『用意された夜 前編』
エレーヌ・クラリスは、急いでいたわけではない。
むしろ、急がないようにしていた。
物事には順序がある。
場には相応しい時期があり、人には受け入れられるための土台がいる。
どれほど優れたものでも、突然差し出せば反発を招く。
どれほど美しいものでも、見る側の目が曇っていては、正しく評価されない。
だから、エレーヌは待った。
ただ待ったわけではない。
少しずつ、確実に、必要なところへ必要な話を流してきた。
ルミエ・ヴァロワ。
ヴァロワ家の令嬢。
特例として王立ヴァルテール学園の相談室に招かれた少女。
クラリス家とリシャール家が関わった新たな試みにおいて、生徒たちの話を聞く役目を担っている者。
その情報は、放っておいても広がっただろう。
学園という場所は、閉じているようで閉じていない。
生徒は家に手紙を書く。休みの日には実家へ戻る者もいる。親は子から話を聞き、使用人はその断片を拾い、家の中で誰かがまた別の者へ話す。
噂は走らない。
少なくとも、貴族社会や上流階級ではそういうことになっている。
けれど、現実には必要な情報は、いつの間にか必要な場所へ届いているものだった。
エレーヌは、それを少しだけ助けた。
誰かに強く吹聴したわけではない。
ルミエを過度に飾り立てるような言葉も使わない。
それは下品だし、何より”ルミエ様”に相応しくない。
ただ、尋ねられれば答えた。
「ヴァロワ嬢は、非常に落ち着いた方です」
「学園の相談室については、現時点で良い報告が上がっております」
「生徒の中には、彼女と話すことで落ち着きを取り戻した者もいるようです」
「ただ美しいだけの令嬢ではありません。むしろ、その本質は対話にあると見ております」
どれも事実だった。
少なくとも、嘘ではない。
ただ、その言葉が誰に届けば、どう膨らむのか。
どの家の誰が興味を示すのか。
どの親が、我が子から聞いた話と重ねるのか。
それを考えなかったわけではない。
父の背を見て学び、時間をかけて身に着けてきた社交の作法と根回しの手順を、エレーヌは惜しみなく使った。
そして、今、エレーヌは机の上に置かれた書類を一枚ずつ確認していた。
出席予定者の名。
家格。
ヴァロワ家との関係。
魔石流通に関わる者。
教育行政に関心を持つ者。
王立ヴァルテール学園に子を通わせている家。
そして、若い世代の社交に影響を持つ者。
派手すぎてはいけない。
いきなり王宮主催の大夜会のような場にルミエを出せば、注目は集まるだろう。
けれど、集まりすぎる。
そして、余計な色がつく。
そんなものは、あの方にとって不純だ。
かといって、内輪だけの茶会では意味がない。
そんなものは、あの方に相応しくない。
ルミエ様が王都の社交に迎えられる最初の場としては、格式があり、しかし過剰ではない場がよかった。
ないなら、用意してしまえばいい。
クラリス家が関わる、有力家の交流夜会。
表向きは、学園関係者や王都有力家の親睦。
魔石流通、教育、若い世代の交流を兼ねた、決して珍しくはない集まり。
そこにヴァロワ家を招く。
不自然ではない。
むしろ、今だからこそ自然だ。
ヴァロワ家は魔石流通における名家であり、人当たりも良いフランソワ・ヴァロワは王都でも十分に名を知られている。さらにその娘は、王立ヴァルテール学園で相談室を任されている。
商家の娘でありながら、貴族の子女たちと関わる立場にある。
その存在を、正式な場で紹介する。
理由は立つ。
道も通る。
必要な根回しも終えている。
先日、学園へ視察に行った時も、確認はできた。
相談室は機能していた。
学園側も受け入れていた。
生徒たちの反応も悪くない。
むしろ、想定より早く浸透している。
そして、ルミエ自身は。
相変わらず、何の問題もなかった。
問題がないどころではない。
あの部屋に座り、来訪者を迎えるルミエは、すでにその場所の主のようだった。過度に飾らず、押しつけず、受け取り、返し、必要な距離を守る。
自分が用意した場所で、ルミエはきちんと輝いていた。
「そうよね、ルミエ様ならば、当然……」
それを確認できた。
ならば、もう次へ進める。
エレーヌは書簡用の紙を前に置いた。
宛先は、フランソワ・ヴァロワ。
ヴァロワ家当主。
ルミエの父。
そして、この申し出を受けるかどうかを決めるべき人物。
これは、ルミエへの私的な誘いではない。
ヴァロワ家当主に対する依頼であり、伺いであり、要請である。
クラリス家として、ヴァロワ家へ正式に招待を送る。
その上で、可能であればルミエ・ヴァロワ嬢に出席いただきたいと願う。
形は整っていなければならない。
整っていれば、誰にも咎められないから。
……誰も、断れないから。
エレーヌは筆を取る。
文面は、丁寧でなければならない。
クラリス家としての礼節を崩してはならない。
個人的な熱を混ぜてはならない。
それは分かっている。
分かっているから、言葉は慎重に選んだ。
王都における若き世代の交流。
魔石流通に関わる諸家との親睦。
王立ヴァルテール学園における新たな試みへの謝意。
ヴァロワ家への敬意。
そして、ルミエ・ヴァロワ嬢に、可能であればご出席いただきたいという願い。
書いている内容は正しい。
正しく、誰に見られても問題はない。
それなのに。
筆先が、ほんの少しだけ強く紙を押した。
ルミエ様が、王都社交に正式に迎えられる。
その最初の夜を、自分が用意する。
誰もが、噂ではなく実際に見る。
言葉で膨らんだ像ではなく、ルミエ自身を見る。
そして、知る。
あの方が、どれほど美しいか。
どれほど穏やかに場を変えるか。
どれほど人の視線を集めながら、それに溺れないか。
その素晴らしさは、正しく評価されるべきだ。
当然だ。
そうあるべきだ。
けれど、その”当然”を用意したのは自分、エレーヌ・クラリスである。
その事実だけが、胸の奥で静かに熱を持っていた。
エレーヌは書き終えた文面を読み返す。
余計な言葉はない。
露骨な誘導もない。
招待としては礼を尽くしており、家同士の関係としても不自然ではない。
問題はない。
むしろ、完璧に近い。
「……これでよろしいわ」
そう呟き、エレーヌは封蝋の準備を命じた。
赤い蝋が紙の上で固まっていく。
クラリス家の印が押される。
その印を見つめながら、エレーヌはほんの少しだけ目を細めた。
用意はした。
あとは、届くだけだった。
書簡がヴァロワ家の本拠へ届いたのは、それから数日後のことだった。
ヴァロワ家の本拠は、王都にはなく変わらずヴァロワ家地元の街にある。
魔石流通を支える倉庫。
職人や商人たちが出入りする広い通り。
本家の屋敷。
各地から届く報告が集まり、そこからまた別の場所へ流れていく場所。
まあ、要するにルミエの実家である。
フランソワ・ヴァロワは、そこにいた。
王都の娘を気にかけていないわけではない。
むしろ、気にかけている。
だが、気にかけているからといって、すぐに王都へ向かえる立場ではなかった。
ヴァロワ家は大きい。
大きい家には、常に動かさなければならないものがある。
ルミエやレオンが幼いころは多少無理をすることもあったが、二人とも相応に成長した今はする必要もなくなっていた。
魔石の仕入れ。
加工家との調整。
地方倉庫の管理。
港から遅れている荷の確認。
王都へ送る品の手配。
そして、次代へ引き継ぐための教育。
その日も、フランソワは執務室にいた。
机の上には、魔石流通に関する報告書がいくつも積まれている。
王都の工房への納入予定。
地方から届く原石の状態。
ベルニエ家との加工契約。
港湾都市で遅れている荷の確認。
どれも軽くは扱えない。
それでも、フランソワの表情に焦りはない。
目元には年齢相応の落ち着きがあり、声は穏やかだが、書類を捌く手は迷いがなかった。
その傍らには、レオンがいた。
10歳になったレオン・ヴァロワは、以前よりもずいぶん背が伸びていた。まだ少年らしさは残っているが、顔立ちには少しずつヴァロワ家の跡取りとしての教育が滲み始めている。
今日は、父の執務を見学していた。
見学と言っても、ただ座って眺めているだけではない。
届いた書類の種類を確認し、簡単な内容であれば分類し、必要に応じて父へ渡す。もちろん、まだ判断を任される段階ではないが、どの仕事がどこへ繋がるのかを知るには十分だった。
10歳。
この世界では、もう何も知らない子どもではいられない年齢だった。
特に、ヴァロワ家の跡取りであるならば。
「クラリス家からです」
使用人が書簡を差し出す。
その名を聞いて、レオンが顔を上げた。
「クラリス家、ですか」
「何の家かわかるかい?」
フランソワが尋ねるように返すと、レオンは真面目に頷いた。
「はい。教育関係で影響力を持つ貴族です。姉さまの相談室の件にも関わっている家ですよね」
フランソワは少し笑う。
「よく覚えている」
「姉さまのことですから」
その返答は早かった。
少し誇らしげで、少し当然のようでもある。
フランソワは、その顔に苦笑を浮かべながら封を見た。
クラリス家の印が押されている正式な書簡だった。
「ルミエのことになると、本当に反応が早いな」
「当たり前です」
「そうか」
「はい」
レオンは真面目に頷く。
幼い頃から姉を慕っていた。
それは今も変わらない。
ただ、この歳になった今のレオンは、以前のようにただ姉を追いかけるだけではない。
自分がヴァロワ家の跡取りであり、いずれ姉が家とは別の役割を担っていくかもしれないことも、少しずつ理解し始めていた。
理解し始めているからこそ、余計に姉を誇りに思う。
そして、少しだけ寂しくもある。一人前への階段を上り始めたとはいえ未だ子供。それに、レオンにとっては、ルミエは姉であると同時に、第二の母に近かった。
フランソワは封を切った。
読み進めるにつれて、表情は大きくは変わらない。
だが、レオンには父の指先がわずかに止まったことが分かった。
「何かあったのですか?」
「夜会への招待だ」
「夜会?」
「クラリス家が関わる交流夜会だそうだ。王都の有力家、学園関係者、商家、各ギルド関係者も出る。表向きは若い世代の交流と、魔石流通に関する親睦を兼ねたものらしい」
「姉さまも参加されるのですか?」
「可能であれば、ルミエにも同席を、とある」
レオンの目が少し輝いた。
「それは、姉さまの社交界……ええと、王都での正式な顔見せ、ということですか?」
「そう捉えていいだろうね」
フランソワは書簡を机に置く。
「貴族令嬢のデビューとは異なる。ルミエは貴族ではないからね。だが、ヴァロワ家の娘として、王都の有力者たちに正式に紹介される場にはなる」
「姉さまなら、きっと問題ありません!」
レオンは即座に言った。姉への絶対的な信頼があった。
「誰に会っても、失礼などありませんし、皆すぐに姉さまの素晴らしさを分かるはずです」
「……君は本当に、ルミエをよく信じているね」
「父さまもでしょう?」
フランソワは一瞬、言葉を止めた。
それから、少しだけ笑う。
「もちろんだ」
そう答える。
もちろん、信じている。
ルミエは聡明で、落ち着いていて、誰と会っても場を乱さない。幼い頃からそうだった。言葉の選び方、相手への配慮、場を和らげる力。それは年々強く、深くなっている。
今では、王立学園の相談室で貴族や上流階級の子女たちの話を聞くほどになった。
父として誇らしい。
だが、誇らしさと安心は同じではない。
「問題は、ルミエができるかどうかではない」
フランソワが静かに言った言葉にレオンは首を傾ける。
「違うのですか?」
「できてしまうから、考えなければならないこともある」
レオンは少し黙った。
まだ完全には分からない。
だが、父が軽い話をしていないことは分かった。
フランソワは書簡をもう一度見る。
クラリス家からの招待。
形式は丁寧で、理由も通っている。
断る理由はない。
むしろ、ヴァロワ家としては受ける方が自然だった。
王都での関係を広げる。
ルミエの役割を正式な場で示す。
魔石流通の名家として、若い世代にも存在感を示す。
商人としては、利がある。
……同時に、父親としては、少しだけ重い。
「ルミエに確認しよう」
「え、断ることもあるのですか?」
父の言葉にレオンが驚いたように言う。
「本人の意思を聞かずに決めることではないよ」
「でも、姉さまなら!」
「だからこそだ」
フランソワはレオンを見る。
「ルミエは、求められれば応じる。昔からそうだ。だから、応じられるかどうかではなく、応じたいかどうかを聞く必要がある」
レオンは、少しだけ眉を寄せた。
姉が嫌がる場面を、あまり想像したことがなかった。
いや、何かを嫌がったことがあっただろうか?
ルミエは優しくいつも微笑んでくれていた。
自分にも、父にも、周囲にも。
何かを頼まれれば、穏やかに頷く。
それが自然だと思っていた。
けれど、父の言葉を聞くと、胸の奥に小さな引っかかりが生まれる。
「姉さまは……嫌な時は嫌と言いますか?」
その問いに、フランソワはすぐには答えなかった。
窓の外では、本拠の街の午後の光が屋根を照らしている。
しばらくして、フランソワは静かに言う。
「言えるように、私たちが聞かなければならない」
その言葉に、レオンは姿勢を正した。
「……はい」
まだ全部は分からない。
けれど、覚えておくべき言葉だと思った。
フランソワは新しい紙を手元に引き寄せる。
王都にいる娘へ向けて、返書を書かなければならない。
出席を命じるためではない。
問うためだった。
クラリス家から、交流夜会への正式な招待が届いたこと。
ヴァロワ家としては、出席する意義があること。
しかし、無理に受ける必要はないこと。
ルミエ自身の意向を聞きたいこと。
もし出席するのであれば、王都の代理人とアニエスに十分な支援をさせること。
一つずつ、丁寧に書いていく。
その筆は、いつもより少しだけ遅かった。
「僕も、姉さまに手紙を書いてもいいですか」
レオンが言った。
フランソワは顔を上げる。
「構わない。ただし、出席するように迫ってはいけないよ」
「分かっています」
「本当に?」
「……少しだけ、見たいとは書いてもいいですか」
「それは圧になるかもしれないね」
苦笑するフランソワにレオンは口を閉じた。
不満そうではある。
しかし、すぐに考え直すように視線を落とした。
「では、無理をしないでください、と書きます」
フランソワは微笑んだ。
「それならいい」
「それと、姉さまが何を選んでも、僕は姉さまが一番素晴らしいと思っています、と」
「……それは」
「圧ですか?」
フランソワは少し考えた。
「半分くらいは、そうかな」
レオンは真剣に悩んだ。
その様子に、フランソワは小さく笑う。
「書きなさい。レオン、君の言葉としてなら、ルミエも受け取るだろう」
「はい」
レオンは嬉しそうに頷き、自分の紙を用意する。
姉への手紙を書く少年の横で、フランソワは再び筆を取った。
王都にいる娘。
本拠から離れ、学園の相談室に席を持ち、ヴァロワ家の名を背負いながら、日々を過ごしている娘。
本来なら、自分が直接会いに行きたい。
夜会に出るなら、隣で見守ってやりたい。
けれど、今は本拠を空けることが難しくヴァロワ家当主として、ここにいなければならない時期だった。
だから、手紙を送る。
問いを送る。
その問いにルミエがどう答えるかを、フランソワはどこかで分かっていた。
分かっているからこそ、筆が少しだけ重かった。
その書簡は学園の職員寮にいるルミエのもとへ届けられたのは、数日後の夕方だった。
相談室での役目を終え、職員寮へ戻ったルミエは、机の上に置かれた二通の手紙を見た。
一通はフランソワから。
もう一通はレオンから。
「ご実家からですね」
アニエスが言う。
「ええ」
ルミエは椅子に腰を下ろす。
「お父さまと、レオンからね」
「それでは、私は隣室に控えております。お読み終えになりましたらお呼びください」
「ありがとう、アニエス」
アニエスが下がる。
扉が閉まると、部屋の中に、ルミエ一人だけが残った。
誰も見ていない。
誰も反応を待っていない。
だから、ルミエの顔は特に微笑まなかった。
普段、誰かが決して目にすることのない何の色もない真顔。
まずフランソワの手紙を開く。
夜会。
クラリス家。
王都の有力者。
若い世代の交流。
ヴァロワ家としての意義。
本人の意向を尊重するという父の言葉。
ルミエは、最後まで目を通した。
それから、少しだけ黙る。
もう一度、途中の文面を読み返す。
社交の場。
王都での正式な顔見せ。
クラリス家からの招待。
エレーヌの名前は直接強く書かれてはいないが、おそらく関わっているのだろうとは思った。学園の相談室の件も、何かと世話になっている。
ヴァロワ家としても、断るような話ではないのだろう。
それは分かる。
分かるが。
その書簡を受け取り、目を通したルミエは、誰もいない部屋で呟いた。
「うわぁ、面倒くさい……」




