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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『噂は静かな部屋から』
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『幕間、噂の行き先』

王立ヴァルテール学園において、噂は決して早足では広まらない。

少なくとも、表向きはそうだった。

品位ある学び舎において、無責任な言葉を走らせることは好ましくない。家名を背負う者であればなおさら、誰かの評判を軽々しく語るべきではない。

だから、生徒たちは噂をしない。

……”そういうこと”になっている。

実際には、廊下の端で声を落とし、食堂の席で何気なく話題を変え、交流室の隅で茶器を傾けながら、必要な分だけ情報を交換する。

それは噂ではない。

近況の確認であり、社交に必要な共有であり、学園生活を円滑にするための、ごく自然な会話だった。

少なくとも、彼らはそう扱っていた。


「……それで、また行ったの?」


食堂の一角。

数人の令嬢が、昼食を終えたあとも席を立たずにいて、皿は既に下げられており、卓の上には茶だけが残っている。

そして、食後に交わすにはちょうどいい程度の話題が選ばれていた。

問われた令嬢は、カップに指を添えたまま、少しだけ視線を下げる。


「ええ。少しだけ」

「相談室に?」

「そう」


声は小さいが、興味までは隠しきれていない。

隣の令嬢が、ほんの少しだけ身を乗り出した。


「何を話すの?」

「大したことではないわ。本当に、そう、普通のことよ」

「普通のことを、わざわざ?」


その言葉に、令嬢は少し困ったように笑った。


「そうね。わざわざ、かもしれないわ」


自分でもおかしいと思っているような顔だった。

それでも、否定はしない。あのひとときを思い出す。


「でも、話すと少し楽になるの」

「何か助言をくださるの?」

「助言……というほどではないと思う」


令嬢は考え、思い出す。

あの部屋はどんな雰囲気だったか。

自分の言葉にどんな言葉を返してくれたか。

どんな表情をしていたか。

そして、思う。正確に言おうとすると、かえって難しいと。


「穏やかな時間で……そう、叱られないの」

「え?」

「変だと言われないし、気にしすぎとも言われない。ただ、そう感じたのですね、と言ってくださるの」


それだけを口にした瞬間、卓の上の空気が少し変わった。

大げさな反応はない。

しかし、誰もすぐに笑わなかった。


「……それは」


一人が、言葉を探す。『それだけ?』とも『その程度なの?』と思わなくもない。

でも、この学園の中でそういう場所は……得難いようにも思えた。


「少し、良いわね」

「ええ。少しだけ」


小さく頷いて返されるその“少しだけ”が、妙にその場の者たちの心に残った。




男子生徒たちの間では、別の形で話題になっていた。


「ルクレール、お前、相談室に行ったって本当か?」


中庭へ向かう回廊で、そんな声が上がる。

エドガー・ルクレールは足を止めず、横から声をかけてきた相手を見る。


「ああ、少し寄ったよ」

「寄っただけって、あそこに?」

「空いていたから」

「空いていたから相談室に行くのか?」


冗談めかした声に、周囲の数人が笑う。

悪意はない。

貴族の子息とはいえ、こういうからかいは珍しくなかった。エドガーもそれくらいは分かっている。


「別に、講義まで時間があっただけだ」

「で、どうだった?」

「何がだ?」

「ルミエ・ヴァロワ嬢だよ。噂になっているだろう」


エドガーは少しだけ黙り歩きながら答えを探す。

美しかった。

話しやすかった。

妙に落ち着いた。

どれも間違いではない。

だが、そのまま言う気にはなれなかった。


「普通、だったな」


結局、そう答える。


「普通?」

「少なくとも、みんなが期待しているようなものじゃない」

「なんだよ、それ」


笑いが返りエドガーも軽く肩を竦めた。

それで話は終わるはずだった。

だが、少し歩いてから、隣の生徒がぽつりと言う。


「普通、ね」


その言い方には、わずかな興味が混じっていた。

エドガーは答えない。

答えなかったが、胸の奥には、あの時の茶の味がかすかに残っていた。

談話室でも飲める、どうということもない茶。

それなのに、あの部屋で飲んだ時だけ、少しだけ口当たりがよかった。

その理由は、まだ考えないことにしていた。



教師たちも、相談室については把握していた。

もちろん、報告としてである。


「相談室を訪れる生徒が、少しずつ増えているようです」


職員室で、一人の教師が書類を手にそう言った。


「問題は?」

「今のところ、特には。むしろ、授業中に気が散っていた生徒が、いくらか落ち着いたという報告もあります」

「それは良いことでは?」

「ええ。良いことです」


答えた教師の声には、わずかな迷いがある。

良いこと。

そう言ってしまえば、その通りだった。

生徒たちが感情を荒立てず、不要な衝突を避け、講義に戻ってくる。

表面上は、何も悪くない。

むしろ、歓迎すべき変化だった。


「クラリス家からの提案は、意外と効果があるのかもしれませんね」

「リシャール家も関わっている以上、形だけで終わるよりはよいでしょう」


教師たちは頷き合う。

誰も、強い不安を口にしなかった。

口にするほどの問題は、まだ起きていない。

ただ一人、年配の教師だけが、窓の外へ視線を向けた。

中庭を歩く生徒たちの中に、いつもより肩の力が抜けた者がいる。

笑い声が上がっても、すぐに誰かが刺すような一言を返すことが減っていた。

それは悪い光景ではない。

だからこそ、言葉にしづらかった。


「……急ぎすぎなければ、よいのですが」

「何がです?」


問われ、教師は首を振った。


「いえ。何でもありません」


それ以上は続かなかった。



イザベル・ド・ヴェルディエの耳にも、その変化は届いていた。

届いていた、というより、彼女には見えていた。

相談室へ向かう者の数。

扉の前で止まる時間。

出てきた時の顔。

それらを全て記録しているわけではない。

だが、気づいてしまう。


「ヴァロワ様の相談室、最近少し話題ですね」


隣を歩く令嬢が言う。


「そうね」


イザベルは短く答える。


「イザベル様も、以前行かれたのでしょう?」

「様子を確認しただけです」

「いかがでした?」


問いに、イザベルは一拍置いた。

適任。

以前、そう判断した。

今もその評価は変わらない。

ただ、その言葉の重さが少し変わってきている。


「役割には合っています」

「役割、ですか」

「ええ」


令嬢は不思議そうな顔をするがイザベルはそれ以上何も言わずに廊下の先へ視線を向ける。

その視線の先には、ここからは見えないが相談室がある。


「……ただ、思っていたよりも早いわ」

「早い?」

「受け入れられるまでの時間です」


そう答えてから、イザベルは自分の言葉を内側で反芻した。

受け入れられる。

その言い方は、正確だろうか?

生徒たちは、相談室という制度を受け入れているのか。

それとも。


「……いえ」


イザベルは小さく首を振る。


「もう一度、改めて確認した方がよいかもしれませんね」


隣の令嬢は、それを聞いて何も言わなかった。

イザベルがそう言う時は、大抵もう決めているからだ。




リュシアン・ド・ヴァルテールは、相談室の噂を直接聞いたわけではなかった。

少なくとも、リュシアンに対して誰かが面と向かってその話題を持ち出したわけではない。

しかし、廊下ですれ違う生徒たちの会話の端に、その名は何度か混じっていたし、学園は広くも狭い。噂はすぐに耳に入ってくる。

ルミエ・ヴァロワ。

相談室。

話を聞く場所。

それだけなら、特に気にするほどのことではない。害があるのなら別だが学園の制度として取り入れられ、一定の成果を残しているのだから。

それに、良くも悪くも変化に乏しい学園に新しい制度ができれば、しばらくは話題になるのは当然だった。

まして、学園の生徒でもない商家の娘が、家名を背負った生徒たちの相談役として入ったとなれば、多少の噂は避けられない。

そう理解できる。

理解できるのに、名前が耳に入るたび、リュシアンの思考は一瞬だけ別の場所へ向いた。

図書室。

窓際の席。

本に視線を落としていた黒髪の少女。


「リュシアン様?」


呼ばれて、意識を戻す。


「ああ、すまない。少し考え事をしていた」


そう言うと、相手はすぐに笑った。


「お忙しいのですね」

「そういうわけではないよ」


柔らかく返し、会話は続く。

続くが、先ほど一瞬浮かんだ光景は、完全には消えなかった。


(……相談室、か)


行く理由はない。

そう思う。

自分が相談室へ行く姿を誰かが見れば、余計な意味が生まれるだろう。

王子が何を悩んでいるのか、誰と話したのか、何を言われたのか。

王族として望ましい振る舞いではないし、その後に生まれる意味を考えると面倒だった。

だから行かない。行く必要もない。

そう判断するのは簡単だった。

それでも。

図書室なら、また行っても不自然ではない。

その考えが浮かんだことに、リュシアンは気づかないふりをした。



イリーナ・ローデンフェルトは、相談室そのものより、相談室を巡る反応に興味を持っていた。


「不思議ですね」


交流室の席で、同じ留学生の少女が言った。


「何がですか?」

「ルミエ・ヴァロワ様のことです。あの方の周りだけ、少し話題の流れが違うように思います」


イリーナはカップを置く。


「流れ、ですか」

「ええ。褒める方もいますが、熱っぽく語るというより……戻ってくる、と言いますか」


言い方を探している相手を見て、イリーナは小さく頷いた。

分からないわけではなかった。

ルミエとの茶席を思い出す。

自分は、相談をしたわけではない。

国のこと、魔石のこと、流通のこと。

その話をしただけだ。

けれど、会話は不思議と続いた。

正面から受け止められたわけではない。

教えられたわけでもない。

こちらの言葉が、少し違う角度から返ってきた。

返しやすいように、少し考えさせるように、受け取ってもいいのだと思わせるように。

作意の匂いがなかったそれが、まだ頭に残っている。


「相談室がどうこうというより」


イリーナは言う。


「彼女と話した者が、自分の話をもう一度考えたくなるのかもしれません」

「それは、良いことなのでしょうか」


問いに、イリーナはすぐには答えなかった。

良いこと。

悪いこと。

そう分けるには、まだ材料が足りない。

ただ。


「少なくとも、軽いものではなさそうです」


そう答えた。




その頃、相談室では。

ルミエが一人の生徒の話を聞いていた。

相手は、名も知らぬ少年だった。

何か大きな悩みがあるわけではないらしい。

講義のこと、友人との距離のこと、実家から届いた手紙のこと。

いくつか話しては、すぐに「いえ、大したことでは」と打ち消す。

ルミエはそのたびに頷いた。


「大したことではないと思っても、気になることはありますから」


少年は少しだけ黙る。

それから、もう一つ話す。

ルミエは聞く。

否定せず、急かさず、必要なところでほんの少しだけ言葉を返す。

それだけだった。

だが、少年は席を立つ時、来た時よりも少しだけ息をしやすそうな顔をしていた。


「ありがとうございました」

「ええ。また必要でしたら」


少年は一礼し、部屋を出ていく。

扉が閉まる。

相談室に静けさが戻る。

ルミエは机の上の本へ視線を落とし、先ほどまで読んでいた場所を探した。

少し前に開いていたページが、どこだったか分からなくなっている。


「……あれ」


小さく呟く。

それから、まあいいか、という顔で適当なところから読み直し始めた。

窓の外では、学園の午後がいつも通りに流れている。

その中で、相談室の名だけが、廊下へ、食堂へ、交流室へと、誰かの声に混じって少しずつ移っていった。

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