『灰色の歩み』
王城の一室で、リュシアン・ド・ヴァルテールは目を覚ました。
厚手のカーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝台の上に静かに落ちている。
目を開けたまま、しばらく動かない。
どこにいるのかを確かめる必要はなく、視界に入る天蓋や壁の装飾の質で、ここが王城の自室であることはすぐに分かる。
(そうか……戻っていたか)
昨夜は学園の寮ではなく、王城に戻っていた。
特別な理由があったわけではない。日程の都合でそうなった、それだけのことだ。
上体を起こし、足を床へ下ろす。
寝台の感触も、室内の空気の重さも、学園の寮とは違うはずだが、意識に残るほどの差ではない。
(どちらでも同じだな)
王城でも、学園でも。
与えられた部屋で目を覚まし、与えられた役割の中で一日を過ごすという点において、大きな違いはない。
そう思うことに、特に違和感はなかった。
衣服を整えながら、学園での生活を思い返す。
王立ヴァルテール学園は原則として全寮制であり、生徒は男女で棟を分けられ、それぞれの区画の往来には明確な制限が設けられている。
交流が必要な場合は中央棟の広い交流室を使うことが定められており、そこであれば身分や性別に関係なく会話を交わすことができる。
一方で職員寮への出入りは、常識的な時間帯であれば許可されており、勉学や相談といった名目での訪問も珍しくはない。
閉じるべきところは閉じ、必要な導線だけを残す。
人間関係を育てながら、逸脱を防ぐための構造としては、よく出来ている。
(無駄がない)
そう評価する。
そこに感心はあっても、特別な感情は伴わない。
自分もまた、その仕組みの中に組み込まれているだけだと理解しているからだ。
鏡の前に立つ。
切りそろえられた金の髪が光を受けて淡く輝き、その下で碧の瞳が静かにこちらを見返している。
王族として不足のない姿だと、誰もが判断するだろう。
実際、そのように整えられてきたし、それに応じるだけの振る舞いも身につけている。
(問題はない)
それ以上の評価は必要ない。
満足でも不満でもなく、ただそうであるという事実だけがある。
朝食の席には、すでに第一王子である兄が着いていた。
穏やかな笑みを浮かべ、リュシアンの姿を認めると自然に声をかけてくる。
「おはよう、リュシアン」
「おはようございます、兄上」
席に着き、運ばれてきた食事に手をつける。
会話は多くないが、途切れても不自然ではない程度には続く。
「学園の方はどうだ」
兄が問う。
「問題はございません。皆、よく学んでおります」
簡潔に答えると、兄は満足そうに頷いた。
「そうか。それなら何よりだ。お前も励めよ」
「はい」
それで終わる。
それ以上の言葉は必要とされないし、こちらから足す理由もない。
互いに役割を理解しているからこそ成立する距離だった。
(これでいい)
兄は次期王として相応しい。
自分はそれを支える立場にある。
それ以上でも、それ以下でもない。
王城を出る馬車の中で、リュシアンは視線を窓の外へ向ける。
流れていく街並みは見慣れており、そこに特別な変化はない。
(今日も同じだな)
そう思う。
そして、それ以上は考えない。
考える必要はない。
考えたところで変わるものでもないから。
学園に着けば、また同じ一日が始まる。
門をくぐれば自然と視線が集まり、誰かが声をかけ、気づけば数人が後ろに並ぶ。
それを拒む理由はない。
拒めば余計な軋みを生むだけだと分かっているから、これまで通り受け入れる。
(問題はない)
何度も繰り返したその一言で、すべては片付く。
歩きながら、ふと、何も考えずに進み続ける自分の姿を意識する。
同じ歩幅で、同じ速度で、同じような道を進んでいる感覚。
起伏はない。
急ぐ理由も、立ち止まる理由もない。
(……)
一瞬だけ、その感覚に名前を与えかけて、やめた。
(考えるな)
それ以上は不要だ。
そう判断し、思考を切る。
日常は変わらない。
そして、それで問題はない。
そのはずだった。
学園の回廊に足を踏み入れた瞬間、会話が一拍だけ途切れ、視線がこちらに向いた。
「リュシアン様、おはようございます」
「王子殿下、本日の講義について少し——」
穏やかに頷き、相手の言葉を受け取り、丁寧に返す。
声音は一定で、表情も崩さない。誰に対しても同じ温度で応じることで、余計な言葉は差し込まれず、会話はそこで一度区切られる。
「後で聞かせてもらうよ。今は移動の途中だ」
柔らかくそう応じれば、相手はそれ以上踏み込まない。
拒絶ではないが、線は明確で、それだけで十分に伝わる。
人が増える。
一人が声をかければ、別の者が続き、気づけば数歩後ろに控える者がいる。友誼と呼ぶには純粋ではなく、かといって露骨な取引とも言い切れない、微妙な距離の集まりだった。
(分かりやすいな)
表に出る言葉は穏やかで、温かだ。だが、その奥にあるものは隠しきれていない。
家の名、将来、利の見込み——そうした粘着質なものが、会話の端々に滲む。
(……重い)
嫌悪ではない。彼らの立場からすれば当然だろうから。
ただ、常に同じ温度で触れられる感触に、わずかな疲労のようなものが残る。
ふと、頭の中に別の光景が浮かぶ。
図書室。窓際。光の中で本を読んでいた少女。
(……あれは)
比べるものではないと分かっている。
それでも、あの場には今ここにあるような重さがなかったと、はっきりと思い出せる。
言葉をそう多く交わしたわけでもない。
ただ視界に入っただけのはずなのに、その差だけは妙に鮮明だった。
(……気のせいか)
そう片付けようとして、やめる。
完全には消えないまま。
中庭での短い会話を終え、講義をいくつかこなしたあと、リュシアンはようやく一人になる時間を得た。
意図して離れたわけではない。流れの中で、自然と人の輪から外れただけだ。取り巻き立ちも四六時中リュシアンの傍にいるわけにはいかない。
歩きながら、進む先を決めていないことに気づく。
予定はない。呼び出しもない。時間だけが空いている。
王子の立場からすればきっと、この時間は貴重なのだろう。
(……相談室、か)
頭に浮かぶ。
外から来た者。話を聞く場所。噂の中心にある存在。
そこに行く理由はない。
そもそも、自分が訪ねる場所ではないという感覚がある。
王子が相談に行く。
その行為そのものに、説明の難しい違和感があった。
(違うな)
そう判断する。
理由を深く掘る必要もない。
足は、そのまま別の方向へ向いた。
図書室の扉を押し開ける。
静性石をふんだんに使ったその空間は外の喧騒とは切り離されており、静けさがに広がっている。
数人が本を開いているが、会話はほとんどなく心地よい静寂が満ちていた。
(落ち着くな)
思わずそう感じる。
理由を考えるまでもなく、ここには余計なものが少ないから。
視線を巡らせる。
読みたい本があるわけではない。何かを探しているわけでもない。
それでも、自然と奥へと足が進む。
そして。
窓際の席に、その姿があった。
差し込む光の中で、少女が本に視線を落としている。
気が付けばその姿に近づいていて、やはり、数歩手前でページをめくる指先が止まった。
そして少女が顔を上げる。
視線が合った。
「……またお会いしましたね」
軽く、柔らかく、昨日のことを覚えていると分かるが、それ以上の意味は乗せていない。
「ええ」
リュシアンは短く返す。
それだけで十分だと感じた。
「本校の図書室は気に入っていただけましたか?」
問いは自然に出た。
用意していたわけではないが、無理な内容でもない。
少女はこれも以前と同じように本に指を挟んだまま、小さく首を振る。
「昨日が初めてでしたのでまだなんとも。でも、静かでいい場所ですね」
軽い調子で言い、静かに微笑んでみせる。
迎合するでもなく、媚びるでもなく、へりくだるでもなく、ただ、純粋に。
(……やはり)
そんな笑顔を見たのはいつ以来か。あるいは、見たことなどなかったか。
同時に、会話に含みを持たせようとしない、その距離の取り方が、かえって印象に残る。
「そうですね。ここは使いやすい」
そう返しながら、自分がまだその場に立っていることに気づく。
用件はない。だが、離れる理由も見当たらない。
視線は合うが、少し首を傾げる少女。『まだなにか?』と問うているようなその仕草に、内心で苦笑した。
名乗っていないにしても、媚びを売り取り入ろうとすらしないのだから。
(……珍しいな)
無理に繋げない。引き止めない。
リュシアンはわずかに間を置き、言葉を探す。
だが結局、何も足さなかった。
「……では。失礼しました」
それだけ告げる。
「いえ、失礼だなんて。こちらこそ、またいずれ」
そんな飾り気のない返答をしてから少女は再び本に視線を落とした。
そのまま踵を返し、数歩進む。
図書室の静けさが背中に残る。
(……なんだろうな、今のは)
言葉にしようとして、やめる。
必要はない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
いつも通りに過ごしたはずの一日の中で、
やはり、ほんのわずかに、何かが噛み合わない感覚が残るのだった。




