『残されたもの』
ルミエがベルニエの街を発つ日。
それは、特別な出来事ではなかった。
見送りの式もなければ、
大仰な別れもない。
ただ、予定された日が来ただけだった。
客館の廊下。
いつも通りに整頓された空間。
掃除も行き届き、配置も乱れていない。
それでも、どこか静かだった。
「……本日で、ですか」
若い使用人が小さく呟く。
「ええ。昼には発たれるそうよ」
別の使用人が答える。
声は抑えられている。
仕事の邪魔にならないように。
だが、そのやり取りは止まらない。
「特別なことは、何もされなかったのにね」
「ええ」
誰かが笑う。
「でも……働きやすかったわ」
「……そうね」
命じられたわけでもない。
評価されたわけでもない。
それでも。
「もう少し、頑張ろうって思えたのよね」
誰も否定しなかった。
工房。
炉の熱。
金属の音。
いつも通りの喧騒。
だが、そこにも小さな変化があった。
「その石、灯り用だろ」
職人の一人が声をかける。
「はい」
若い職人が頷く。
「なら、安定を優先しろ。派手さはいらん」
「……はい」
随分前なら、違った。
いつもどおりの工程。
悪く言えば惰性。
少し前なら、それもまた違った。
より良く。
もっと上を。
その意識が、手を迷わせていた。
だが今は違う。
「使うやつが困らなきゃ、それでいい」
誰かが言う。その言葉に違和感はなく、そして迷いもない。
「……ああ」
頷きが返る。それは、技術の低下ではないから。
妥協でもない。向きが揃っただけだ。
そして誰も、そのきっかけを口にはしなかった。
通りの一角。
小さな店。
「また来るかと思ったんだがな」
店主が棚を整えながら言う。
「誰? 予約でもあったの?」
隣の店の女が顔を出す。
「違うさ。あんたも見たことあるだろ。たまに来てた黒髪のお嬢さんだよ。なんだか妙に印象に残る」
女は肩をすくめる。
「ああ、あの子ね。でも、何か買っていったわけでもないんでしょう?」
「そうなんだよ」
店主は苦笑する。
「商品を見て、少し話して、それだけだ」
それだけなのに。
「……悪くない客だった」
「お、なんだいなんだい、何か相談事かい?」
そう言いながら話に入ってきたのは、調理用品を買いに来ていた酒場の店主だ。
「なに、たまに来てた黒い髪のお嬢さんの話しさ。この街のもんじゃなかったんだがね」
「ああ! 俺もその子知っているよ。たまに昼食を取りにうちに来てくれてた」
特に親しかったわけではない。関係は店と客。それ以上でもそれ以下でもない。
ただ。
「また、来てくれるといいな」
「そうだな」
店主はそう答えながら、
棚の一番見やすい場所へ、少しだけ良い品を置いた。
酒場の店主は少し良い調理器具を買った。
また来るかもしれない――
そんなことを、無意識に思っていた。
客館の前庭。
馬車の準備が整っている。
ルミエは、いつも通りの様子で立っていた。
「お世話になりました」
「こちらこそ」
「またお越しくださいませ」
使用人たちに向けて、軽く頭を下げる。
大げさではなく、形式でもない。
しかし、その声は少しだけ柔らかく、親しみがこめられていた。
アニエスが荷の最終確認を終える。
「準備は整っております」
「ありがとう」
ルミエは頷く。
それだけで、場が落ち着いた。
その穏やかな雰囲気の中、ロランがやってくる。
「見送りまでしていただかなくてもよかったのですが」
「形式だ」
変わらない短い返答。
だが、以前ほど漂っていた冷たさはない。
「……そういうことにしておきます」
ルミエは微笑む。
少しの沈黙。
無言のまま互いを見て、ロランが口を開いた。
「今回の滞在で」
一度、区切られる言葉。
「得るものはあったか?」
「ええ。とても」
それだけだったが、それで十分だった。
ロランはわずかに目を細める。
(……軽いな)
同時に、その軽さが嘘ではないことも分かる。
「……そうか」
短く返し、もう一つ。
「君は―――また来るつもりはあるのか」
それは、仕事の確認ではない。
純粋な問いだった。
ルミエは少し考えるように顎に指をあてる。
「そうですね、機会があれば、きっと」
返ってきた答えはどこか曖昧で。
「来たいとは思っています」
そして、はっきりしていた。
ロランはそれを聞いて、何も言わない。
ただ、内側で何かを確認する。
(……十分だ)
それでよかったから。
「では」
ルミエが一歩下がる。
「失礼いたします。また、いつか」
「……ああ。また」
滞在期間に何度見たかわからない、ルミエのいつもの微笑みに対して、ロランとしてはそれ以上の言葉はない。
別れは、それだけだった。
馬車が動き出し、ゆっくりと、街を離れていく。
窓から外を見る。
見慣れた街並み。
「良い街だったわ」
ルミエが言う。
「そうですね」
アニエスが答える。
それ以上の会話はない。
ルミエは、少しだけ目を細める。
(楽だった)
それが、一番近い感想だった。
※※※
その頃。
ロランは、まだその場に立っていた。
馬車はもう見えない。
それでも、視線はその方向へ向いている。
(……変わったな)
街が。
人が。
空気が。
そして。
(残った)
あの少女は、何も置いていかないようでいて、
確かに何かを残していった。
「……」
ロランは目を閉じる。
合理ではない。
否定はしない。
(次は)
自然に思考が続く。
(どこまで広がる)
それを見届けることが、今の自分にとっての合理だった。
数日後。
ヴァロワ家の門が開き馬車が入ってゆく。
久しぶりの光景。
「お帰りなさいませ!」
最初に駆けてきたのは、レオンだった。
「姉さま!」
勢いよく近づくが途中で、足が止まる。
一瞬の逡巡。
そして。
「……お帰りなさい」
少しだけ、姿勢を正して言う。
ルミエは、それを見て目を瞬かせてからクスリと笑う。
「ただいま、レオン」
愛しい弟への微笑みに、レオンは顔を背ける。
「別に、寂しくなんてなかったですから」
「そう」
「本当に!」
「ええ」
ルミエはそれ以上何も言わない。
その距離が、ちょうど良かった。
フランソワが奥から現れる。
「戻ったかい」
「はい」
短い言葉。
「報告してもらいたいこと、聞きたいことは山ほどあるが……まずはお疲れ様。そして、おかえり、ルミエ」
「はい、ただいま戻りました、お父さま」
だが、その空気は穏やかだった。
屋敷の空気が、戻る。
いや。
少しだけ、変わって戻っていった。
その夜。
ルミエは自室で、静かに息を吐いた。
品がないが、ベッドに大の字に倒れこむ。誰も見ていないのだから問題ない。
「……終わったなぁ」
特別な達成感はない。
ただ、一区切り。
窓の外を見る。
見慣れた庭。
見慣れた灯り。
(ああ、落ち着く)
それだけだった。
新鮮さも悪くないが、やはり実家が一番――ただ、それだけのことだ。
ベルニエの街に残ったものも。
王都へ向かって動き出したものも。
すべては、ここから先へ続いていく。
ルミエは知らない。
知る必要もない。
ただ、次もまた必要とされれば、そこに行く。
それだけだった。




