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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『噂は静かな部屋から』
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『行き場のない時間 』

学園の中庭は、昼を過ぎたあたりから人の流れが少しだけ緩む。

講義と講義の合間、あるいは終わり際。誰もが次の予定に向けて動いているはずなのに、その途中で立ち止まり、短い会話を交わす余裕くらいは残されている時間帯だった。

エドガー・ルクレールは相変わらず輪の外周にいた。

無理に中心へ入ることもなく、かといって離れすぎることもない距離を保ちながら、いくつかの言葉を交わす。


「昨日の課題、どうでした?」

「問題はなかったよ。あの程度なら」

「さすがですね」


軽く言い添えると、相手もそれに合わせて笑った。

会話は滞らない。ぎこちなさもない。必要な受け答えはできている。

――それでも。


(……少し、違う)


そう思う。

何が、と問われれば答えは出ない。

ただ、同じ場所に立っているはずなのに、足場がわずかにずれているような感覚が残る。

話題は自然だ。成績、講義、家の話、将来の進路。

どれも、この学園では当たり前に交わされるものばかりだった。


(……なんでだろうな)


誰もそれを口にはしない。

けれど、会話の端々に、それぞれの“前提”が混じる。

家格。血筋。将来の立場。

それを口に出す者はいない。

『この学園にいる間は身分は等しい』

それが学則として標榜されていたが、実際は違うのだから。

エドガーはそれを理解している。

理解しているからこそ、外さないように振る舞っている。

――だが。


(……どこまで、いつまで、”これ”をすればいいんだ?)


不意に浮かんだ思考を、すぐに押し込める。

そんなことを考えても意味はない。

今は問題ない。会話も成立しているし、関係も保たれている。

それで十分だ。


「エドガー?」


呼ばれて、顔を上げる。


「次の講義、そろそろですよ」

「ああ、分かってる」


短く返す。

それ以上は続かない。

誰かが動けば、自然と輪も解けていく。

エドガーもその流れに乗って歩き出した。

特に何も問題はなかったはずなのに。

――ほんのわずかに、息が浅くなっている気がした。



講義を終え、次の予定まで少しだけ時間が空いた。

これも珍しいことではない。

むしろ、予定の隙間は計算されている。

だが、その時間の使い方までは決められていない。

歩きながら、進む先を考える。

図書室。

中庭。

あるいは、誰かのところへ行くか。


(……いや)


足は止まらないが、どれも決め手に欠ける。

何をするでもなく、ただ時間を埋めるだけの行動になるのは目に見えていた。

正体不明の焦燥感に似た何かを持て余していたそのとき。


(……相談室、か)


思い出す。

外から来た人物。話を聞く場所。

噂としては耳に入っていた。

だが、特に気にしたことはない。

自分に関係のある場所ではないと思っていたから。


(……別に)


理由はない。

相談することがあるわけでもない。

むしろ、そういう場所に行く理由のある人間ではないと、自分では思っている。

それでも。


(少し、見ておくくらいなら)


完全に無関係なままでいるよりは、知っておいてもいい。

そんな程度の動機で、行くこと自体に問題はないのだから。


(……あまり、見られたくはないな)


同時にそう思う自分がいることに、少しだけ苦笑する。

特別な理由はないが、それでも、わざわざ足を運ぶ姿を見られたいわけではなかった。

回廊を曲がり、少し人の流れから外れる。

目的の扉は、すぐに見つかった。

元々、あまり人の通らない回廊だ。人の気配はない。

周囲を一度だけ確認する。

――誰もいない。

そこで初めて、エドガーは扉の前に立った。

ほんの一瞬だけ、間が空く。

何を言うかも、どう振る舞うかも決めていないことに気づく。


(……まあ、いい)


考えるのをやめる。

右手を上げる。

――コン、コン。

軽くではなく、少しだけ強めの音が響いた。

考える前に動いた結果だった。


「どうぞ」


すぐに返ってきた声は、思っていたよりも静かで柔らかかった。

それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。

扉を開け室内に入ると、まず視界に入ったのは、机の向こうに座る少女だった。

黒髪。制服ではない装い。噂で聞いた通りの人物。


「いらっしゃいませ」


軽く微笑みながら、そう言われる。

過剰な歓迎でも、形式的な挨拶でもない。

ただ、そこに来た相手に向けられる言葉だった。

エドガーは一歩だけ中へ進む。


「……失礼する」


言いながら、自分でも少しだけ声音が硬いことに気づく。

少女――ルミエは、そのまま向かいの椅子へ視線を向け、手で軽く示した。


「どうぞ。座ってください」


命令ではない促しに迷う必要はなく、エドガーはそのまま椅子に腰を下ろす。

机を挟んだ距離。

近すぎず、遠すぎない。

妙に落ち着く位置だった。


「……」


言葉が出ない。

来るときは勢いだったが、いざ向かい合うと、何を話すべきか分からなくなる。

その沈黙を、ルミエは埋めようとはしなかった。

急かさない。

視線を外すこともない。

ただ、紫色の瞳をまっすぐに向けてそこにいる。


(……話せってことか?)


そういう圧はない。

だが、話してもいいと言われているような感覚だけはある。


「……特に、用があったわけじゃない」


結局、先に口を開いたのは、エドガーの方だった。

言ってから、少しだけ後悔する。

あまりにぶっきらぼうだ。言い方としては、あまり良くないと自分でも思ったが、ルミエは短く頷くだけだった。



「ええ」


否定も補足もせず、ただ、そのまま受け取る。


「そういう時もありますよね」


柔らかい微笑みと共に続いた言葉も、軽かった。

正しさを押しつけるでもなく、意味を探るでもない。

ただ、そこに来た理由を、そのまま肯定するような響きだった。

エドガーは一瞬だけ、言葉に詰まる。


(……なんだ、それ)


もっと何か返されると思っていた。

質問されるか、理由を求められるか。

そういう流れを想定していたのに、それが来ない。


「……」

「……」


沈黙が続く。

だが、先ほどまでの沈黙とは違う。

言葉を探している、というより。


(……別に、話しても、話さなくてもいいのか)


そう思えてしまう沈黙だった。

ルミエは何も言わず、視線を向けて待っている。


(……)


エドガーは、少しだけ息を吐いた。


「……ここ、静かだな」


出てきたのは、そんな言葉だった。学生同士でしている距離感や空気を図らない素の一言。

相談でも、質問でもない。

ただの感想だ。


「そうですね」


それでも、ルミエはすぐに応じる。


「落ち着いて話すには、ちょうどいいと思います」


その返しは、自然だった。

持ち上げるでもなく、否定するでもなく。

同じ視点に立っているような言い方。


(……話しやすい)


ふと、そう思う。

理由は分からない。

何か特別なことを言われたわけでもない。

それでも。


(……悪くない)


そう感じている自分に気づく。

エドガーは椅子に少しだけ体重を預けた。

完全に力を抜くほどではない。

だが、最初よりは確実に肩の力が落ちている。

ルミエはそれを見ていたが、特に何も言わなかった。

ただ、ほんのわずかに表情を緩める。


「せっかく来ていただきましたし、お茶でもいかがですか?」

「……いただこう」


ルミエは冷性石が取り付けられた箱からポットを取り出し、カップに注いで差し出した。

軽く会釈をしてそれを口に含む。談話室に用意されているのと同じ茶葉だ。慣れた、どうということもない味。

いつもと同じ味のはずなのに、妙に口当たりが柔らかい気がした。

ルミエも『失礼します』と言って自分もお茶を注ぎ飲む。

まだ名前も知らない相談室の主と共にカップを傾け、喉を潤すだけの時間。

エドガーの両親が見れば『無駄な時間を』と言ってくるだろう。しかし、今この場には二人だけ。


「……無理に何か話さなくても大丈夫ですよ。こうして座っているだけでも、時間は使えますから」


そっと挟まれたその言葉に頷いてただ、黙って過ごす。

……カップの中身をほとんど飲み終えた頃。


「……また、来てもいいのか」


気づけば、そんな言葉が口から出ていた。

理由はない。

必要もない。

それでも、聞いていた。

ルミエは微笑んですぐに迷いなく頷いた。


「もちろんです。いつでも、お待ちしていますから」


その言葉は、重くない。

約束のようでいて、縛りにはならない。

ただ、来てもいいと言っているだけ。

それなのに。


(……来るかもしれないな)


そう思っている自分がいる。

エドガーは小さく息を吐いた。


「……分かった」


それだけ言って、椅子から立ち上がる。

長居する理由はない。

それでも、来たときとは少しだけ違う感覚が残っていた。


「失礼する」

「はい。また」


短い応答に少しだけ立ち止まって振り返った。


「エドガー・ルクレールだ。……その、名乗って、いなかったから」

「はい。私はルミエ・ヴァロワです。それでは、エドガーさん」


名を呼ばれて軽く頷く。それだけで十分だった。

扉を開け、廊下に出ると静かな空気が背後に残っているようだった。

歩き出しながら、エドガーは一度だけ考える。


(……なんだったんだ、今の)


答えは出ない。


(まあ、いいか)


そう思っている時点で、すでに何かが変わっていることに、まだ気づいていなかった。

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