『用意した場所』
エレーヌ・クラリスが王立ヴァルテール学園を訪れたのは、正式な視察のためだった。
少なくとも、表向きはそうである。
クラリス家は教育と学問に関わる家であり、今回の相談室設置にも深く関わっている。
加えて、リシャール家からの意向を受け、学園側との折衝役を務めている以上、運用状況の確認に訪れることは何も不自然ではなかった。
むしろ、当然の務めと言っていい。
相談室は機能しているのか。
生徒たちは過度に依存していないか。
教師側に負担は出ていないか。
ルミエ・ヴァロワに不都合はないか。
その他問題は起きていないか。
確認すべきことは、いくらでもある。
だから、エレーヌは来た。
その理由は正しい。
正しく、筋が通っていて、誰に問われても説明できる。
「ようこそお越しくださいました、クラリス嬢」
応接室へ通されると、学園側の担当教師が丁重に頭を下げた。
年嵩の教師で、声は落ち着いている。
派手さはないが、学園内の調整を任される者らしく、言葉の選び方には落ち着きがあった。少なくとも、クラリス家の訪問に浮足立つような人物ではない。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
エレーヌもまた、礼を返す。
背筋は伸び、表情は穏やかで、声には同世代の学園の生徒たちとも違う、年齢以上の落ち着きがある。
クラリス家の令嬢として、学園側と向き合うに足る姿だった。
「相談室の運用について、簡単にご報告いたします」
「お願いいたします」
教師が書類を広げる。
相談室が開かれてからの来訪者数。
訪問の多い時間帯。
教師への報告事項。
学園内での反応。
大きな問題の有無。
エレーヌは一つひとつ確認しながら、必要な箇所だけ質問を挟んだ。
「来訪者に偏りは?」
「今のところ、明確な偏りは見られません。貴族の子女もおりますが、その他、様々な家の生徒もおります」
「同じ生徒が繰り返し訪れる傾向は?」
「何名かは。ですが、今のところ問題視するほどではないかと」
「教師への相談が減っている、あるいは逆に増えているということは?」
「内容によります。成績や講義に関する相談は変わりません。ただ、人間関係や家庭からの手紙など、感情面の相談は相談室へ向かう例が出ているようです」
「なるほど」
エレーヌは頷く。
表情は崩れないが、心の奥では、別のものが静かに熱を帯びていた。
「ルミエ・ヴァロワ嬢は、いつも席に座り穏やかに出迎えてくれる、それが安心できる、とも聞いております」
(やっぱり)
そう思う。
ルミエ様ならば当然だ、と。
誰もが、あの方の前では言葉を失う。
あるいは、逆に言葉を零してしまう。
叱られず、否定されず、ただ受け取られる。
その価値を、この学園の者たちも理解し始めている。
それは、良いことだ。
……良いことのはずだった。
「生徒の様子に、目立った変化はありますか」
僅かに奥歯を噛んだ後、何事もなかったようにエレーヌは、あくまで確認として尋ねる。
教師は少し考えた。
「一部の生徒については、落ち着きが見られるようになったという報告があります。授業中の私語が減った者、友人関係で衝突しにくくなった者、逆に相談室へ行ったことをきっかけに、周囲へ話しかけるようになった者も」
「それは何よりです」
エレーヌは穏やかに答える。
言葉としては、それだけだった。
だが、胸の奥で何かがゆっくりと満ちる。
ルミエ様が、学園に必要とされ始めている。
自分が用意した場所で。
自分が道を作った場所で。
ヴァロワ家でもない。
ベルニエ家でもない。
リシャール家でも、父でもない。
自分が、この場所へルミエ様を招いた。
もちろん、ひとりで成したなどとは思っていない。
それほど愚かではない。
リシャール家の後押しがあり、父の許可があり、学園側の判断があり、ヴァロワ家の了承があった。
それらがなければ、この話は成立しなかった。
けれど。
それでも。
最初に、ルミエ様をここへ置くべきだと強く思ったのは、自分だった。
「クラリス嬢?」
教師の声に、エレーヌは視線を戻す。
「失礼いたしました。続けてください」
「はい。現時点では、制度としては問題なく機能していると見ております。ただ、想定よりも生徒間での認知が早いという点はあります」
「認知が早い?」
「ええ。噂、と言うべきではないのでしょうが」
教師は少しだけ言葉を選ぶ。
「相談室に行った者同士、あるいは周囲の者の間で、話題になる機会が増えているようです」
「内容は?」
「おおむね好意的です」
その一言で、エレーヌの指先がわずかに膝の上で動いた。
好意的。
当然だ。
そう思う。
同時に、胸の奥に、甘いものとは違う熱が沈む。
(また、増えたのね)
ルミエ様を知る者が。
ルミエ様の言葉を受け取る者が。
ルミエ様を必要とする者が。
それは喜ばしいことだ。
自分が望んだことでもある。
あの方の価値を、閉じた場所に置いておくべきではない。
ヴァロワという家に縛っておくべきでもない。
学園という、国の未来を担う若き者たちが集う場所にこそ、ルミエ様は相応しい。
そう思った。
だから、この場所を用意した。
それなのに。
”増えていく”のだと思うと、胸の奥が少しだけ冷えた。
「クラリス嬢としては、何かご懸念はございますか」
教師が尋ねエレーヌは微笑む。
完璧に。少しの綻びも見せずに。
「現時点ではございません。むしろ、学園側が丁寧に運用してくださっていることに感謝いたします」
「恐縮です」
「ただ、相談室という場の性質上、過度に形式ばらせるべきではないでしょう。生徒にとって、訪れるまでの心理的な障壁が高くなっては意味がありません」
「その点は、こちらも同意見です」
「一方で、軽々しく扱われても困ります。興味本位で立ち寄る場になってしまえば、ヴァロワ嬢にも負担がかかります」
「注意いたします」
エレーヌは頷く。
言っていることは正しい。
学園側への指摘としても妥当だった。
その正しさの裏に、自分の感情が混じっていることを、エレーヌはどこまで自覚していただろう。
ルミエ様を雑に扱わせたくない。
ただの癒やし役として消費されたくない。
気まぐれな興味で近づかれたくない。
けれど、必要とされない場所に置くなど、もっと耐えられない。
だから、正しく必要とされなければならない。
そのために、自分が見る。
自分が確かめる。
それは、責任である。
責任であるはずだった。
報告を終えたあと、エレーヌは相談室へ向かった。
学園側の案内は断った。
クラリス家として学園内の地図は把握している。当然、設置した相談室の場所も。
視察名目で訪れている以上、学内を一人で歩くことも不自然ではない。
むしろ、周囲の様子を見るには、その方が都合が良かった。
廊下を歩くと、幾人かの生徒がエレーヌに気づき、礼をする。
クラリス家の令嬢。
教育に関わる家の娘。
そして今回の相談室設置に関わった人物。
その認識は、既に一部の生徒たちにも広がっているのだろう。
「クラリス様」
一人の令嬢が声をかけてきて、エレーヌは足を止める。
「あら、ごきげんよう」
「本日は、相談室のご視察ですか?」
「ええ。運用状況の確認に」
「そうでしたか」
令嬢は一瞬だけ迷うような顔をした。
エレーヌはそれを見逃さない。
「何かありましたか」
「あ、いえ。そういうわけでは」
「遠慮なさらずに」
穏やかな声に令嬢は少しだけ視線を伏せる。
「……相談室へ行った友人が、少し楽になったと申しておりました」
「そうですか」
エレーヌは微笑む。
「それは、よかったですね」
「はい。あの……ルミエ様は、不思議な方ですね」
その名前が、他人の口から出る。
『ルミエ様』
当然の呼び方だ。
そう呼ぶに相応しい方だ。貴族であっても、誰であっても、あの方を知れば、自然とそう呼ぶはずだ。
それでも、胸の奥で何かがわずかに揺れる。
「不思議、ですか」
「はい。何か特別なことをおっしゃるわけではないそうなのです。でも、話していると、自分の中で絡まっていたものが少し緩むようだと」
「そう、ですか」
エレーヌは短く答える。
それ以上、表には出さない。
だが内側では、ゆっくりと熱が広がっていた。
そうでしょう。
あの方は、そういう方なのだから。
あなたも気づいたのね。
そう思う。
そして同時に、思う。
あなた”も”。
「貴重なお話をありがとうございます」
エレーヌは礼を言い、再び歩き出した。
背後で令嬢が礼を返す気配がする。
その足音が遠ざかるにつれて、エレーヌの胸中は静かに深く沈んでいく。
(当然だわ。当然。当然なの)
自分に言い聞かせるように思う。
ルミエ様は、必要とされる。
どこへ行っても。
誰と向き合っても。
きっと、そうなる。
だからこそ、この場所が必要だった。
無数の視線の中で、無秩序に求められるのではなく、相談室という形を与え、役目として周囲に認識させ、学園の中で正しく受け入れられる場所を作る。
それが、自分のしたことだ。
そうでなければならなかった。
相談室の扉の前で、エレーヌは一度だけ息を整えた。
仕事で来た。
視察で来た。
運用確認である。
そう考えれば、何もおかしくない。
自分はこの部屋に入ってよい。
何度でも。
必要があれば、いつでも。
それはクラリス家としての責務であり、学園側も受け入れている。
だから、問題はない。
問題はないはずなのに、指先がわずかに熱い。
エレーヌはそれを無視して、扉を二度叩いた。
「どうぞ」
中から、声がした。
その瞬間、エレーヌの胸の奥で、何かが静かにほどける。
いつもの声。
手紙の中で何度も想像した声。
以前、応接室で聞いた声。
そして今、自分が用意した場所の内側から聞こえてくる声。
エレーヌは扉を開けた。
「失礼いたします」
中にいたルミエが顔を上げる。
黒髪。
紫紺の瞳。
穏やかな微笑み。
そこにいるだけで、部屋の意味が変わったように見える。
「エレーヌ様」
ルミエは少し驚いたように瞬きをし、それから嬉しそうに微笑んだ。
「お久しぶりです」
ルミエは立ち上がり少し早歩きでエレーヌの元へとやってくる。その一言で、その一歩で、エレーヌの中にあった視察も、報告も、運用確認も、一瞬だけ薄くなった。
お久しぶりです。
そう呼ばれた。
覚えていてくださった。
なにより、立ち上がって出迎えてくださった。他の生徒には座って待っていると聞いたのに。
私には。
そして、自分がルミエを忘れることはもちろんあるはずはない。
手紙も交わしている。
相談室の設置にも関わっている。
だから、覚えていて当然だ。
当然なのに。
「……お久しぶりでございます、ルミエ様」
エレーヌは礼をする。
声は乱れない。
乱れていないはずだった。そう思いたかった。
「本日は、相談室の運用状況の確認に参りました」
「そうだったのですね」
ルミエは向かいの席を示す。
「どうぞ、お掛けください」
その仕草は自然だった。
来訪者に座るよう促す、相談室の主としての動き。しかし、ここまで歩み寄ってくれて、すぐそばで席を勧めてくれる。
エレーヌは、それを見て胸が満たされるのを感じた。
この部屋にいる。
ルミエ様が、相談室の主として、ここにいる。
その形を、自分が作った。
そして、自分は”特別に”出迎えられた。
「ありがとうございます」
席へ着くと、ルミエも向かいに座った。
机を挟んだ距離。
近すぎず、遠すぎない。
相談に来た者たちは、この距離でルミエ様と向き合うのだろう。
そう思うと、胸の奥で再び小さな熱が動いた。
「学園側から、ある程度の報告は受けました」
エレーヌは書類を机の上に置く。
「訪問される生徒も、少しずつ増えているそうですね」
「はい。最初よりは」
「ご負担はありませんか」
「今のところは、大丈夫です」
「必要な物は揃っていますか。茶器、記録用の紙、待機中に使うものなど」
「ええ。とてもよくしていただいています」
ルミエは少し笑う。
「むしろ、私が使いこなせていないくらいかもしれません」
「そのようなことは」
エレーヌは即座に言いかけて、少しだけ言葉を止めた。
強く否定しすぎるところだった。
視察である。
落ち着かなければならない。
「不都合があれば、すぐにお知らせください。学園側へも、こちらから調整いたします」
「ありがとうございます」
ルミエは穏やかに頷く。
「エレーヌ様がいろいろと手配してくださったおかげで、過ごしやすいです」
その瞬間。
エレーヌの呼吸が、ほんのわずかに止まった。
言葉自体は、何でもない。
ただの礼。
相手への感謝。
運用に関わった者への当然の一言。
分かっている。
分かっているのに。
(私が……)
胸の奥で、言葉にならないものが膨らむ。
私が、この場所を用意した。
私が、ルミエ様をここへお招きした。
私が、この方に必要とされる場所を作った。
そして今、ルミエ様がそれを認めてくださった。
「……お役に立てたのでしたら、何よりです」
エレーヌは微笑む。
完璧に。
声も乱れていない。
けれど、指先だけが、膝の上でゆっくりと握られていた。
ルミエはそれに気づいた様子もなく、柔らかく続ける。
「相談室というものが、まだよく分からないまま始めたので、少し不安もありました。でも、来てくださる方がいるなら、できる範囲でお話を聞ければと思っています」
「ルミエ様なら、きっと皆さまのお力になれます」
「そうでしょうか」
「はい」
エレーヌは、少しだけ前のめりになりかけて、すぐに姿勢を戻した。
「少なくとも、既にそうなっています。生徒たちの反応にも、良い変化が見られると伺いました」
「それなら、よかったです」
ルミエは本当にそう思っているように微笑んだ。
それは、穏やかで、でも、どこか他人事のようでもある笑みだった。
自分の影響を知らない。
自分がどれほど人に求められ始めているか、理解していない。
その無垢さが、エレーヌにはたまらなく美しく見えた。
同時に、たまらなく危うくも見えた。
(だから、私が見ていなければ)
ふと、そう思う。
思ってから、それがどこから来た考えなのか、自分でも分からなかった。
責任。
そう呼べば、正しい。
クラリス家として、設置に関わった者として、ルミエ様をこの場に招いた者として、その後を見守る責任がある。
だから、今後も定期的に来るべきだ。
そう。
それは必要なことだ。
「今後も、定期的に状況を確認させていただきます」
エレーヌは言った。
「学園側との調整もございますし、ルミエ様にご負担がかかっていないかも確認しなければなりません」
「ええ。助かります。エレーヌ様が来てくださるなら、心強いです」
その微笑みと言葉は、さらに深く刺さった。
心強い。
ルミエ様が、自分を。
「……光栄です」
それだけを返すのが、精一杯だった。
本当は、もっと言いたいことがあった。
私がいます。
何かあれば、必ず。
この場所は、貴女のために。
貴女がここで誰に求められても、最初にここへ導いたのは私で。
そんな言葉が、胸の奥で形になりかける。
だが、口には出さない。
出せるはずもない。
代わりに、エレーヌは書類を軽く整えた。
「では、本日の確認事項を簡単にまとめます。茶器や備品は問題なし。来訪者数は増加傾向。ただし、現時点で負担は軽微。学園側への改善要望は特になし。……この認識でよろしいでしょうか」
「はい」
ルミエは頷く。
「ありがとうございます。とても分かりやすいです」
「当然のことをしているだけです」
そう答える。
けれど、胸の奥では別の声がする。
もっと見てほしい。
もっと頼ってほしい。
この場所にいる時、自分のことを少しでも思い出してほしい。
自分が、エレーヌ・クラリスが用意したのだと。
そう思ってほしい。
エレーヌは、胸からふつふつと湧き上がり続けるその声を聞こえないものとして扱った。
相談室を出たあと、エレーヌは廊下を歩いていた。
足取りは乱れない。
表情も穏やかだった。
誰かに見られても、ただ視察を終えたクラリス家の令嬢にしか見えないだろう。
実際、そうだった。
視察は終わった。
運用は問題なし。
必要な確認もできた。
今後の定期確認の口実もできた。
何も不自然ではない。
それどころか、完璧だった。
(過ごしやすい、と)
ルミエの言葉を思い出す。
エレーヌ様が手配してくださったおかげで。
その一文が、何度も胸の中で繰り返される。
まるで、祈りの言葉のように。
「……よかった」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声だった。
よかった。よかった。よかった。よかった。
ルミエ様のお役に立てた。
ルミエ様の場所を用意できた。
ルミエ様が、心強いと言ってくださった。
その事実だけで、しばらくは何も要らないような気がした。
だが、すぐに別の思考が入り込む。
訪問者は増えている。
噂も広がっている。
生徒たちは、ルミエ様を知り始めている。
これからもっと増えるだろう。
ルミエ様の価値に気づく者が。
あの方に救われたような顔をする者が。
また会いたいと願う者が。
当然だ。
それでいい。
そうあるべきだ。
けれど。
「……順序は、忘れてはなりませんわね」
それが誰に向けた言葉なのか、エレーヌ自身にもよく分からなかった。
生徒たちに対してか。
学園に対してか。
それとも、自分自身に対してか。
ただ、その言葉だけが、ひどく静かに口から落ちた。
―――”最初は”私なのだと。
廊下の先には、午後の光が差している。
エレーヌは背筋を伸ばし、いつものように歩き出した。
用意した場所は、正しく機能している。
そして。
そこへ向かう理由を、彼女はもう手に入れていた。




