『食堂の席』
王立ヴァルテール学園の食堂を、ルミエはたまに使っていた。
最初から頻繁に足を運んでいたわけではない。
相談室にいる日は、職員寮へ戻って食事を取ることもできる。外へ出る許可を取れば、王都の店を使うこともできる。アニエスに頼めば、簡単な食事を用意してもらうことも難しくはない。
けれど、毎回そうするのも少し面倒だった。
学園側からは、食堂も使って構わないと言われている。ならば使えばいい。そう考えた結果、ルミエは時間が合えば食堂に顔を出すようになっていた。
(人が多いから、少し騒がしいけど)
食堂へ向かいながら、ルミエはそう思う。
騒がしいといっても、街の市場や地元の学校の昼時ほどではない。王立学園の食堂である以上、生徒たちは声量をわきまえているし、食器の音も乱暴には響かない。
ただ、相談室や図書室に慣れた後だと、どうしても人の気配が多く感じられる。
誰かが笑う。
誰かが隣の席へ身を寄せて話す。
配膳係が皿を運ぶ。
椅子が引かれる。
そうした音が、食堂の中で重なっていた。
だが、だからといって避けるほどではない。
何より。
(料理は美味しいのよね)
そこは大きかった。
王立ヴァルテール学園は、通称として貴族学園と呼ばれることもある。
ただし、在籍しているのは貴族の子女だけではない。王族、上級貴族、中級貴族の子女に加えて、他国からの留学生、官僚家系の子息、ギルドや大商会の跡取りもいる。
全校生徒の数は、二百名に届くかどうか。
多すぎるわけではないが、少なすぎるわけでもない。国の中枢に関わる者たちの子女が集まる場としては、十分な人数だった。
当然、食堂もそれに合わせて作られている。
広いが、雑然とはしていない。
窓は大きく、白を基調とした清潔感のある空間。
卓と卓の間には余裕があり、隣の会話がそのまま流れ込んでくるほど近くはない。
入口近くでその日の料理を選ぶと、学園付きの配膳係が席まで運んでくれる仕組みだった。
番号で呼び出されるようなことはない。
かといって、生徒一人ひとりの背後に専属の使用人が控えるわけでもない。
学び舎としての簡素さと、王立の名にふさわしい礼節の、その中間にあるような食堂だった。
ルミエは入口で軽めの肉料理とスープを選び、空いている席へ向かう。
端すぎず、中央すぎない席。
一人で座っても不自然ではなく、誰かに声をかけられても困らない位置だった。
席に着くと、食堂の中のいくつかの視線が動く。
会話が止まるほどではない。
けれど、完全に無関心でもない。
相談室の人。
ヴァロワ家の娘。
クラリス家とリシャール家の肝入りで来た人物。
最近、何人かの生徒が話を聞いてもらっている相手。
そうした情報が、声にならないまま食堂の中を渡っていく。
ルミエは特に気にせず、配膳係が来るのを待った。
しばらくして、盆を持った配膳係が席のそばへ来る。
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」
ルミエは軽く礼を言い、盆を受け取る。
何でもないやり取りだった。
だが、近くの卓にいた一人の令嬢が、それを一瞬だけ見ていた。
使用人や係に礼を言う者はいる。
学園の品位として、乱暴な態度を取る者の方が少ない。
それでも、ルミエの礼は少し違って見えた。
へりくだりではない。
貴族の余裕を見せるものでもない。
商家の娘として、働く相手に普通に礼を言っただけ。
だからこそ、少し目に留まった。
ルミエはそれに気づいているのかいないのか、スープに匙を入れる。
(やっぱり美味しい)
温度もちょうどよい。
香草の香りも強すぎず、肉料理も見た目より重くない。
多少騒がしいのを差し引いても、食堂を使う価値はある。
そう思ったところで、横から声がかかった。
「あの、ルミエ様」
顔を上げると、そこには見覚えのある令嬢が立っていた。
以前、相談室を訪れたことのある生徒だ。
隣席の相手が少し苦手だと話していた、あの令嬢だった。
名前は、すぐには思い出せない。
けれど、口は自然に動く。
「こんにちは。お昼ですか?」
「はい。あの、ご迷惑でなければ……ご一緒しても、よろしいでしょうか」
声には少し緊張がある。手は軽く握られている。
食堂で誰かと同じ卓につくことは、ただの食事以上の意味を持つ場合がある。まして、ルミエは正式な生徒ではなく、相談室の主という少し曖昧な立場だ。
誘う側にも、少し勇気がいるのだろう。
ルミエは柔らかく微笑んだ。
「ええ。よろしければ」
その返事に、令嬢の表情が少し緩む。
「ありがとうございます」
令嬢は向かいではなく、斜め向かいの席へ座った。近すぎず、離れすぎない位置だった。
少しして、彼女の分の食事も運ばれてくる。
「ルミエ様も食堂を使われるのですね」
「ええ、たまにです。こちらの料理は美味しいので」
ルミエがそう言うと、令嬢は少し驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「そうですよね。私も、こちらのスープは好きです」
「私と一緒ですね。今日のスープも美味しいです」
「ええ。季節の野菜が入っているそうです」
会話は軽い。
相談室で話すような重さはない。
まさしく雑談だ。
だが、令嬢はそれで安心したようだった。
相談室で向き合ってくれるルミエと、食堂で普通に食事をするルミエ。その二つが、同じ人物として目の前にいることを確かめているようでもあった。
そこへ、もう一人の令嬢が近づいてくる。
「ご一緒しても?」
最初の令嬢の友人らしい。こちらはルミエは会ったことはない。……たぶん。
少し遠慮があり、同時に興味も隠しきれていない。
最初の令嬢がルミエを見る。
決めるのは、自分ではないと思っているのだろう。
ルミエは微笑んだ。
「もちろんです。席も空いていますから」
二人目の令嬢は礼をして、同じ卓に加わった。
さらに少しして、別の生徒が通りがかりに軽く挨拶をする。座りはしないが、相談室で見た顔だった。
「ルミエ様、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
それだけのやり取り。
けれど、周囲は見ている。
誰が声をかけたのか。
ルミエがどう返したのか。
どの程度の親しさなのか。
相談室の外でも、同じように穏やかなのか。
食堂の中で、少しずつ意味が積まれていく。
ルミエ本人は、肉料理を一口食べていた。
(これ、前に食べたものより少し味が濃いかも)
そんなことを考えながら。
「相談室は、今日も開いているのですか?」
二人目の令嬢が尋ねた。
「はい。昼食の間は席を外していますが、午後には戻ります」
「お忙しいのですね」
「忙しいというほどではありません。誰もいらっしゃらない時間も多いですから」
「そうなのですか?」
「ええ。その時は本を読んでいます」
ルミエがそう答えると、最初の令嬢が小さく笑った。
「ルミエ様は、本当に本をよく読まれるのですね」
「暇つぶしにもなりますから」
「暇つぶし」
令嬢たちは、少し意外そうにその言葉を繰り返す。
ルミエ・ヴァロワが、暇つぶしと言う。
その軽さが、どこか新鮮だった。
「私も本は読みますけれど、学園の本は難しいものが多くて」
「難しい本は、眠くなる時があります」
「ルミエ様でもですか?」
「はい。眠くなるものは眠くなります」
片目を閉じながらそんなことを言うものだから、令嬢の一人が口元を押さえて笑った。
「ふふ、安心しました」
「安心?」
「ルミエ様は、もっと何でもきちんと読まれるのかと思っていました」
「読んではいます。眠くなりながら」
「それは、きちんとなのでしょうか」
「ええ、たぶん」
ルミエは少し首を傾けて指を口先に当て、微笑んで見せるとその仕草に、卓の空気が柔らかくなり、令嬢たちのクスクスとした笑いが響く。
相談室で悩みを打ち明ける時とは違う。
真剣に向き合われるのとは違う。
けれど、同じものがある。
否定されない。
無理に持ち上げられない。
距離を詰めすぎない。
食堂の卓でも、ルミエは奇妙なほどそこに馴染んでいた。
その時、食堂の入口側の空気が少し変わった。
会話が止まるほどではない。
だが、いくつかの視線が一斉に動く。
リュシアン・ド・ヴァルテールが食堂に入ってきたからだった。
王子が食堂を使うこと自体は珍しくない。
王立学園の中では、王族であっても学園の一員として振る舞うことが求められる。
それでも、彼が入ってくれば、空気は少し変わる。
何人かが立ち上がりかける。
リュシアンは穏やかに手を上げ、それを制した。
「そのままで」
柔らかい声。
それだけで、生徒たちは過度に騒がず席へ戻る。
リュシアンは慣れた様子で食堂の係に声をかけ、軽い昼食を頼んだ。周囲からかけられる挨拶には、一つずつ丁寧に返す。
穏やかで、知的で、分別のある第二王子。
誰もがそう見る。
そして、その見られ方に応じることに、彼は慣れていた。
席へ向かおうとして、ふと視線が止まる。
窓に近い卓。
そこに、黒髪の少女がいた。
ルミエ・ヴァロワ。
今日は一人ではない。
二人の令嬢と同じ卓につき、食事をしながら穏やかに会話を交わしているようだ。
図書室で見る彼女とは違う。
あの場所では、彼女は本を開き、静かに言葉を選び、沈黙を邪魔しなかった。
今は、食堂のざわめきの中にいる。
令嬢の話に耳を傾け、問いには軽く返し、時折小さく微笑む。食事にも手をつけているし、周囲に気を張っているようにも見えない。
その姿は、図書室とは違う。
違うはずなのに。
(……同じだな)
リュシアンは、そう思った。
どこにいても、誰といても、余計な重さを周囲に与えない。
自分を大きく見せようとしない。
相手を小さく扱いもしない。
ただの少女として、ルミエ・ヴァロワとして、そこにいるように見えた。
その場に必要な分だけいて、それ以上の意味を押しつけない。
少なくとも、そう見えた。
その時、ルミエがこちらに気づいた。
視線が合う。
ルミエは食事の手を止め、薄く微笑み軽く会釈をした。
驚きも、過剰な敬意もない。
食堂という場にふさわしい、短く丁寧な礼だった。
リュシアンも頷き返す。
それだけだった。
声をかける場ではない。
近づく理由もない。
彼女は同席者と食事をしている。
そう判断して、リュシアンは別の席へ向かった。
だが、その一瞬を見ていた者たちはいた。
ルミエと同席していた令嬢たちも、そのうちに含まれている。
「……リュシアン様とも、お知り合いなのですか?」
二人目の令嬢が、少し声を抑えて尋ねる。
「はい。図書室で何度かお会いしてお話をしたことが」
ルミエはそう答え、再び食事に戻る。
「図書室で」
令嬢たちは顔を見合わせる。
その言葉に、どれほどの意味を乗せるべきか迷っているようだった。
ルミエは首を傾ける。
「リュシアン様は、よく図書室にいらっしゃるようですから」
「そうなのですか?」
「はい。きっと、本がお好きなのだと思います」
そう言われれば、それで終わりにするしかなかった。
確かに、第二王子が図書室を使うことに不思議はない。
勤勉で知られるリュシアンなら、なおさらだ。
けれど、令嬢たちの中には小さな引っかかりが残る。
図書室で何度か会う。
会えば話す。
そして食堂でも、自然に会釈を交わす。
それだけ。
それだけなのだろう。
だが、この学園では、それだけにも意味が生まれる。まして、年頃の少女たちにとって、少し綺麗な噂の種は無視しにくい。
ルミエは、スープを一口飲んでいた。
(やっぱり、こっちの味は好きかも)
令嬢たちの視線にも、リュシアンの会釈が残した波紋にも、特に気づいていないようだった。
リュシアンは、少し離れた席に座っていた。
配膳係から昼食を受け取り、礼を言う。
周囲には、いつものように何人かが近づいてくる。
同席を望む者もいるし、挨拶だけで済ませる者もいる。
リュシアンは、それぞれに穏やかに応じた。
「午後の講義は歴史でしたね」
「ええ。今日は北方諸侯の話だったはずです」
「リュシアン様は、既に予習を?」
「ああ、少しね」
会話は進む。
いつも通りだった。
だが、その合間に、視線が一度だけ窓際の卓へ向かう。
ルミエはまだそこにいた。周囲の令嬢たちは、その会釈に意味を探しているようだった。
けれど、彼女自身はもうスープへ視線を戻している。
令嬢たちの話を聞いている。
何かを尋ねられ、少し考えるようにして答える。
その返答に、同席した令嬢が小さく笑う。
図書室で見る時とは違う。
けれど、やはり同じだった。
彼女が自分と話す時だけ特別に静かなわけではない。
自分にだけあの距離を取っているわけでもない。
そのことに、リュシアンは少しだけ気づく。
そして、なぜ自分がそれを確認しているのかも、少しだけ気になった。
(……何を気にしている)
そう思い、すぐに食事へ視線を戻す。
気にするようなことではない。
彼女は相談室にいる者であり、図書室で時折会う相手であり、今日たまたま食堂で見かけただけの少女だ。
そう整理することは簡単だった。
簡単だったが、整理した後も、完全には消えないものがあった。
食堂のざわめきの中で、ルミエ・ヴァロワは他の生徒たちと同じ卓にいた。
それだけの光景。
けれど、図書室の静けさとは違うその姿を、リュシアンは妙にはっきり覚えていた。
ルミエは昼食を終え、卓を立った。
「では、私はそろそろ失礼しますね」
「ご一緒できてよかったです」
最初の令嬢が言う。
「私もです」
ルミエは微笑む。
「とても楽しく食事が出来ました。また、相談室にもいらしてください。もちろん、必要でしたら」
「はい」
令嬢は少しだけ嬉しそうに頷いた。
その様子を、もう一人の令嬢が横で見ている。
相談室に行く。
食堂で同じ卓につく。
また来てもいいと言われる。
そういう繋がりが、目の前で自然に作られている。
ルミエは二人に礼をして、食堂を出る。
扉をくぐる直前、リュシアンの席の方へ軽く視線を向けた。
目が合ったわけではない。
だが、彼がそこにいることは分かった。
(リュシアン様も、普通に食堂を使うんだ)
それくらいの感想だった。
食堂の中には、まだいくつもの会話が残っている。
ルミエが去ったあと、彼女と同席していた令嬢たちはしばらく同じ卓に座っていた。
「……相談室、私も行ってみようかしら」
ぽつりと、二人目の令嬢が言う。
最初の令嬢は、少し驚いたように見てから、穏やかに笑った。
「必要なら、いいと思うわ」
その言い方は、どこかルミエに似ていた。
食堂では、誰かが次の料理を頼んでいる。
別の卓では、午後の講義について話している。
リュシアンは静かに茶を飲んでいる。
何も起きていない。
ただ、同じ卓に座り、少し話し、食事をしただけだった。
それだけの昼食が、学園の中でまた一つ、別の話題になっていく。
ルミエが相談室に戻った時に思ったのは自分を知己としてくれた令嬢たちの穏やかなひと時でも、リュシアンでもなく。
(やっぱり、あの肉料理味が濃かったな……)
それだけだった。




