『幕間、まだいない場所』
王立ヴァルテール学園。
石造りの回廊は、昼の光を柔らかく反射していた。
高い天井。整えられた床。行き交う制服。規律正しいようで、どこか開放感がある、そんな学校独特の雰囲気が漂っていた。
同時に、解放的ではあるが立場のある者としての矜持か、乱れはない。
そして、どこかで足並みが合いきらないような、わずかな不和があった。
誰かが半歩引き、別の誰かがそれを詰める。
学生らしい、あるいは学生らしくないともいえる、言葉にはならない調整、あるいは牽制が、あちこちで繰り返されている。
「……相談室、だそうよ」
廊下の端で、二人の令嬢が声を落とす。
品がなくならない程度に顔を寄せそっと密談を交わす。
「ああ、新しい制度の」
「そう、それ。外から人を招いたとか」
ほんの一瞬だけ、言葉が止まる。
「どんな方なの?」
「それって……」
それ以上は続かなかった。
話題が途切れたのではなく、あまり親しくない家の者が人が通りかかったから辞めただけ。
そして、当たり障りのない別の話へ移る。
庶民の学校ほど直接的ではないが、どこか露骨。
それ以上は言葉にされないまま、同じようなやり取りがあちこちで繰り返されていた。
教室。
講義は滞りなく進んでいる。
教師の声は明瞭で、板書も綺麗で、誰もが前を向いている。
ただ、視線の端で、別のものを測っている。
隣の席、その向こう、さらに奥と、視線は自然に滑っていく。
どこまで踏み込んでよいか。
どこまでが許される距離か。
誰かか居眠りをしていたりと粗はないか。
より優位に立つために、詳しく判断するために。
それぞれが無言のうちに少しずつ周囲を探っている。
イザベル・ド・ヴェルディエは、いつも通りに座っていた。
背筋は伸び、視線は正面。他の生徒のように誰かを探るようなことは一切しない。
筆記は正確で、集中力は途切れない。
顔も真剣そのもので、彼女の周囲だけは余計なことに気を取られず授業に集中しているように”見えた”。彼女に合わせるように。
それでもほんのわずかに、揃わない。
誰かが、気を抜き、誰かが視線を外し、誰かが欠伸をかみ殺す。
そんな緩みがイザベルの視界の端で目につく。
生来の性分から、見えてしまう。
何より、人の上に立ち、規範を示し、導くことがヴェルディエ家の在り方なのだから。
「……」
だが、イザベルは何も言わない。
教師がなにも言わない以上、授業中に指摘するほどのものではない。
それでも、見過ごすには少しだけ目に余る。
授業の終わり。
椅子を引く音が重なる。
イザベルは何か言いかけて、やめた。
「イザベル様、昼食はいかがなさいますか?」
「食堂で済ませます」
「ではご一緒しても?」
優雅ではあるし親密さを感じさせる微笑みに、微かに混じる媚びの色。
しかし、これも咎めるものではない。
喉から出かかった声を飲み込み、頷いた。
「ええ、是非」
中庭。
数人の生徒が距離を取りながら会話をしている。
笑い声はあるが、どこか空々しい。
エドガー・ルクレールは、その輪の外にいた。
ベンチに腰を掛けてその様子を見るでもなく眺めている。
加わることはできる。
声をかければ、受け入れられるだろう。
そういう位置にはいる。
だが、足が動かないし、何よりやる気が起きない。
父は『将来のための繋がりを作るのだ』と言う。
母は『社交界のためにも顔を売るのですよ』と言う。
しかし、どちらも興味がない。
何より。
(……別に)
必要はない。
そう思う。
輪の中にいる者たちは、自然に笑っている。
だが、やはり、その自然さは、どこか作られているようにも見える。
以前からそうだったのかもしれない。
あるいは、最近そう見えるようになったのか。
区別はつかない。
「エドガー」
呼ばれて、顔を上げる。
「そろそろ次の講義、行くかい?」
「……ああ」
短く答えて、歩き出す。
その歩みは少しだけ疲れているように見えた。
回廊の奥。
イリーナ・ローデンフェルトは、窓辺に立っていた。
外の庭園の芝生は整えられ、手入れの行き届いた植栽は威信と伝統を示すかのようだ。
日差しは柔らかに降り注ぎ、人々が輪になって何かを語らっている。
どれも美しい。
だが、その美しさは、どこか作り物めいていた。
「……」
足音が近づく。
振り返らない。
「ここにいらしたのですね」
同じくイリーナともまた違う、他国から来た生徒だった。
形式的な挨拶。
崩れない距離感。
何かを探る瞳。
「ええ」
「何を見てらっしゃったのですか?」
少しだけ間があってから、イリーナは薄く笑って見せる。
「いえ、我が国とは違うなと」
共通で差し支えのない話題。どちらとも、なんとでも取れる”違う”という言葉に、その生徒も曖昧にほほ笑んだ。
「ええ、そうですね」
それだけで終わった。
別にお互いがお互いに興味があるわけでないのだ。排斥されているわけでもないが、”よそ者”同士は固まっていないと、いざという時の備えにならない。
「そろそろ休み時間が終わりますね」
「ええ。では戻りましょうか」
歩き出しながら、イリーナは小さく息を吐いた。
この学園は、綺麗だ。歴史もある。生徒たちも表立って暴力や暴言を振るうことはない。
それは間違いない。
だが、表面こそ崩れていないが、その下で何かが擦れているようにも見えた。
誰かが。あるいは、全員で。
何かを牽制し合っている。
「相談室、でしたか……」
席に戻ってからふと、先ほど廊下で耳にした言葉を思い出す。
外から来る人物。
話を聞くための場所。
(どういう意図かしら)
興味はある。
だが、それだけだった。
回廊を歩く一団。
自然と人が道を空ける。
リュシアン・ド・ヴァルテールは、その中心にいた。
歩みは堂々としていたが同時に穏やかだった。
そして、取り巻きとも言える周囲の生徒たちから声をかけられれば、リュシアンは必ず返した。
「リュシアン様」
「どうかしたかい?」
軽い会話に返されるのは爽やかなで優しい微笑み。
それだけで場は穏やかになる。
しかし、リュシアンの傍は一歩半、隙間が空いており、その内側には誰も入らない。
入ろうとはしないのか。
入れないのか。
友誼を結んでいただいたと公言していた生徒たちも二歩後ろに下がっている。
それは、第二王子に対して、ある種当然の距離感。
「例の相談室の件、ご存知ですか?」
誰かが問うと丁寧に頷く。
「ああ、耳にはしているよ。商家のご令嬢が来るとか」
「そうらしいですね」
「しかし、商家の令嬢が相談室に、ですか。確かに、この学び舎にはギルドを含め商家の子息もいますが」
周囲からの言葉。
『相応しくない』。もっと具体的に言うならば『商家の令嬢に何を相談するのか』とでも言いたげなその言葉にリュシアンは変わらない穏やかな笑みを向ける。
「そうは言っても、この学園は別に貴族だけが入る場所ではないだろう? 現に今も商家出身の生徒や、文官の子息もいる」
その模範解答としての答えからは興味の有無は、読み取れない。
会話は続く。
だが、そこに深さはない。
表面だけが滑るように進む。
一団が去った後、回廊には元の空気が戻る。
ほんの少しだけ、誰かがホッと息を吐いた。
職員室。
教師たちが常駐する場所は、やや書類が多かったが、広さと人の多さの割には整然としていた。
机の上に物は置かれているが雑ではない。
「配置する場所は例の空き教室でよろしいでしょうか」
「ええ。ちょうどいいでしょう。ただし、特別扱いにはしないように」
淡々としたやり取り。良い意味でも悪い意味でも特別には扱いにくかった。
さる二大貴族からの推薦。これは無視できないし尊重しなければならない。
しかし、生徒と同年代であり、ヴァロワ家であればこの学園に通っていてもおかしくはない立場だ。
教師でもない、生徒でもない、そして、部外者でもなくなる。
何とも扱いづらい立ち位置だった。
「相談室、という形にしておけば問題は出にくいでしょう」
「そうですね」
「……クラリス家とリシャール家、双方から肝いりの施策だ。問題は許されません」
言葉は小声で静かだが、間は短い。
既に決まっていることを確認しているだけ。
「……生徒側への通達は?」
「本日中に。噂は先に回っているようですが」
一瞬だけ、視線が交わる。どこから漏れたものやらと周囲を見回すが、どの教師にも恩を売っておきたい”お気に入り”がいるものだ。
一瞬だけ視線が巡り、それ以上は触れられなかった。
「……まあ、構いません。明日、朝会の後で各担当教員から通達するように。掲示板にも同じく貼り出しを」
「はい。ではそのように」
故に、それ以上は触れない。
紙が重なる音だけが残った。
その日の終わり。
廊下は静まり返っている。
窓の外、夕暮れの光が長く差し込む。
「……」
イザベルは一人、足を止めていた。
今日校内で聞いた言葉。
『相談室』。
外から来る人物。
必要かどうかは、分からない。
効果があるかどうかも、判断できない。
それでも。
「……一度、見ておくべきね」
小さく、そう呟いた。
誰に聞かせるでもなく。
そして、歩き出す。
足音は、いつも通りに整っていた。
ただ、その向きが、少しだけ変わっていた。




