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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『噂は静かな部屋から』
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53/55

『静かな場所』

王都のはずれにある孤児院を訪ねるのは、ずいぶん久しぶりだった。

馬車の窓から見える景色は、王都の中心部とは少しずつ変わっていく。石造りの立派な建物は少なくなり、道幅も少し狭くなり、人の声もどこか近くなる。

それでも、懐かしいというほどではない。

ルミエがここを訪れた回数は、片手で数えられる程度だった。何度も通った場所ではないし、日常の中に組み込まれていたわけでもない。

それなのに、思い出すものはあった。

子どもたちの声。

近づいてくる小さな足音。

お姫さまだ、と誰かが言った声。

こちらを見上げる、まっすぐな目。

そして―――庭の外れにある小さな小屋。


「到着いたしました」


アニエスの声で、ルミエは視線を戻した。


「ありがとう」


馬車が止まり、扉が開く。

外へ降りると、王都の中心部とは少し違う風が頬を撫でた。

孤児院は、記憶の中にある姿と大きくは変わっていなかった。

白く塗られた壁。

少し古びた扉。

手入れの行き届いた庭。

王都にありながら、ここだけ切り取られたように静かな場所。

ただ、まったく同じというわけではない。

壁の一部は塗り直され、庭の隅には新しい花壇が増えている。入口の近くにあった木は、以前よりも枝を広げていた。

時間は、ちゃんと流れている。

ルミエが扉の前に立つと、アニエスが一歩下がった。


「先方には、到着予定をお伝えしております」

「ええ」


ルミエは頷き、扉を叩く。

少しして、中から足音が聞こえ扉が開く。

顔を出した神父は、記憶よりも少し老いていた。

髪には白いものが増え、目元の皺も深くなっている。だが、背筋はまだ伸びており、穏やかな目の奥には以前と変わらない静かな強さがあった。

神父は一瞬だけ目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。


「……これは。ルミエ嬢」

「お久しぶりです、神父様」


ルミエは軽く礼をする。


「急な訪問になってしまい、申し訳ありません」

「いいえ。ヴァロワ家からご連絡はいただいておりましたし、何より、あなたをお迎えできるのは嬉しいことです。随分ご立派になられた」


そう言って、神父は扉を大きく開けた。


「どうぞ、お入りください。フランソワ様はご一緒ではないのが残念ですね」

「はい。今日は私だけです。こちらは秘書のアニエスです」


アニエスが控えめに礼をする。

神父もまた丁寧に返した。


「それでは、どうぞ。中は少し静かですが」

「静か、ですか」


ルミエは中へ入る。

以前なら、扉をくぐった瞬間にいくつもの視線が集まった。

子どもたちの声が跳ねるように重なり、誰かが近づき、別の誰かが問いかけ、少し遅れて神父がたしなめる。そんな賑やかさが、ここにはあった。

しかし今、広間は静かだった。

椅子は並んでいる。

机には本が置かれている。

壁には子どもたちが描いたらしい絵が貼られている。

けれど、人影はない。

遠くの部屋から、わずかに食器を片づける音が聞こえる程度だった。


「……昔は、こちらに来ると、すぐに囲まれたものです」


ルミエがそう言うと、神父は懐かしそうに目を細めた。


「ええ。あの子たちは、あなたのことをよく覚えておりましたよ。お姫様のような方が来た、と」

「そんな風に言われていましたね」


ルミエは少しだけ笑う。


「また来るという約束を果たすのに、随分と時間がかかってしまいました。皆さんは、お元気ですか」

「ええ。そして、あなたがこちらにいらっしゃった時の子どもたちは、ほとんどが独り立ちしていきました」


神父は静かに答えた。


「職人の家に入った子もおります。商店で働く子も、教会関係の手伝いを続けている子も。時折、顔を見せに来る者もいますよ。まだ在籍している者も今は年長者としてここを支えてくれています」

「そうですか」


ルミエは広間を見渡す。

知らない椅子。

知らない絵。

知らない小さな傷。

ここにいた子どもたちは、もうここにはいない。

当たり前のことだった。

最後に来たのは五年近く前。

孤児院は、子どもがずっと留まる場所ではない。育ち、外へ出ていくための場所だ。あの日、ルミエを囲んだ子どもたちも、それぞれの場所へ向かったのだろう。


「寂しいですね」


ルミエはそう言った。


「でも、皆さんが息災なら、それが何よりです」


それは、自然に出た言葉だった。

過不足のない、穏やかな返答。

神父はその言葉を聞いて、少しだけ眩しそうに微笑んだ。


「相変わらず、お優しい」

「そうでしょうか」

「ええ。少なくとも、そう聞こえます」


その言い方に、ルミエは一瞬だけ目を瞬かせた。

神父はそれ以上続けず、奥の方へ視線を向ける。


「今いる子どもたちは、今日は外に出ております。社会奉仕と、少しばかりのレクリエーションを兼ねて。近くの広場で教会の者が見ておりますので、ご心配なく」

「そうだったのですね」

「ええ。今日の訪問については、アニエスさんからも丁寧にご相談をいただいておりましたから」


ルミエはアニエスを見る。

アニエスは表情を変えず、静かに一礼した。


「差し出がましいかとは存じましたが、落ち着いてお話しできる方がよろしいかと判断いたしました」

「ありがとう。助かるわ」


ルミエがそう言うと、アニエスは短く頷く。

神父はそのやり取りを穏やかに見ていた。


「……それで」


少しだけ間を置いてから、神父が言う。


「ノワに会いに来られたのでしょう」


ルミエは頷いた。


「はい」


その返事は、迷いがなかった。

会いたい。

そう強く口にするほどではない。けれど、この場所に来た理由を問われれば、答えははっきりしている。

神父は、どこか安心したように息を吐いた。


「彼女は、今もこちらにおります」

「やはり」

「本来、年齢だけを見れば、外へ出る頃なのでしょう。ですが、彼女の場合は受け入れ先が限られます。魔石の器具が多い場所では、どうしても難しい」


神父の声は、以前と同じく責めるでも嘆くでもなかった。

ただ、事実として言う。


「今は、孤児院の手伝いをしてくれています。庭仕事や、年少の子どもたちが使う物の修繕、魔石を使わない場所での細々としたことを。本人も、その方が落ち着くようです」

「そうですか」


ルミエは窓の外を見る。

庭の奥。

あの小屋がある方角。


「……いつも通り、庭の小屋に」


神父が静かに告げルミエはもう一度頷く。


「ありがとうございます」

「どうぞ。彼女も、あなたなら嫌がらないでしょう」


その言葉に、ルミエは少しだけ笑った。


「そうだといいのですけれど」

「ええ。きっと」


神父はそれだけ言い、少し下がった。

アニエスもまた、ついていこうとはしなかった。


「アニエス?」

「私はこちらで待機しております」

「そう」

「お戻りの際は、お声がけください」

「分かったわ……ありがとう」


ルミエは再び礼を返し、庭へ向かう扉へ歩き出した。

庭は、記憶よりも少し狭く感じた。背も伸び、色々と見てきたからか。

風が木の葉を揺らす音と、遠くの街の気配だけが聞こえる中をルミエはゆっくり歩く。

小屋は、庭の外れにあった。

大きな木の影に半ば隠れるようにして建っている、古く小さな小屋。以前より少し修繕されているが、基本の形は変わっていない。

あの時と同じ場所。

あの時と同じように、人の気配から少し離れた場所。

そこへ向かいながら、ルミエは自分の胸の奥にある感覚に気づいた。


(……緊張、してる?)


胸の奥が少しざわめく不思議な感覚。

この世界で、緊張することは何度もあった。

初めて王都へ出た時。

知らない貴族と会った時。

多くの視線を浴びた時。

何かの役目を求められた時。

けれど、その緊張はいつも長続きしなかった。

目の前に相手がいれば、言葉は出る。

表情は動く。

声も、仕草も、距離の取り方も、勝手に相手に合っていく。

上手くできるかどうかを考える前に、上手くできてしまう。

それが、いつの間にか当たり前になっていた。

ルミエ・ヴァロワとして生きて15年。

緊張とは、予想外のことに出会い、上手く反応できるか分からない時に生まれるものだと思う。

なら、今のルミエには、そういう意味での緊張はほとんど必要ない。

必要がないほど、慣れてしまった。

こうして生きることに。

誰かに求められることに。

その場に合った反応が返ることに。

それなのに。

小屋が近づくにつれて、胸の奥がほんの少しだけ固くなる。

嫌な感覚ではない。

逃げたいわけでもない。

ただ、普段なら勝手に整っていくはずの心構えが、今だけは少し遅れているような気がした。


(ノワさんは、どうしているかな)


何を言うのだろう。

何を見ているのだろう。

今の自分を、どう見るのだろう。

他の人なら、考える必要はない。

会えば、口が動く。

相手が欲しいものに合わせて、微笑みも声も出ていく。

多くの相手とは、それで十分だった。

けれど、ノワだけは少し違う。

あの青灰の瞳は、他の誰とも同じようには見てこない。

憧れも、畏れも、過剰な期待もなく、ただ静かにこちらを見る。

以前もそうだった。

前は壊れそうだった。

今はもう壊れない。

そう言った。

慰めのようで、慰めではない。

評価のようで、評価でもない。

ただ、見たものをそのままに言っただけのような声だった。

ルミエは小屋の前で立ち止まる。

扉は閉まっている。

中にいるのかどうかは、まだ分からない。

だが、神父の言葉がなくても、何故かそこにいるような気がした。

ルミエは一度だけ息を吸い、控えめに扉を叩いた。

コン、コン。

乾いた音が、小屋の内側へ落ちる。

少しの沈黙。

それから、淡く静かな声が返ってきた。


「……どうぞ」


ルミエは、ほんの少しだけ指先に力が入ったことに気づいた。

それから、ゆっくりと扉を開けた。






扉を開けると、淡い光が室内に落ちていた。

小屋の中は、以前と大きく変わっていない。

寝台。

古い机。

水差し。

本が数冊、丁寧に重ねられた棚。

やはりここも記憶よりは小さくなったように見えた。

ただ、年月の分だけ、物の置き方が少し変わっていた。机の端には針と糸が置かれ、窓辺には乾かした草花が小さな束になって吊るされている。飾りというより、何かに使うためのものだろう。

そして、その奥に彼女はいた。

ノワ。

数年前より背は伸びていた。細く、儚げで、けれど今にも消えそうというより、薄い夜明けの中に静かに立つ影のようだった。

淡銀色の髪は以前より長くなり、肩を越えて背に流れている。

光を受けても強く輝くのではなく、白い花びらの裏側のように柔らかく光を返していた。

青灰の瞳は相変わらず静かで、そこに驚きも歓喜も浮かばない。ただ、目の前にいるルミエをまっすぐに見ている。

美しい少女になっていた。

だが、その美しさは人を呼び寄せるものでも惹きつけるものでもない。むしろ、雪の結晶のように、花びらに落ちた朝露のように、触れれば音もなく消えてしまいそうな、近づく者の足を自然と遅らせるようなものだった。


「……来たんだ」


ノワが言った。

相変わらず、声は薄い。久しぶりの再会だが、つい昨日も会ったかのようだ。

けれど、以前より少しだけ輪郭があった。風に溶けるほど小さかった声が、今は小屋の中に静かに残る。


「はい。お久しぶりです、ノワさん」


ルミエは微笑む。

いつものように、柔らかく、過不足なく。

けれど、その内側で、少しだけ息を吐いた。


(……いた)


それだけのことに、思ったよりも安心している自分がいた。

ノワはルミエを見つめたまま、わずかに首を傾ける。


「……久しぶり」

「ええ。本当に」

「……5年?」

「たぶん、そのくらいですね」


ノワなら、過ぎた時間など数えていないかもしれない。

そう思っていたから、その『5年』という言葉は少し意外だった。


「……そう」


ノワは頷いた。

それだけだった。

再会を喜ぶ言葉も、どうして来なかったのかという問いもない。懐かしさを飾るような言葉もない。

ただ、久しぶり。

『5年』

そう。

それで足りるのだと、彼女の瞳は告げていた。


「入ってもよろしいですか?」


ルミエが尋ねると、ノワは机の横に置かれた椅子へ視線を向けた。


「……どうぞ」


ノックの時と同じような短い許可。

ルミエは礼をして、小屋の中へ入る。

扉を閉めると、外の庭の音が少し遠くなった。孤児院の本棟からも離れているせいか、ここには王都の気配もあまり届かない。

勧められた木の椅子に座ると小さく軋んだ。

ノワは向かいに座らず、窓辺に立ったままだった。以前ならその距離も少し不思議に感じたかもしれないが、今はそういうものなのだと思えた。


「……変わったね」


ノワが言う。

ルミエは顔を上げた。


「私が、ですか?」

「……うん」


ノワの視線が、ルミエの髪、瞳、手元、姿勢を順に辿る。

遠慮のない観察だった。

けれど、不躾ではない。

値踏みでもない。

ただ、そこにあるものをあるがままに見つめるような目だった。


「……前より、遠くまで、光ってる」

「遠くまで、ですか」

「うん」


ノワは少しだけ目を細めた。


「……でも、前より、うるさくない」


ルミエは瞬きをする。


「うるさくない?」

「前は……光が、ばらばらだった。近くに来ると、まぶしくて、少し苦しかった」


ノワは言葉を選んでいるのではなく、自分の中にある感覚をそのまま拾っているようだった。


「今は、遠い。広い。けど……静か」


その言葉は、褒めているのか、変化を告げているのか、よく分からない。

ただ、ノワは本当にそう見えているのだろう。

ルミエは少しだけ笑った。いつもの微笑みより、ほんの少し力の抜けた顔だった。


「それは、良いことなのでしょうか」

「……さあ。わからない」


即答だった。

ノワは嘘をつかない。ほんの僅かな邂逅ではあったが、そのことは不思議と確信できた。

だから、分からないものは、分からないと言う。

何よりもそれがなぜか心地よかった。


「でも」


ノワは、そこでほんの少しだけ間を置いた。


「……前より、もっと壊れなさそう」

「前にも、そう言っていましたね」

「……うん」

「私はそんなに壊れそうでしたか?」


冗談めかして言ったつもりだった。

他の相手なら、ここで何かしら返ってくる。気遣いか、否定か、困ったような笑みか。

けれど、ノワは静かに頷いた。


「……うん。前は、薄かった」

「薄い?」

「ここにいるのに、どこか違うところを見てた。体はここにあるのに、少しずれてた」


その表現に、ルミエは言葉を失いかける。

前世。

転生。

悪魔。

契約。

この世界で生きていくことへの違和感。

ノワは、もちろん何も知らない。

知らないはずなのに、彼女の言葉は、時々妙な場所に触れてくる。


「……今は?」


ルミエが尋ねると、ノワは少しだけ考えた。


「今は、ここにいる」

「そうですか」

「でも、たくさんの人が、あなたを見てる」

「……そう、かもしれません」


ルミエは小さく笑う。


「最近は、学園で相談室のようなことをしていますから」

「相談?」

「はい。話したいことがある方のお話を聞くのです。悩みや、不安や、困っていることを」

「……たくさん?」

「最初よりは、増えました」

「……疲れる?」


その問いは、まっすぐだった。

心配のようで、心配ではない。探っているようで、探っていない。

ただ、聞いている。


「疲れる時もあります」


ルミエは少しだけ眉を寄せて笑って答えた。

その表情と言葉は、思ったより簡単に出る。


「でも、ずっとではありません。誰も来ない時間もありますし、そういう時は本を読んでいます」

「……本」


ノワの視線が、机の上の本へ向かう。


「ノワさんも、今でも読まれるのですか?」

「……読むよ」

「どんな本を?」

「昔と同じ。古い本。あと、神父さまがくれた本」

「面白いですか?」

「……何度も読むと、同じところが、少し違う」


ルミエは目を細める。


「ああ、それは分かる気がします」

「……ルミエも?」

「はい。昔は気にしなかった一文が、あとから読むと妙に残ることがあります」

「……そう」


ノワはわずかに頷いた。

その頷きが、どこか満足げにも見えた。

しばらく、二人は何も言わなかった。

沈黙が落ちる。

けれど、それは気まずいものではなかった。

リュシアンとの図書室の沈黙とも違う。相談室で誰かの言葉を待つ沈黙とも違う。

この沈黙には、何かを求める気配がない。

ルミエは、それに気づいていた。

誰も何も欲しがっていない。

言葉も、微笑みも、安心も、許しも。

ノワはただ、そこにいる。

そして、ルミエもただ座っている。

それだけで、時間が過ぎていく。


「……あの」


先に口を開いたのは、ルミエだった。

ノワが視線を向ける。


「ノワさんは、今もここに?」

「……うん」

「お手伝いをされていると、神父様から伺いました」

「庭。小さい子の服。壊れた椅子。魔石を使わないもの」

「大変ではありませんか?」

「……大変じゃない」


ノワは静かに答える。


「他の場所だと、止まるから」

「魔石が、ですか」

「うん」


ノワは窓の外を見る。


「明かり。水。炉。いろいろ。近づくと止まって。みんな困るから」


言葉は淡々としていた。

嘆きでもない。諦めでもない。

ただ、そういう事実を並べているだけ。


「ここは、止まっても困らないものが多い。困るものは、離してくれる」

「神父様が?」

「……うん。みんなも、少し覚えた」

「そうですか」


ルミエは少しだけ胸の奥が詰まるような感覚を覚えた。

だが、それをそのまま顔に出すことはしないし、できない。

出そうとしても、きっと綺麗な形に整えられてしまうから。


「ノワさんは、ここが好きですか?」


ノワはすぐには答えなかった。

青灰の瞳が、庭の木々へ向く。


「……静か」

「はい」

「本がある」

「はい」

「神父様がいる」

「はい」

「子どもたちは……近くないけど、いる」

「……はい」

「だから…………嫌いじゃない」


それは好きという言葉ではない。

けれど、ノワにとっては十分な肯定なのだろう。

微かに浮かぶそれは笑みなのだろうか。

ルミエは頷く。


「それなら、よかったです」

「あなたは?」

「私ですか?」

「……今の場所。好き?」


学園のことだと、すぐに分かった。

相談室。

図書室。

生徒たち。

貴族の子女。

リュシアン。

イザベル。

エドガー。

イリーナ。

エレーヌ。

いくつもの顔が浮かんでは、すぐに輪郭を失う。


「どうでしょう」


ルミエは少し考えてから少し挑戦的に笑って見せた。


「嫌いではありません」

「……好き?」

「さあ。まだ、よく分かりません」


そう答えると、ノワは静かに頷いた。


「……そう」


それだけで終わった。

好きではないのか、と聞き返さない。

なぜ分からないのか、と掘り下げない。

ならばどうしてそこにいるのか、と責めない。

ただ、そう、と受け取る。

そのことに、ルミエは少しだけ笑った。


「ノワさんは、相変わらずですね」

「……相変わらず?」

「はい。なんだか、安心しました」

「……安心」


ノワはその言葉を反復した。

少し不思議そうに。


「私、安心する?」

「ええ」


ルミエは微笑む。

口が勝手に動く感覚はある。

けれど、いつものような引っかかりは薄い。そう、例えるなら……


「ノワさんと話していると、静かですから」


自分の口から出た、考えた通りの言葉にルミエの心は一瞬固まった。

ノワは、しばらくルミエを見ており、その青灰の瞳に、喜びらしいものは浮かばない。

けれど、ほんのわずかに目元が和らいだ。


「……そう」


それだけだった。

けれど、たぶん喜んでいるのだと、ルミエは思った。


「私も」


ノワがぽつりと言う。


「ルミエが来ると、少し……違う」

「違う?」

「静かなまま、少し明るい」


ルミエは一瞬だけ言葉を探した。

他の誰かなら、その言葉を自分への賛辞として受け取るのだろう。

あるいは、光栄です、と微笑むのかもしれない。

実際、口はそう動きかけた。

けれど、ノワの前では、その言葉が少しだけ遅れる。


「……それは、嬉しいです」


結局、そう言った。

完璧すぎる返答ではなかった。

少しだけ間があって、少しだけ素直で、少しだけ頼りない。

ノワがそれを望んでいたのか、あるいは。

最後まで考える必要はない。

ノワはそれを聞いて、目を細めた。


「……うん」


その反応を見て、ルミエの胸の奥に柔らかいものが落ちる。

説明しようとすると、逃げてしまいそうな感覚。


「また、来てもいいですか」


言ってから、ルミエは少しだけ驚いた。

訪問は今日だけのつもりではなかった。

だが、改めて許可を求める必要は、たぶんない。

それでも、聞いていた。

ノワは瞬きをして、それから、以前と同じように、静かに頷いた。


「……いい」


短い許可。

そして、少し遅れて。


「ルミエなら、いい」


昔と同じ言葉。

けれど、声は少しだけ違っていた。

幼い頃よりも淡くはなく、少しだけ深い。

ルミエはゆっくり微笑んだ。


「ありがとうございます。また来ます」

「……うん」

「約束です」


そう言った瞬間、ルミエは自分の声がいつもより少しだけ柔らかくなったことに気づいた。

ノワは首を傾げる。


「……約束」

「はい」

「……忘れないように?」

「はい、忘れないように」


その返事は早かった。

ルミエ自身も、少し驚くほどに。

ノワはしばらくルミエを見ていた。

それから、胸の前で両手を重ねるようにして、小さく頷いた。


「……じゃあ、待ってる」


その言葉は、淡かった。

けれど、今までで一番はっきりと、ノワ自身の望みの形をしていた。

ルミエは、それを聞いて静かに息を吸う。


「はい」


そして、もう一度、ゆっくりと答えた。


「また、お会いしに来ます」


小屋の外で、風が木の葉を揺らした。

静かな場所だった。

王都のはずれにあり、学園からも、ヴァロワ家からも、貴族たちの会合からも離れた小さな場所。

そこでは、ルミエの声も、いつもより少しだけ遅く届く。

ノワは、それを急かさずに見ていた。


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