『いつもの席』
ノワのいる孤児院へは、近いうちに向かうことになった。
「それでは、訪問の件、お願いね、アニエス」
「はい。先方との調整を行います」
「急ぎではないけれど、できれば次の休みの日か、その次くらいにね」
「承知いたしました」
そうして、訪問の段取りはアニエスに任せることになった。
王都にいるとはいえ、思い立ったその日に孤児院を訪ねるほど自由ではない。ルミエは学園の相談室にいる身であり、その他にもヴァロワ家としての顔合わせや、細々とした予定もある。
だから、まずは日を決める必要がある。
(ノワさんに会うのも、久しぶりだ)
そう思う。
会いたい、と強く言葉にするほどではない。
けれど、会いに行く日が決まると、頭のどこかが少しだけその予定を覚えている。
何を話すのかは、まだ分からない。
久しぶり、と言うのか。
元気でしたか、と聞くのか。
あるいは、以前のように、何でもないことを少し話すだけなのか。
考えてみても、これという形にはならなかった。
きっと、会えば何かしら言葉は出るのだろう。
それがいつも通りなのかどうかは、少し分からないけれど。
相談室の方は、赴任したばかりの頃と比べれば、訪れる生徒が少し増えていた。
もちろん、四六時中誰かが来るわけではない。
予約が詰まっているわけでもなく、ルミエが朝から夕方まで部屋に座り続けていなければならない、という決まりもなかった。不在の時は札を扉にかけておけばそれでいい。
誰かが来れば応じる。
誰も来なければ、待つ。
そういう役目ではあるが、誰も来ない時間は、それなりに長い。
(暇なんだよね)
ルミエは、それを素直に認めていた。
誰かが目の前にいれば、言葉は出る。
微笑みも、相槌も、必要な反応も自然に出ていく。
だが、一人でいる時はそうではない。
ただ一人で部屋に座っていれば、普通に暇だった。
生徒たちに混じって遊ぶ立場でもない。
職員たちの仕事を手伝うのも違う。
アニエスを呼べば相手はしてくれるだろうが、それも毎回では落ち着かない。アニエスは秘書であってお喋り相手ではない。
そうなると、行き先は自然と限られる。
図書室。
本は好きだし、暇つぶしとしては悪くない。
それに、王立学園の図書室には、地元や実家では見られない本も多かった。
だからルミエは、相談室の時間が空くと、図書室へ向かうことが増えていた。
その日も、ルミエは図書室へ向かった。
王立ヴァルテール学園の図書室は、声を抑えれば短い会話を許されてはいる。
読んだ本について意見を交わすため。
誰かに質問するため。
あるいは、身分ある生徒が静かに言葉を交わすため。
図書室の壁や柱には静性石が組み込まれており、普通の声量であれば、少し離れた席の読書を妨げることはほとんどない。
そして、ルミエに声をかけてくる相手は、たいてい決まっている。
リュシアン・ド・ヴァルテール。
第二王子であり、学園の中でも特別な立場にいる少年。
しばらくは知らなかったその名前をルミエは聞いた時に『やっぱり偉い人だったのか』とは思った。
ただ、それ以上の感想はあまりなかった。
この学園では、だいたいの人がルミエより偉い。
その中でも特に偉い人、というだけだから。
もちろん、礼は失わないし、失っていい立場でもない。
だが、必要以上に固くなる理由もなかった。
リュシアンもまた、最初から長く話したわけではない。
すれ違い、図書室で短く言葉を交わし、また別の日に同じような会話をした。
読んでいる本のこと。
図書室の蔵書のこと。
学園の休みの日のこと。
王都の商館の話。
時には、相談室へ訪れる生徒の様子。
どれも、大きな意味のある話ではない。
だが、不思議と、会話は途切れても気まずくならなかった。
リュシアンが何も言わなければ、ルミエは本へ視線を戻す。
ルミエが本を読んでいれば、リュシアンは無理に声をかけない。
話す時は話し、沈黙する時は沈黙する。
それだけだった。
(やっぱりここ、静かでいいな)
リュシアンもまた、最近、図書室へ向かうことが増えていた。
それを自分で不自然だとは思っていない。
生徒が図書室に行くこと自体は、何もおかしくない。
王立ヴァルテール学園の蔵書は多く、調べものをするには適した場所だ。
静かで、人の出入りも多すぎない。
そういう理由なら、いくらでも挙げられる。
ただ、実際のところ、読みたい本がある日は多くなかった。
それでも、足は図書室へ向かう。
講義と講義の合間。
予定が空いた時間。
誰かに声をかけられる前のわずかな隙間。
その中で、気づけば足がそちらを選んでいる。
(……少し、確認するだけだ)
そう考える。
何を確認するのかまでは、考えない。
図書室の扉を開け、奥へ視線を向ける。
窓際の席。
そこに黒髪の少女が座っていれば、ああ、いたのかと思う。
いなければ、今日は相談室だろうか、あるいはヴァロワ家の用事かもしれない、と考える。
それだけのことだった。
少なくとも、リュシアンはそう扱っていた。
その日も、図書室へ向かうまで、特別な理由はなかった。
取り巻きの一人が講義の話をした。
別の者が交流会の予定について尋ねた。
それに穏やかに答え、必要なところで会話を区切る。
いつも通りだった。
「では、また後ほど」
そう告げると、生徒たちは丁寧に礼をして離れていく。
一人になると廊下に残る足音が少し遠ざかるような感覚を覚えた。
リュシアンは、特に急ぐでもなく歩き出す。
向かう先は、図書室。
そして。ルミエは、いつもの席にいた。
いつも通り窓際の席に座り本を一冊開き、片手でページを押さえながら、もう片方の手で髪が落ちないよう耳へかけていた。
リュシアンは一瞬だけ足と目を止める。
それから、何事もなかったように近づいた。
「今日も、こちらにいらしたのですね」
声をかけると、ルミエは顔を上げた。
「ええ。相談室にどなたも来られなかったので」
そう答えてから、軽く微笑む。
「リュシアン様も、また図書室へ?」
「ええ。少し時間が空きましたので」
嘘ではない。
だが、十分な理由かと言われれば、少し弱い。
ルミエはそこを特に追及しなかった。
「でしたら、座られますか?」
自然な問いだった。
誘いというほど強くはない。
断ってもよいし、座ってもよい。
その距離と、何の他意もないであろうその誘いが、リュシアンには少し楽だった。
「では、少しだけ」
そう言って向かいの席に腰を下ろす。
机の上には、ルミエが読んでいた本が置かれていた。
「今日は何を?」
「王都の古い商館についての本です」
「商館?」
「はい。眠くなりそうな本です」
あまりに素直な感想だったので、リュシアンは一瞬だけ返答に迷った。
「では、あまり良い本ではないのでは?」
「眠くなる本が、悪い本とは限りませんよ」
ルミエは本を軽く閉じる。
「眠れるほど安心して読める本もありますから」
「それは、褒めているのですか?」
「ええ、たぶん」
ルミエは少しだけ首を傾けて微笑んで見せる。
その返答に、リュシアンは小さく息を漏らした。
笑った、というほどではない。
だが、胸の奥にあった硬さが少しだけ柔らかくなったような感覚があった。
「貴女は、不思議な評価をしますね」
「そうでしょうか?」
「ええ。少なくとも、講義の場ではあまり聞かない評価です」
「講義で眠くなると言ったら、怒られてしまいそうですものね」
「でしょうね」
小さな会話だった。
何かを決めるわけでもない。
誰かの顔色を読む必要もない。
家名も、将来も、利害も関係しない。
ただ、本が眠くなるかどうかを話している。
それだけなのに、リュシアンは席を立つ理由を見つけられなかった。
「相談室の方は、慣れましたか?」
しばらくして、リュシアンが尋ねた。
「そうですね、少しは」
ルミエは答える。
「最初よりは、来てくださる方が増えました。といっても、ずっと人がいるわけではありませんけれど」
「だから図書室へ?」
「はい。部屋で一人でいると、さすがに暇ですから」
「暇、ですか」
リュシアンはその言葉を反復しルミエが少し不思議そうに見る。
「はい。暇なものは暇ですよ」
当たり前のように言われて、リュシアンは返す言葉を少し遅らせた。
暇。目の前の少女から出るには少し俗なような、存外に似合っているような、不思議な言葉。
同時に、その言葉を、自分はどれくらい素直に使ったことがあっただろうか。
時間が空くことはあるし予定がなくなることもある。
だが、それを暇だと感じる前に、何かで埋めることを考えてきた。そして、結局何かで埋め続けてきた。
本を読む。
報告書を見る。
人と話す。
必要な態度を取る。
空いた時間は、空いたままにはしない。
それが当たり前だった。王子として、立場ある者として、周囲から求められる人物として。
「……貴女は、暇な時はどうされるのですか」
「本を読みます」
「今のように?」
「はい。あとは、お茶を飲んだり、少し歩いたり」
「生徒たちと過ごそうとは?」
「誰かと一緒に過ごすのは好きですが、私は生徒ではありませんから」
ルミエは穏やかに言う。
「混ざってもよいのかもしれませんけれど、少し違う気がします」
「……違う」
「はい。皆さんには皆さんの場所がありますし、私には私の役目がありますから」
リュシアンは、その言葉を聞いていた。
役目。
その言葉は、彼にとって馴染み深いものだった。
だが、ルミエの口から出ると、少しだけ意味合いが違って聞こえる。
背負っているというより、ただそこにあるものをあるがままに見ているような言い方だった。
「その役目は……重くありませんか」
自分でも、少し踏み込んだ問いだと思った。しかし、気が付けばそんな問いが口をついていた。
ルミエは一度瞬きをする。
それから、困ったように笑った。
「どうでしょう。重い時もありますけれど、必要とされるなら、できる範囲で応じたいとは思います」
「必要とされるなら」
「はい」
ルミエはそこで、本の表紙に指先を置く。
「でも、ずっと気を張っていると疲れますから。こうして本を読む時間も、必要なのだと思います」
リュシアンは黙った。
その言葉は、何かを教えようとしているものではない。
励ましでも、忠告でもない。
ただ、自分はそうしている、と言っただけだった。
それなのに、胸の内に妙な引っかかりが残る。
ずっと気を張っていると疲れる。
当たり前のことだ。
だが、その当たり前を、自分に向けて考えたことはあまりなかった。
「……そうかも、しれませんね」
気づけば、そう返していてルミエは微笑む。
「リュシアン様も、よくこちらへいらっしゃいますものね」
「……そうでしょうか」
「はい。何度かお会いしていますし。本がお好きなんですか?」
そう返されて、リュシアンは一瞬だけ言葉を失う。
何もおかしくはない。図書室によく来る人物は本が好き。当たり前の帰結だ。
「……ええ。そうなのかもしれません」
「それでは、私と一緒ですね」
そして、話はそれで終わりそれ以上追及されないことが、妙にありがたかった。
しばらく、二人は何も話さなかった。
ルミエは本に視線を戻し、リュシアンは近くの書架から手に取った本を開く。
内容はあまり頭に入らなかった。
文字は追える。
意味も分かる。
だが、何を読んでいるのかという感覚が薄い。
ふと視線を上げる。
ルミエは変わらず本を読んでいる。
黒髪が肩に流れ、窓から入る光がその輪郭を淡く照らしている。
表情は穏やかで、誰かに向けられた微笑ではない。
近くで見ると瞳の色がはっきりわかる。
――吸い込まれるような紫紺の瞳。
リュシアンは、それを見ている自分に気づき、視線を本へ戻した。
(……何をしている)
そう思う。若い令嬢の顔をじっと見るなど、褒められた振る舞いではない。
けれど、恥とも感じなかった。むしろ、この静かな時間がもう少し続いてもよいと、一瞬だけ考えたくらいに。
その考えに気づいて、リュシアンはページを一枚めくる。
めくった先の文章は、やはり頭に入ってこなかった。
やがて、鐘の音が遠くで鳴った。
次の講義、あるいは次の予定を知らせる音だ。
リュシアンは本を閉じる。
「そろそろ戻ります」
「はい」
ルミエも顔を上げる。
「お話できてよかったです」
「私も」
その自然な言葉にリュシアンはそう答えた。
自分で口にしてから、その短さに少しだけ驚く。
もっと別の言い方もできただろう。
だが、ルミエはそれを自然に受け取った。
「では、また」
「ええ。また」
立ち上がり、席を離れる。
図書室を出るまで、リュシアンは振り返らなかった。
振り返る理由はない。
そう思っていた。
廊下へ出ると、学園の音が戻ってくる。
誰かの足音。遠くの話し声。窓の外から届く風の音。
いつも通りだった。
ただ、図書室で読んだ本の題名を、リュシアンは思い出せなかった。
そもそも、自分が何を読むつもりで図書室に向かったのかも、曖昧だった。
それでも、いつもの席に彼女がいたことと、別れ際の『また』という言葉だけは、妙にはっきり残っていた。




