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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『均されていくもの 』
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『手放したくないもの』

ルミエがベルニエ家へ向かってから、ヴァロワ家の屋敷は少しだけ静かだった。

もちろん、屋敷としてはいつも通り動いている。

使用人たちは働き、フランソワは執務を続け、客は来る。

何も止まってはいない。

それでも、どこかが一つ空いているような感覚があった。

その“どこか”を一番はっきり自覚していたのは、10歳の少年だった。

ルミエのことが話題に出た時だ。


「……別に」


レオンはそう言って、本を閉じた。


「寂しくなんてありません」


言いながら、閉じた本をまた開くが、視線は文字を追っていない。

向かいに立っていた乳母は、何も言わずにお茶を差し替えた。

机の上には、別の読みかけの本。

途中まで進めたヴァロワ家としての学び。

それから、ルミエが王都へ行く前に置いていった小さな栞。


「姉さまは仕事です」


レオンは続ける。

誰に言い訳しているのか、自分でも分かっていない。


「ベルニエ家は重要な相手で、規格の話も大事で、だから姉さまが行くのは当然です」


乳母は頷く。


「ええ、そうですとも」

「だから、僕が毎日会えなくても、それは仕方ないことで――」


そこでようやく、口が止まった。

乳母は、静かに待つ。

レオンはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……でも」


視線を伏せる。


「少しだけ、静かです」


それが精一杯の認め方だった。

泣き言にはしたくない。

自分はもう10歳だ。学校だって卒業した。

姉にいつまでも抱きついていて良い年齢ではない。

そんな意地が、はっきりとあった。

だからこそ、余計に寂しかった。


「朝も、昼も、夜も」


レオンはぽつりと呟く。


「姉さまがいると、屋敷の空気が違ったんだなって……分かります」


乳母の表情が、わずかに緩む。


「レオン様も、よく見ておいでですこと」

「見てますよ、そのくらい」


少しだけむっとした顔になる。

何しろ、産まれてからずっと、一緒にいたのだから。周囲から聞く限り、物心つく前から自分はルミエにべったりだったということも知っている。

だがすぐに、肩の力が抜けた。


「姉さまは、僕にだけ優しいわけじゃないです。お父さまにも、家の皆にも、お客さまにも、全員にそうです」

「ええ」

「だから、僕だけが寂しいっていうのも、なんだか違う気がして」


本当は違わない。

寂しいものは寂しい。

それでも、自分だけがそれを主張するのは幼い気がした。


「……帰ってきたら」


レオンは少しだけ顔を上げる。


「前より、少しくらいは……その、頼られるようになります」


乳母は瞬きをした。


「頼られるように、ですか?」

「だって、姉さまはずっと僕を可愛い弟として見てますから……」


少しだけ頬を染めながら言う。


「それはそうなんだけど……でも、ずっとそのままでも格好悪いし」


乳母は口元を押さえた。


「まあ」

「笑わないでください」

「笑ってはおりませんよ」


そう言いながら、明らかに微笑んでいた。

レオンは不満げに唇を尖らせたが、やがて観念したように椅子へ座り直す。


「……でも」


再び、小さく言う。


「早く帰ってきてほしいのは、本当です」


その言葉だけは、最後まで誤魔化せなかった。





別の頃。

とある都市部にあるクラリス家。


「お父上様がお呼びです」

「今行くわ」


部屋でキャンバスに向き合っていたエレーヌ・クラリスはその呼びかけを受けて席を立つ。

そして、書斎に赴くと父がいつもどおり厳格な気配を漂わせながら何かの書面に目を通していた。


「来たか。これを読め」


有無を言わさない。無駄もない。語らず、嚙み砕かず。

自ら考え察せという父のそれはいつものことだ。


「リシャール家からの書簡だ」


父がそう付け加えると、エレーヌはすぐに顔を上げた。


「リシャール様から?」


受け取った手紙、その刻印を見て目を細める。

間違いない。

王都中枢に位置する上級貴族。

名目だけの社交ではない。

素早く目を通す。

その途中で、ふっと唇が吊り上がった。


「……まあ」


声はあくまで穏やかだった。

だが、その奥底で何かが燃え始めた。

リシャール家が、ベルニエの視察に絡めて、今後の学園内の空気の話を持ち出している。

そして、文面の端に、さりげなく。

ルミエ・ヴァロワ。

その名があった。


「さて、聞こう。どう考える?」

「結構なことだと思います。教育にかかわるクラリス家としても、中枢であり、象徴でもあるかの学園の品位と格は保ってしかるべき」

「ふむ。ならば本件はお前が取り仕切れ」

「……よろしいのでしょうか?」


その言葉に思わずそう聞き返すエレーヌに父は鷹揚に頷く。

各報告、最近の評判、これまでの動き。総合的に考えるとルミエ・ヴァロワは特に問題を起こす存在ではない。であれば、少なくとも悪い方向には転ばない。

なにより、何かあったとしても跡取りでもない商人の娘の進退などどうとでもできる。

リターンを見込めてリスクは極小。エレーヌに振るには適当という判断。


「お前はもう16だ。そろそろ簡単な仕事くらいは取り仕切れなくてはならん。数年もすれば縁ある貴族との婚姻もある。その前の箔付けとしては適当だろう」


仕事を取り仕切るという重圧。

結婚という将来。

そういったものは今のエレーヌには大した価値はなかった。考えることはただ、一つ。


「……承知いたしました。謹んでお受けいたします」


その笑みが、どこか歪んでいることに父は気が付けない。何故なら、娘の笑顔の種類なんて関心がないから。


「そうか。では一通りまとめてみろ。私への報告後、問題がなければ本格的に動くこととする」

「……この書簡、いただいても?」

「破棄さえしなければ構わん。よく目を通しておけ」

「はい。では、自室にて考えをまとめてまいります」


エレーヌは書簡を丁寧に畳み、礼をして部屋を辞した。

なんでもない、はずがない。

ルミエが地元を離れ、今はベルニエにいる。

その間に、王都の中枢貴族がその存在を認識し、学園の空気と結びつけている。

それはつまり。

独りになりたいと言って籠った部屋でエレーヌは書簡を改めて読み返す。


「ルミエ様が、こちらへ、貴族に近づいてくるかもしれないのね。そう、この件で、もっと、私と……」


誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。

その声音は甘かった。

だが、その胸中は決して穏やかではない。

嬉しい。

高揚している。

誇らしくすらある。

ルミエが評価されること自体は、当然だと思っている。

あの方ならば、人を惹きつけ、場を変え、必要とされる。

それは疑いようがない。

だが同時に。


(……また、増えるのね)


その感情は、甘さだけではない。

これまでは、商人。

教会。

地方貴族。

そこに今度は、中枢貴族と学園が加わる。

ルミエを必要とする者。

ルミエに憧れる者。

ルミエに手を伸ばそうとする者。

噂を聞く限りでも、周囲には羽虫が飛び交っている。


「当然だわ」


エレーヌは自分に言い聞かせるように微笑む。


「ルミエ様は、そういう方だもの」


それでも、胸の奥には昏いものが沈んでいた。

あの方は、きっと、誰にでも優しい。

きっと、誰にでも柔らかい。

だからこそ、誰もが自分に特別な意味を見てしまう。


(でも)


エレーヌはそっと書簡を指先で撫でる。


(それを、最初に見つけたのは私)


根拠のない、だが譲れない自負。

先に知った。

先に気づいた。

先に魅せられた。

自分はルミエにとっての特別。

その順序だけが、エレーヌにとっては重要だった。

自分はルミエにとっての特別。

少なくとも、そうでなければならない。

本当に自分が先だったかなど、考える意味はなかった。

そんな可能性は、あってはならないから。


「学園、ね」


ふっと笑う。


「面白いことになりそうだわ」


その目には、期待と貴族らしい野心が同時に宿っていた。

ルミエに近づく機会が増える。

ルミエと交わる人間も増える。

ならば。


(選ばれる位置にいなければ)


それは恋ではない。

だが、ただの友情でもない。

もっと静かで、もっと暗い独占欲に近いものが、エレーヌの中でも育ちつつあった。


「そうね、前向きに検討しましょう。学園の件、クラリス家としても協力にやぶさかではないと。

……その上で、こちらが主導を取れるように」


ぶつぶつと呟かれる声。

エレーヌはキャンバスに立てかけられていた未完成の黒髪の少女の絵を見つめる。


「ああ、ルミエ様」


その名を呼ぶだけで、胸が熱くなる。

同時に、ひどく冷える。


(誰にも譲らない)


そんなことは不可能だと分かっていながら、

それでもそう思わずにはいられなかった。






夕暮れ時。

それなりに過ごし慣れてきていた与えられた部屋でルミエが寛いでいると、使用人がやってくる。


「ロラン様が、夕食をご一緒したいと」


そう聞かされ、ルミエは少しだけ目を瞬かせた。


「夕食を?」

「はい。お仕事の話ではなく、とのことです」

「……まあ」


アニエスが一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。

ロラン・ベルニエが、わざわざ“仕事ではない”と断る。

それはつまり、仕事ではないように見せたい何か、でもある。

自分の主なら当然そこまではわかっているだろうが、とその横顔を見つめる。

同時に、分かっていてもこの方の答えはどうせ一つだろうと、半ば諦観を籠めて。


「分かったわ」


立ち上がりいつも通りの微笑みを浮かべる。


「せっかくですもの。ご一緒しましょう」


いつも通り、何も深く考えないまま。





案内されたのは、屋敷本館の一室だった。

会議室でも応接室でもない。

少人数の食事のために用意された、静かな部屋。

テーブルには二人分の食事。

飾りは少ない。

だが、器も配置も無駄なく美しい。

ロランは既に席についていた。


「お呼び立てして申し訳ない」

「いえ。しばらくお世話になっていましたが、こういう形は初めてですから。少し新鮮です」


ルミエは微笑んで案内された席に着いた。

食事が運ばれ、給仕が下がる。

後には静けさが残った。


「本当に、仕事の話ではないのですね?」


ルミエが少しだけ冗談めかして言うと、ロランは短く息を吐いた。


「そう身構えられるのは心外だ」

「身構えたつもりはないのですけれど」

「改めて言おう。ここは仕事の席ではない。そう固くならなくていい」

「では、そのように」


美しく微笑むルミエに対して淡々としたやり取り。

だがロランの言葉は以前より、角がない。

それを無意識に許容していたから。

そして、食事が始まる。

しばらくは料理の話、味の話、ベルニエの食材の話、王都との違い。

とりとめのない会話だった。

そして、不意にロランが言う。


「君は」


ルミエが顔を上げる。


「本当に、あれで何も考えていないのか?」


一拍置いて、ルミエは首を傾げた。


「どれのことかしら?」

「検査棟での話だ」

「ああ」


ルミエは少しだけ困ったように笑う。


「正直に申し上げると、石の違いはよく分からなくて」

「だろうな」


ロランも頷く。


「では、なぜああ言えた」

「使う人の顔を思い浮かべただけです」


即答だった。迷うこともなく。本当に案じているように。


「家庭の灯りなら、毎日安心して使える方がいいでしょう? そう思っただけです」


ロランは黙る。確か、以前も似たようなことを、同じようなことを言っていた。

そう、それだけ。

本当に、それだけなのだ。

計算ではない。

駆け引きでもない。

最適解を“選んだ”というより、最初からそこに立っている。

そうとしか、感じられない。

ロランはナイフを置く。


「面倒だと思うことはないのか?」


ルミエは少し目を丸くした。


「ありますよ?」


あまりにあっさりと返ってきて、今度はロランがわずかに沈黙する番だった。

どうせ『人の役に立てるならありません』と行儀の良い答えが返ってくると思っていたから。


「……あるのか」

「もちろんです」


ルミエは肩を竦める。


「人と話すのは疲れますし、出かけるのも面倒ですし、本当ならもっとのんびりしていたいです」

「なら、なぜ動く」

「必要とされるから、でしょうか」


それもまた、あまりに自然だった。


「役に立てるなら、その方が良いと思っています。……たぶん」


最後の“たぶん”が、妙に引っかかった。

ロランはルミエを見つめる。

美しい。

聡い。

場を整える。

人を動かす。

だが、本人の欲は薄い。

だからこそ、危うい。


(空白がある)


それがロランの結論だった。

自分で埋めようとしない空白。

だから周囲が勝手に意味を与え、勝手に期待し、勝手に依存していく。


「君は」


ロランはもう一度、静かに言う。


「自分の価値を、ずいぶん軽く見ているな」


ルミエは少し考え、困ったように笑った。


「そうかもしれません。でも、重く見積もるほどでもないと思うの」


ロランは、その言葉を聞いていた。

合理的ではない。

評価としては明らかに誤っている。

だが、その誤りこそが、逆に彼の中で何かを強く刺激した。


(惜しい)


まず、そう思った。

これほどのものを、本人が理解していない。

これほど有用な存在が、自分を適切に位置づけられていない。

それは損失だった。

ベルニエ家にとって。

社会にとって。

そして――


(私にとっても)


そこまで考えた瞬間、自分の内側に生まれた“私にとって”という発想に、ロランはわずかに目を細めた。

個人的な感情。

本来なら切り捨てるべきものだ。


だが、その発想を否定する気にはなれなかった。


(他へ渡すには惜しい)


その思考が、心の隙間に、思考のどこかに、あまりにも自然に座った。

ルミエはそんなこととは知らず、食後の茶を口にしている。


「ベルニエのお茶、好きだわ」

「そうか」

「ええ。少し苦いけれど、落ち着くの」


ロランは頷く。

その何気ない言葉すら、自分の領域に触れ、馴染み、価値を見出しているように思えた。


(違う)


そんなはずはない。

ただの感想だ。

だが、そう切り捨ててもなお、胸の奥に残るものがある。

所有に近い感覚。

支配欲に似た何か。

だが、それは欲望としてはまだ曖昧だった。

ただ一つだけ、はっきりしている。


(このまま、放置して外へ広げていいものではない)


合理性の顔をした、極めて個人的な感情。

それが、この夜の会食で初めてロランの中に根を張った。


「……ロラン様?」


ルミエが不思議そうにこちらを見る。


「どうかしましたか?」

「いや」


ロランは短く答えた。


「少し考え事をしていただけだ」

「そうですか」


ルミエは頷く。

深くは聞かない。

その距離感すら心地よい、とロランは感じた。

そして、その心地よさこそが最も危険だとも。

会食は、穏やかに終わった。

だがロランの中では、明らかに何かが始まっていた。

まだ名前はない。

まだ理屈の顔をしている。

それでも、それは確かに執着の芽だった。

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