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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『噂は静かな部屋から』
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『寄り道』

職員寮の一室。

ルミエのために用意されていたものではあったが、まだ人が日常的に出入りしている気配は薄く、家具も揃っているのに、長く使われた部屋にあるような癖や気配がほとんど残っていなかった。

机と椅子、簡素な寝台に最低限の棚が据えられ、必要なものは揃っているが、長く使われてきた部屋にあるような生活の癖までは感じ取れない。

ルミエは荷物を机の端に置き、窓の外を一度だけ確かめるように眺めてから、軽く肩を回した。


「……少し疲れたかも」


誰に向けたわけでもないが、同じ部屋の中にはアニエスがいる。


「初日ですから」


いつもと変わらない調子で返される。気遣うような抑揚はなく、ただ状況としてそうだと述べているだけの声音だった。

ルミエはその返しを受けて、小さく息を抜くように笑う。


「まだ何もしてないのにね。思ったより気を張っていたのかも。アニエスもお疲れ様」


椅子に腰を下ろしながら、机の上に指先を軽く置き、そのまま何気なく視線を落とす。

少しの間を挟んでから、思い出したように顔を上げた。


「そういえば、図書室って使えるかしら?」


アニエスは間を置かずに答える。


「使用は可能です。生徒が優先ではありますが、職員扱いとして閲覧および貸出に問題はございません。事前に確認済みです」


報告は簡潔で、抜けがない。主が望むことを先回りするのが良い秘書だから。


「場所は本館二階の東側、利用時間は日中であれば制限はございません」

「さすがね」

「必要になると判断いたしましたので」


アニエスはそれだけ言って視線をわずかに下げた。これ以上の説明は不要だから。


「ありがとう」


ルミエは頷き、椅子から立ち上がる。


「じゃあ、行ってみようかしら」

「ご案内をいたします」

「アニエスは休んでいて。見取り図はあるでしょう? それなら一人で行けるだろうから。それに、せっかくだし少し歩いてみたいし」


軽く言うその調子に、アニエスは一瞬だけ言葉を選びかけたが、結局は頷くに留めた。


「校内のことも、少しは見ておいた方がいいでしょう?」

「……承知いたしました」


止める理由はない。止めるべきでもないと判断している。


「では、お戻りの時間に合わせてこちらで待機しております」

「ええ、お願い」


軽く手を振るようにして、ルミエは部屋を後にした。




回廊は時間帯の影響か、昼間よりも人の流れが緩やかで、行き交う足取りにも急ぎは見られない。

授業の合間か終わり際か、いずれにしても移動のためだけの時間帯らしかった。

ルミエは足を止めることなく、先ほど見た位置を思い出しながら進む。


(本館の二階、東側……)


すれ違う生徒の数は少なくはないが、誰も足を止めない。視線だけが一瞬向けられ、すぐに外される。声をかけられることもない。

興味はある。だが距離は保たれている。

その反応を特別に気にする様子もなく、ルミエはそのまま歩く。


(距離の取り方が違うのね)


地元の学校で先生のようなことをしていた時は『ルミエ先生!』と声をかけられていたことの方が多かった。

囲まれることも珍しくはなかったが、それを思い出しても今の状況を不思議に感じるほどではない。

年齢も含めてただ違うだけだと、そう受け取っていた。




リュシアン・ド・ヴァルテールは、同じ回廊を歩いていた。

歩いていること自体は特別ではない。だが、今日は周囲に誰もいなかった。

普段であれば、数歩も進めば声をかけられ、自然と人が増える。

拒む理由はない。何よりも拒めば余計な軋みを生むため、受け入れてきた。

今日はそれがなかっただけ。


(静かだな)


理由を考えるほどのことでもない。時間帯か、偶然か、その程度の違いに過ぎない。

歩みは変わらず、視線も前を向いたまま。考えるべきことも特にない。

日々は滞りなく進んでいる。必要なことは果たしているし、問題も起きていない。


(……問題は、ない)


それ以上の評価は必要ない。満足でも不満でもなく、ただそういう状態が続いているだけだと理解している。

ふと、同じ調子のまま続いていく時間の感覚が単調に……無味乾燥なものに思えた。

それはまるで灰色の道のようで。


(……考えるな)


そう首を振ったとき、視界の先に一人の少女が入る。

背筋は伸ばされ、どこか散歩するような楽し気な歩み。黒い髪が揺れて光を微かに反射していた。

制服ではなく、この学園の生徒たちとはわずかに異なる雰囲気。


(……ああ)


噂に聞いていた人物だと、すぐに思い至る。

相談室。外部から来た者。商家の娘。

名前は思い出せないが、それで十分だった。

リュシアンは歩みを変えない。そのまま距離が縮まる。

すれ違う直前、視線がわずかに合う。


「……」


ルミエは自然な動作で軽く会釈をした。相手を見極める様子はない。ただ視界に入ったから礼をした、それだけの仕草だった。

リュシアンは一瞬だけ間を置き、同じように頷き返す。

それで終わるはずだった。


(……軽いな。いや、違う――軽やかだ)


そんな印象だけが残る。

無礼ではない。丁寧ではある。だが、力が入っていない。

この学園に来る者であれば、多少なりとも態度に意識が乗るはずだと考えていたが、そうした気配が見当たらない。


(妙だ)


理由を言葉にするほどではないが、引っかかりだけが残る。

すれ違い、足は止めない。振り返ることもない。

それでも、


(話しかけてもよかったか)


と、ふと思う。

理由はない。ただその発想が浮かんだこと自体が、わずかに気にかかる。


(……些細なことだ)


思考を切り替え、いつも通りの歩調で回廊の先へ進む。

日常は変わらないはずだと、そう思っていた。



ルミエはそのまま歩き続ける。


(今の人、たぶん立場のある人よね)


なんとなくそう思うが、それ以上を考えることはない。この学園にいる者のほどんどが、立場のある家柄の子息たちだと分かっているからだ。

改めて図書室の場所を思い出しながら、階段へ向かう。


(読みやすい本、あるといいな)


それだけを考えながら、足を進めていた。




リュシアンが図書室へ向かう足取りは、普段よりわずかに緩やかだった。

所用を済ませたあとで急ぐ理由はなく、誰かに呼び止められる気配もないまま歩けていることが、どこか新鮮に感じられる。


(……悪くないな)


静けさを求めていたのかは分からない。

……そう思おうとしているだけで、実際には、誰にも声をかけられずに歩ける時間がこれほど気楽だとは、これまで考えたこともなかった。


図書室の扉を開けると、外とは違う空気が流れているのがすぐに分かる。

高い天井の下に並ぶ書架には本が詰め込まれており、その量と配置は見慣れているはずなのに、改めて目にするとわずかな満足感が残る。


(蔵書量だけなら、どこにも負けないだろう)


王族としてこの学園に通う以上、そうした認識は自然にある。

試験前でもなければ、この場所を訪れる者は多くない。机はいくつか空いており、奥に数人が座っているだけで、会話はほとんど聞こえない。

ページをめくる音や椅子のわずかな軋みが、静かな時間を区切るように響いている。

その中で、一つだけ視線を引く場所があった。

窓際の席。差し込む光の中で、一人の少女が本を開いている。


(……さきほどの)


回廊ですれ違った、制服を着ていない少女だとすぐに分かる。

姿勢は無理に作ったようには見えないのに崩れてもおらず、どこか気を抜いているようでいて隙がない、その曖昧な在り方がかえって目についた。

背筋は自然に伸び余計な力が入っていない。

周囲を気にしている様子はないが、完全に閉じているわけでもなく、誰かが近づけばすぐに気づける程度の余裕は残しているように見えた。

ページをめくる指先は一定の速さを保っており、読み進める動きにも無理がない。ときおり髪が肩に落ちると、指で払って耳にかけるが、その仕草にも意識的な演出は感じられなかった。


(……妙だな、ここまで目に残る理由が分からない)


ただ座って本を読んでいるだけのはずなのに、絵になっており、周囲の生徒たちとは少し違う印象が残る。

緊張している様子はない。かといって気を抜いているようにも見えない。

誰かに見られていることを前提とした振る舞いでもなく、だからといって無防備でもない。

言葉にしようとすると曖昧になるが、引っかかりだけが残る。

リュシアンはその場に立ったまま、ほんの数秒だけ視線を向けたあと逸らそうとした。

そのとき、ふと一つの考えが浮かぶ。


(……話しかけてみるか?)


理由はない。用事があるわけでもない。

さきほど感じた違和感と、今の印象がうまく重ならないまま残っており、それを放置して通り過ぎることが、なぜか少しだけ引っかかった。

普段であれば、その程度の理由で動くことはない。

王子として分別は身についている。必要のない行動は避けるべきだと教えられてきたし、それを守ってきた。

それでも今日は違った。

周囲に誰もいないという状況が続いているせいか、判断の基準がわずかに緩んでいる。


(……まあ、いいだろう)


自分の中で小さく線を引くようにして、歩みを変え少女のいる席へと向かう。足音は抑えていないが、この空間では自然と響きが柔らかくなる。

数歩手前で、少女の指先が止まった。

顔を上げ視線が合う。

回廊でのときと同じで、驚いた様子はない。ただ人が来たから確認した、という程度の反応だった。


「……先ほどは」


先に言葉をかけてしまったのは、自分でも少し意外だった。何を言うか決めていたわけではない。

少女は本を閉じず、指を挟んだまま軽く首を傾ける。


「ええ。回廊で、すれ違いましたね」


声量が少し抑えられた声音は穏やかで、過剰な敬意もなければ無遠慮さもない。ただ事実を確認するような言い方だった。


(……やはり軽やかだ)


軽薄ではない。ただ、余計な重さが乗っていない。


「ええ」


短く返しながら、リュシアンは一歩分だけ距離を詰めた。


「図書室で、あまり見かけない顔ですね」


問いは無難なものだが、それで十分だと思った。踏み込みすぎる理由はない。

少女はわずかに考える間を置いてから答える。


「ええ、今日が初めてです。落ち着いていて、読みやすい場所ですね」

「そうでしょう」


リュシアンは軽く頷く。

何の裏も意図もない、ただの会話。それをしたのはいつ以来だったかと考えるが、もう忘れてしまっていた。


「……ここは蔵書も多い。時間を過ごすには悪くありません」


自然な会話の流れを保ちながら、視線は無意識に少女の手元へ向かう。本の扱いも自然で丁寧だ。


(……慣れているのか)


あるいは、どこでも同じように振る舞えるのか。

その違いが、まだ判断できない。

少女はわずかに微笑んだ。


「そうですね。しばらくは、ここに通うことになりそうです」


軽い言い方だが、迷いは見えない。


(……そういう立場か)


相談室。外部から来た者。噂がようやく形になる。

しかし、確認する気にはなれなかった。その必要もない。


「それは、良い選択かもしれません」


そう返しながら、自分がまだその場に立っていることに気づく。

用件はない。それでも、すぐに立ち去る気にはならなかった。


(……何をしているんだ)


内心でそう思いながらも、離れるきっかけが掴めない。

少女は視線を本に戻し、ページを開く。その動作は先ほどと変わらず自然で、会話を引きずる様子もない。

ここまで、と判断しているのだろう。

その線引きがはっきりしている。

リュシアンは一瞬だけ言葉を探し、結局何も足さなかった。


「……では」


それだけ言って、踵を返す。


「ええ、また」


短い返答が背中に届く。

振り返らず、そのまま歩き出す。

数歩進んだところで、先ほどとは違う種類の感覚が胸の奥に残っていることに気づく。


(……なんだったのだろうな、今のは)


言葉にしようとして、やめる。

必要はない。

いつもと同じように振る舞ったはずなのに、どこか一箇所だけ、わずかに噛み合っていない感覚が残っていた。

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