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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『噂は静かな部屋から』
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『誰かを待つ部屋』

ルミエが王立ヴァルテール学園に赴任してから、少し日が経った。

最初の頃、相談室の前で足を止める者はいても、実際に扉を叩く者は少なかった。

遠巻きに見る者。何かを言いたげに通り過ぎる者。友人と顔を見合わせて、結局そのまま去っていく者。

その反応も、今では少しずつ変わっている。

もちろん、相談室が大勢の生徒で賑わう場所になったわけではない。

むしろ、訪れる者は相変わらず少ない。

だが、扉の前で立ち止まる時間は短くなった。

迷った末に引き返す足音も、以前よりは減った。

そしてその足音の主たちは部屋へとやってくる。

話をして、少し経つと帰っていく。

それだけの場所として、相談室は学園の中に少しずつ馴染み始めていた。

ルミエはその日も、机に向かって本を開いていた。

図書室で借りた本だ。

難しすぎず、かといって子供向けでもない。王都の歴史や魔石流通の概説がまとめられたもので、読み物としても悪くなかった。


(こういう本、地元の図書室には少なかったのよね)


蔵書量は流石に地元の学校や実家とは比べ物にならない。まだまだ本も高価なのだから。

ページをめくる。

相談室の中は静かで、窓の外からは中庭を歩く生徒たちの声がかすかに届く。

遠くで誰かが笑い、また別の誰かがそれをたしなめるような声を出す。

ここにいると、学園の中にいながら、少しだけ外側にいるような気がした。


(まあ、私は生徒じゃないし)


そう考えて、ルミエは小さく息を吐く。

アニエスはいない。

相談室に、秘書といえど使用人が常に控えているのは望ましくない。

少なくとも、悩みを持つ学生が相談に来る場所としてはそうだろう。

だからアニエスは、基本的に職員寮の一室か、許可された待機場所にいる。

あるいは、ヴァロワの使いとして王都で何らかの調整をすることもあるようだが、フランソワの管轄であるからルミエには基本的に話は降りてこない。

必要があれば呼べる。だが、普段はここにはいない。

つまり、誰も来なければ、ルミエは一人だった。

一人でいる時間には、口が勝手に動くこともない。

微笑む必要もない。誰かに合わせて声色を変えることもない。

この世界の誰も見たことのない、ルミエの表情。

ただ、本を読み、時折窓の外を見て、誰かが来れば応じる。

そんな時間が続く。


(……王都、か)


ふと、そんなことを思ったのは本に出てきたとある魔石の名前がきっかけだった。

幽脈石。

父である当主フランソワでさえ、実物を扱ったことがないほど希少な魔石。

効果は―――周辺の他の魔石の効果を打ち消す。希少でありながら、用途はほとんど見つかっていない。


「……打ち消す、ね」


呟いた。

それを聞いて思い出すのは王都のはずれにある孤児院。

あの場所を、ルミエは忘れていない。

王都に来てからも、何度か思い出していた。

思い出したからといって、すぐに行こうとしたわけではない。

ただ、頭のどこかに残っていた。


(ノワさん、まだいるのかな)


おそらく、いる。

そう思う。

彼女は、普通に社会へ出るには難しい体質だった。

この本の幽脈石のように周囲の魔石を止めてしまう。魔石を前提に成り立つこの世界では、それはただ少し変わっている、では済まない。

どこかで働くにしても、暮らすにしても、周囲の設備や道具に影響が出る。

本人が悪いわけではない。けれど、悪くないから問題にならない、というものでもない。

だから、まだあの孤児院にいても不思議ではなかった。


(会いに行こうと思えば、行ける)


ルミエは本から視線を上げる。

窓の外では、何人かの生徒が中庭を横切っていた。

制服の裾が揺れ、陽の光が髪に反射する。


(でも、会いに行って、何を話すのかしら)


そこだけ、少し分からなかった。

誰かが目の前にいれば、言葉は出る。

相手が欲しい言葉も、反応も、表情も、いつも通り自然に出てくる。

だが、ノワを思い出す時だけは違う。

何を話すのか、少し考える。

あの子はどうしているのか。

まだ静かな場所が好きなのか。

前と同じように、薄い声で話すのか。

そんなことを考えている自分がいる。


(……変なの)


ルミエは本を閉じかけて、やめた。

別に今すぐ決める必要はない。

どこかの休日に行けばいい。アニエスに話して日程を調整すれば、孤児院に行く時間を作るくらいはできるだろう。

それだけのことだ。

そう思ったところで、扉が叩かれた。

軽く、二度。

ルミエは顔を上げる。


「どうぞ」


口から出ていく声は先ほどの呟きとは違う、いつもの声だ。

少し間を置いて扉が開き、入ってきたのは、名をよく知らない令嬢だった。

ルミエは、相手の名をすべて意識して覚えているわけではない。

覚えている者もいるし、そうでない者もいる。

ただ、必要になれば、口は自然に相手を間違えず呼ぶ。

確か、何度か顔は見たことがある。

最初は友人に付き添われて来た。次は一人で来たはず。今日は、少しだけ慣れた様子で扉を閉める。


「失礼いたします、ルミエ様」

「いらっしゃいませ。どうぞ、お掛けください」


ルミエが向かいの椅子を示すと、令嬢は小さく頷いて腰を下ろした。

年はルミエと同じか、少し上くらいだろう。

上級貴族というほどではないが、身なりはよく、話し方にもきちんとした教育の跡がある。

ただ、今日は少し眉間に力が入っていた。


「今日は、どうされましたか?」


ルミエがそう尋ねると、令嬢はすぐには答えず、膝の上で指を組んだ。


「……大したことではないのです」

「はい」

「本当に、大したことではないのですけれど」

「ええ」


ルミエは頷く。

急かさない。

否定もしない。

令嬢はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「隣席の方が、少し苦手で」


言ってから、すぐに顔を上げる。


「いえ、悪い方ではないのです。むしろ明るくて、誰とでもすぐに話せる方で、私にもよく声をかけてくださるのですけれど」

「はい」

「でも、毎日だと、少し……疲れてしまって」


声が小さくなる。


「そんなことで疲れるなんて、私が狭量なのだと思います。相手に悪気がないことも分かっていますし、むしろ親切なのに。それなのに、今日は声をかけられた瞬間、少し嫌だと思ってしまって」


堰を切ったように話すが、そこで言葉が止まり、令嬢は唇を引き結び、膝の上の手に力を込めた。


「そんな風に思うのは、よくないことです」


自分に言い聞かせるような声だった。

ルミエは少しだけ首を傾ける。


「嫌だと思ったこと自体は、悪いことではないと思いますよ」


令嬢が、目を瞬かせる。


「……そう、でしょうか」

「はい。誰かが悪いかどうかと、自分が疲れるかどうかは、同じではありませんから」


ルミエは穏やかに続ける。


「相手が親切でも、受け取る側が疲れることはあります。だからといって、相手を嫌っていると決めなくてもいいのではないでしょうか」


令嬢は黙った。

だが、その沈黙は先ほどとは違った。

言葉を飲み込むためではなく、受け取ったものを自分の中で確かめるための沈黙だった。


「……そう、なのですね」

「少なくとも、ここではそういうことにしておきましょう」


ルミエは少しだけ悪戯っぽく笑う。


「ここでまで、ご自分を責めなくてもいいと思います」


その一言に、令嬢の肩がわずかに落ちた。

張っていた糸が少し緩むような動きだった。


「……ルミエ様は、そう言ってくださるのですね」

「ええ」

「私、こういうことを言うと、きっとわがままだと思われると考えていました」

「そう思われたくなかったのですね」

「はい」


今度は、返事が早かった。

令嬢は自分でも驚いたように口を閉じ、それから少しだけ顔を伏せた。


「……はい。そうです。そう思われたくなかったのです」


言葉にしてしまえば、ずいぶん単純だった。

だが、その単純なことを、普段の彼女は口にできなかったのだろう。

ルミエはそれ以上、掘り下げなかった。


「お茶を淹れましょうか」

「え?」

「少し、落ち着くと思います」


令嬢は迷ったあと、小さく頷いた。


「……いただきます」


ルミエは立ち上がり、用意されていた茶器を取る。

冷性石の箱から小さなポットを出し、カップに茶を注いで差し出す。

令嬢は両手でカップを受け取り、少しずつ口をつけた。


「……おいしいです」

「よかったです」


特別な茶ではない。

学園で用意されている、ごく普通のものだ。

それでも令嬢は、まるでようやく息をつけたような顔をしていた。

しばらく、二人は何も話さなかった。

その沈黙は、気まずいものではなかった。

令嬢はカップを持ったまま、何度か小さく息を吐く。

やがて、少し照れたように笑った。


「何か、相談らしい相談ではありませんでしたね」

「そうでしょうか」


ルミエは首を傾ける。


「話したかったことを話しに来たのなら、十分だと思います」


令嬢はその言葉を聞いて、また黙った。

今度の沈黙は長くなかった。


「……また、来てもよろしいですか」


声は小さい。

だが、最初にこの部屋へ入ってきたときより、ずっとはっきりしていた。

ルミエは迷わず頷く。


「もちろんです。必要でしたら、いつでも」


その微笑みに令嬢はほっとしたように笑った。


「ありがとうございます」


立ち上がり、一礼する。

扉へ向かう足取りは、来たときよりも軽かった。

ただし、完全に晴れやかというわけではない。

それでいいのだろう。

令嬢はまだ何も解決していない。

隣席の相手が変わるわけでもない。明日もまた声をかけられるかもしれない。

だが、少なくともここでは、疲れたと言ってよかった。

少なくとも、そのことだけは彼女の中では確かだった。

扉が閉まる。

相談室に、また静けさが戻る。

ルミエはしばらく扉を見ていたが、やがて机の上の本へ視線を戻した。


(……ノワさん)


さっきまで考えていた名前が、もう一度浮かぶ。

あの子なら、こんな時に何と言うのだろう。

慰めるだろうか。

頷くだろうか。

それとも、何も言わずにこちらを見るだけだろうか。

少し考えて、ルミエは小さく笑った。


(分からないわね)


本を開く。

だが、しばらくの間、文字はあまり頭に入ってこなかった。


「……今の方、なんて名前だったかな」

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