。
けれど、アニエスを呼べば、きっと自然に声が整う。
「アニエス」
扉を開け、声をかける。
その声は、先ほどまで一人で呟いていたものとは違っていた。
穏やかで、いつものルミエ・ヴァロワの声だった。
「はい、お呼びでしょうか」
「クラリス家から夜会のお誘いが来たみたいなの。読んでもらえる?」
アニエスは、失礼いたします、と断りながらエレーヌの書簡の写しに目を通して頷く。
「把握いたしました。それで、どうなさいますか?」
「お返事を書いたわ。お父さまと、こちらはレオンに。届けるよう手配してもらえる?」
アニエスは一礼する。
「承知いたしました」
そして、ルミエの顔を見て、ほんのわずかに目を伏せる。先ほどの答えはその顔の中にあるようだった。
「夜会には、ご出席なさるのですね」
「ええ」
ルミエは微笑んだ。
「ヴァロワ家として、必要なことのようだから」
その微笑みは穏やかだった。
面倒くさいと思っていた少女の顔は、もうそこにはない。
アニエスは、何も言わずに手紙を受け取った。
「必要な手配を進めます」
「お願いね」
「ドレスや装飾品についても、確認が必要かと」
「ああ……そうね」
ルミエは少しだけ遠い目をした。
「それもあるのよね」
「はい」
「ふふ……面倒ね?」
今度は、アニエスの前で小さく漏れた。
アニエスは一瞬だけ沈黙した。
それから、いつも通りの顔で答える。
「可能な限り、負担は減らします」
「ありがとう。頼りにしているわ」
ルミエは少しだけ笑った。
その笑顔は、完璧ではなかった。
少し疲れる未来を想像して、ほんの少しだけ困っている顔だった。
アニエスはそれを見て、静かに頭を下げる。
「お任せください」
「ねえ、どんなドレスが似合うか、アニエスも意見を聞かせてね?」
こうして、ルミエ・ヴァロワの王都社交への正式な顔見せは決まった。
クラリス家が用意した場。
ヴァロワ家が受けた招待。
父が問うた意思。
弟の手紙。
そして、本人の小さな諦め。
それらが重なって、夜会への道は形になった。
ただ一人、ルミエ本人だけが。
(本当に、人が多そう……)
と、今から少しだけ憂鬱になっていた。




