『再確認』
諸事情により投稿が一時間遅れてしまいました。申し訳ございません。
ノワのいる孤児院を訪ねた翌日、ルミエはいつも通り王立ヴァルテール学園の相談室にいた。
机の上には、図書室で借りた本が一冊置かれている。
国の成り立ちについて書かれた本で、内容は悪くない。悪くはないのだが何度読み直しても、途中で少し眠くなる。
それでも、今日も開いていた。他にやることもないのだから。
相談室には、誰もいない。
窓の外では中庭を行き交う生徒たちの姿が見える。数人で歩く者、一人で本を抱えている者、誰かを待っているように柱のそばに立つ者。
学園の一日は、いつも通りに進んでいた。
(……待ってる、か)
視線を本に戻してから、ふと、昨日のノワの声を思い出す。
淡くて、静かで、けれど以前よりも少しだけ輪郭のある声だった。
――じゃあ、待ってる。
その言葉は、強く求めるものではなかった。
引き留めるものでも、縛るものでもない。
ただ、そこに置かれたような言葉だった。
だからこそ、妙に残っている。
(また、行かないとね)
ルミエはそう思いページをまた一つ捲る。
そこへ、扉が叩かれた。
二度。
丁寧だが、どこか硬質さを感じさせる音だった。
「どうぞ」
声をかける。
扉が開き、入ってきたのは、イザベル・ド・ヴェルディエだった。
背筋は伸び、髪も服装も乱れなく、表情にはいつもの落ち着きがある。以前に訪れた時と同じように、礼儀正しく、少しの隙もない。
「失礼いたします」
「いらっしゃいませ、イザベル様」
ルミエは本を閉じ、席を立たずに軽く礼を返した。
相談室では、基本的にそうしている。
相手を過度に迎えすぎず、かといって軽んじもしない。ここが何のための部屋なのかを考えれば、向かい合う距離を保つ方がよかった。
イザベルはその対応を見て、わずかに視線を動かした。
以前と同じ。
そう思う。
いや、以前よりも、さらに馴染んでいる。
「お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ、お掛けください。ああ、扉の札は返していただけましたか?」
「ええ。使用中になっています」
イザベルが確認したのを見て、ルミエは向かいの椅子を示すと一礼し、椅子に腰を下ろした。
動作に無駄はなく、椅子を引く音も小さい。
机を挟んで、二人は向かい合う。
「本日は、相談に来たというよりも、確認に参りました」
イザベルは最初からそう告げた。
遠回しにしない。
曖昧な口実も用意しない。
それは彼女なりの誠実さであり、同時に自分の立場を明確にしておきたいという性分でもあった。
「確認、ですか」
「はい」
イザベルは頷く。
「相談室を訪れる生徒が、以前より増えていると聞いております。私自身も、廊下や食堂でそのような話を耳にするようになりました」
「そうなのですね」
ルミエは少しだけ首を傾ける。
「来てくださる方が増えたとは思いますが、外でどう話されているかまでは、あまり」
「ご存じないのですか」
「はい。私はここにいるだけですから」
その言い方は、軽くだからこそイザベルには少し引っかかった。
ここにいるだけ。
その言葉だけなら、無責任にも聞こえる。
だが、目の前の少女からは、逃げや怠慢の気配がしない。
視線はまっすぐにこちらを見つめ返している。
役割を過大に言わない。
自分の影響を誇らない。
けれど、求められれば応じる。
その姿勢が、奇妙なほど足りているように見えた。
「では、率直に伺います」
イザベルは膝の上で指を重ねる。
「貴女は、ご自身の言葉が生徒たちに与える影響を、どの程度理解していらっしゃいますか」
問いは、少し踏み込んでいた。
以前なら、ここまで聞かなかったかもしれない。
しかし今は、聞く必要があると思った。
相談室は、単なる珍しい制度ではなくなりつつある。訪れた者がまた来る。話題にする。少し楽になったと言う。あそこは叱られない場所だと語る。
それは良いことかもしれない。
だが、良いことに見えるものほど、確かめなければならない。
規律を、正しさを。是は是であり非は非。
それが己の為すべきことなのだから。
イザベルはそう考えていた。
ルミエは少しだけ考えるように視線を落とした。
その沈黙は長くない。
「すべてを理解しているとは言えません」
静かに答える。それでも真摯に聞こえるその声色。
「私がどう言ったから、その方がどう受け取ったのか。それを完全に知ることはできませんから」
「では、責任を負えないと?」
イザベルの声が、ほんの少しだけ硬くなる。
試すようなことを聞いている。
イザベルも自分で分かっていた。
同時にルミエはそれを咎めない。
「いえ。そうではありません」
穏やかな声だった。
「ただ、私がその方の代わりに決めることはできませんし、決めるべきでもないと思っています」
イザベルの指先が、わずかに止まる。
「……続けてください」
「はい」
ルミエは頷いた。
「ここに来る方のお話を聞くことはできます。言葉にするお手伝いも、少しならできるかもしれません。けれど、最後に何を選ぶかは、その方のものです」
そこで一度、言葉を切る。
「だから、私の言葉で決めていただくのではなく、その方が自分で考えられるようにできればと思っています」
イザベルは黙った。
模範的な答えだった。
そして、模範的すぎる答えでもあった。
ただ優しいだけなら、問題だった。
ただ話を聞くだけでも、危うかった。
ただ慰めるだけなら、貴族学園という場所には不向きだった。
ここにいる者たちは、いずれ家を背負い、人を動かし、時に誰かの人生に関わる決断をしなければならない。感情を甘やかすだけの場所は、かえって彼らを弱くする可能性すらある。
この学園は、成長の場なのだから。
だが、ルミエ・ヴァロワの答えは違った。
判断を奪わない。
けれど、放り出しもしない。
言葉にさせる。
考えさせる。
その上で、最後の一歩は相手に残す。
それは、イザベルが聞きたかった答えに近かった。
近すぎるほどに。
「……では、相談に来た方が、明らかに誤った考えを持っていた場合はどうなさいますか」
イザベルは続ける。
「誤った、ですか」
「はい。たとえば、相手に非がないにもかかわらず一方的に責める。あるいは、自分の不満を正当化するために、誰かを傷つけようとしている。そのような時です」
「それは、内容によると思います」
ルミエはすぐには断定しなかった。
「相手を傷つけることをそのまま肯定はできません。でも、その方がそう思うに至った理由を、まず聞く必要はあると思います」
「理由があれば、許されると?」
「いいえ」
ルミエは首を振る。
「許されるかどうかと、そう思ってしまった理由があるかどうかは、別だと思います」
イザベルは息を止めて目をわずかに見開く。
その答えは、正しかった。
少なくとも、彼女の中ではそう響いた。
感情を否定しない。
しかし、行為まで許すわけではない。
理由を聞く。
だが、責任を消すわけではない。
人の世で一番扱いづらい場所を、言葉で切り分けている。
この人は、何を見ているのだろう。
イザベルはそう思った。
「……貴女は」
言いかけて、止める。
ルミエが静かにこちらを見ている。
急かさない。
答えを求めない。
言い直してもよい、とでもいうように、ただ待っている。
その待ち方もまた、過不足がなかった。
「貴女は……人とは何かを、よく理解していらっしゃるのですね」
イザベルは言った。
ルミエは少し驚いたように瞬きをする。
「そうでしょうか」
「はい」
イザベルは、はっきりと頷いた。
「少なくとも、同年代の方がそこまで考えられることは多くありません。いえ、年齢を重ねた者でも、できるとは限らないでしょう」
「私は、そこまで大層なことを考えているわけではありません」
「そうおっしゃるところも含めて、です」
言ってから、イザベルは自分でも少し踏み込みすぎたと感じた。
けれど、撤回する気にはならない。
彼女は評価した。
その評価は、前回よりも明確だった。
ルミエ・ヴァロワは、単なる聞き上手ではない。
きわめて頭が回る。
人がどこで詰まり、どこでほどけるのかを知っている。
自分の言葉が相手の判断を奪わないよう、無意識か意識かはともかく、線を引いている。
それは、ただの優しさではない。
人心の機微に通じた、稀有な資質だった。
貴族ではない。
だが、学ぶべきものはある。ならば敬意を払うべきだろう。
イザベルはそう判断した。
判断した瞬間、胸の奥が少し落ち着く。
ああ、やはり。
やはり、”この人はそういう人”なのだ。
前回の評価は間違っていなかった。
自分の目は、曇っていなかった。
そう確認できたことに、イザベルは自覚しないまま、わずかに息を吐いた。
「イザベル様?」
ルミエが名前を呼ぶ。
「いえ。失礼いたしました」
イザベルは姿勢を正す。
「少し、考えておりました」
「はい」
ルミエはそれ以上、踏み込まない。
それもまた、適切だった。
痛い場所を触れば、痛いと分かる。
そして、痛いと分かることに、なぜか安心する。
また触る。
イザベルはふと、そんなことを思った。
もちろん、自分が何かに依存しているなどとは考えない。
これは確認だ。
相談室が学園に及ぼす影響を見極めるための、正当な確認。
自分の評価が正しいかを再検討するための、必要な作業。
そうでなければならない。
「もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「貴女は、この相談室が学園内で特別な場所になりすぎることについて、どうお考えですか」
「特別な場所、ですか」
「はい」
イザベルの声は落ち着いている。
「訪れる者にとって、ここが必要になること自体は否定しません。ですが、必要とされすぎれば、かえって依存を生む可能性もあります」
ルミエは少し考えた。
今度は、先ほどより少しだけ長かった。
その沈黙を、イザベルは待つ。
「ここが、何かを決める場所になってしまうのは、違うと思います」
やがて、ルミエは答えた。
「話す場所であり、考える場所です。だから、ここを出たあとに、その方が自分の場所へ戻れることが大事なのだと思います」
イザベルはゆっくり瞬きをした。
「戻る」
「はい。教室でも、寮でも、ご友人のところでも、ご家族のもとでも」
ルミエは言う。
「ここにずっと留まるのではなく、少し落ち着いたら戻っていく。そのための部屋であればいいのではないでしょうか。止まり木のように」
それは、イザベルの胸に深く残った。
戻るための場所。
留まるためではなく、戻るための止まり木。
秩序を壊さず、感情を無視せず、人を元の場所へ返す。
それは、イザベルが求めていた答えそのものに近かった。
貴族社会は、正しさだけでは動かない。
誰もが礼を知り、規範を守り、家の名に恥じぬよう振る舞う。けれどその内側には、嫉妬も、不安も、怒りも、劣等感も、言葉にできない渇きもある。
それらをすべて規律で押さえつければ、どこかで歪む。
かといって、感情のままに振る舞えば秩序が崩れる。
その間にあるものを、イザベルはずっと不快に思っていた。
正しくあろうとするほど、人の世が正しさだけでは済まないことが目につく。
論理を重んじるほど、論理では収まらないものが残る。
全て正しくあればいいのにと。何度そう思ったか分からない。
ルミエの答えは、その鬱屈に、名前をつけずに触れた。
「……戻るための場所」
イザベルは小さく繰り返す。
「はい」
ルミエは頷く。
「少なくとも、私はそうであればいいと思います」
その答えには、押しつけがない。
断定しすぎない。
けれど、芯はある。
イザベルは、少しだけ視線を伏せた。
胸の奥にあった硬いものが、また一つ、確かめられたような気がした。
やはり。
やはり、この人は。
「貴女は、貴族ではありません」
イザベルは言った。
突然の言葉だったが、声は穏やかだった。
ルミエは静かに聞いている。
「ですが、学ぶべきものはあります」
それは、イザベルにとって最大限に近い評価だった。
身分や家格を軽んじるつもりはない。
貴族としての教育、責任、矜持も否定しない。
それでも、目の前の少女には学ぶべきものがある。
認めるべきだと思った。
「ありがとうございます」
ルミエは微笑む。
「イザベル様にそう言っていただけるのは、光栄です」
その言葉は丁寧だった。
けれど、過剰ではない。
賞賛に浮かれるでもなく、へりくだりすぎるでもない。
ただ受け取る。
イザベルは、その受け取り方すら評価してしまう自分に気づいた。
そして、少しだけ困った。
評価が終わらない。
ひとつ確認すれば、また別の点を確認したくなる。
人への接し方。
言葉の選び方。
責任の線引き。
相手を戻すための距離。
そのすべてが、見れば見るほど、改めて確かめたくなる。
それは、制度への責任である。
そう考える。
「本日は、ありがとうございました」
イザベルは立ち上がる。
「こちらこそ。お話できてよかったです」
ルミエも軽く礼を返す。
「また、必要でしたらいつでもいらしてください」
その一言に、イザベルはほんのわずかに動きを止めた。
いつでも。
それは、来訪者全員に向けられる言葉なのだろう。
分かっている。
分かっているのに、その言葉はイザベルの中に静かに、どこかに収まった。
「……ええ」
イザベルは頷く。
「必要があれば、また」
必要があれば。
そう言った。
自分に向けても、ルミエに向けても、そう言った。
扉を出て、廊下を歩く。
足取りはいつも通りだった。
姿勢も、表情も、崩れない。
問題はなかった。
むしろ、以前よりも明確にそう判断できる。
ルミエ・ヴァロワは適任である。
相談室は現時点で、危険な方向には傾いていない。
彼女の対応には、学ぶべきものすらある。
結論は出た。
出たはずだった。
それなのに。
(もう一度、確認する必要がありますね)
イザベルはそう思った。
制度のために。
学園のために。
自分の判断が正しいかを、継続して見極めるために。
そう理由づけることは簡単だった。
廊下の先で、数人の生徒が談笑している。
その声を聞きながら、イザベルは少しだけ目を伏せる。
ああ、やはりルミエ・ヴァロワは、あのような方だった。
そう確かめられたことが、なぜこれほど胸を落ち着かせるのか。
その理由だけは、まだ言葉にしなかった。




