『街に溶ける』
その日は、工房の見学も検査の立ち会いもなかった。
朝食の後、アニエスが帳面を確認し、小さく顔を上げる。
「本日は予定がございません」
「そう」
ルミエは頷いた。
当然と言えば当然だ。
ロランは多忙であり、客人である15歳のルミエを毎日仕事に連れ出すわけにもいかない。
「どうなさいますか?」
問われて、ルミエは少しだけ考える。
(……何もしない、でもいいけど)
だが、それでは少しもったいない気もした。
せっかく異なる土地に来ているのだから、見ておくべきものは多い。
「街を見て回ってもいいかしら」
久しぶりに自分の考えに沿った発言が口から出てきたが、もう特段それを意識することもない。
「問題ございません。護衛は既に手配済みです」
「大げさにならない範囲でね」
「はい。承知しております」
すでに調整済みであることに、ルミエは内心で少しだけ感心した。
言葉にする前に察して用意しておいてくれるのは、ヴァロワの屋敷と同じだ。
(……助かるな)
それ以上は考えない。
「ありがとう、アニエス。では、行きましょうか」
楽し気な笑みを浮かべながらルミエは立ち上がり、客館を出た。
ベルニエ家の本拠地であるこの街。
王都ほどの華やかさはないが、乱雑さもない。
整備された街
それがルミエの感想だった。
石畳は綺麗に保たれ、通りには無駄なものが置かれていない。
行き交う人々の服装も、決して豪奢ではないが、裏道に至るまでどこか清潔で落ち着いている。
「商人の街、というよりは……職人の街ね」
ルミエが呟くと、アニエスが頷いた。
「ベルニエ家の方針によるものかと」
「なるほどね」
視線を巡らせる。
工具を抱えた男。
荷を運ぶ女。
子供たちがその合間を縫って走っていく。
どれも特別な光景ではない。
だが、そのどれもが“機能している”ように見えた。
(……無駄が少ないっていうのかな)
それは居心地の良さにも繋がっている。
通りの一角で、ルミエは足を止めた。
小さな店。窓際に、簡素な魔石ランプが並べられている。
「あら、こちらは……」
「一般向けの販売店ですね。工房で加工されたものの一部が流れてきます」
「見てもいいかしら?」
「もちろんです。特段の予定もございませんので」
店に入ると、年配の店主が顔を上げた。
「いらっしゃいませ……おや」
一瞬、視線が止まる。
見慣れぬ顔――それ以上に、その美しさにわずかに目を奪われる。
だがすぐに、商人らしい笑みに戻った。
「どのようなものをお探しで?」
「いえ、少し見せていただくだけ」
「どうぞご自由に」
ルミエは棚に並ぶ魔石製ランプを一つ手に取った。
小型の光性石が仕込まれている家庭用だ。
「こちらはよく売れますか?」
「ええ、日常使いにはちょうどよい品です」
店主の答えは淀みない。
だが、ほんの少しだけ語尾が柔らいでいた。
「長く使えますか?」
「扱いにもよりますが……半年から一年ほどでしょうか」
「そうなのですね」
ルミエはランプを戻し、軽く頭を下げた。
「丁寧にありがとうございました」
「いえ、とんでもない」
店を出ると、店主はしばらく入口を見ていた。
「……不思議なお嬢さんだな」
誰に言うでもなく呟く。
特別なやり取りはなかった。
値切りも、交渉も、評価もなく、ただ見に来ただけだ。
それでも、未来の商売に繋がるのなら悪い気はしない。
それでも、妙に印象に残る。原因は、見た目か、立ち居振る舞いか、微笑みか。
(……また来たら、少し良いものを見せてやるか)
そう思った理由を、本人は深く考えなかった。
昼が近づき、通りの人の流れが少し変わる。
「昼食をお取りになりますか?」
足を止めるルミエ。指を自然に顎へ当てる、分かりやすい思案の仕草。
アニエスはそれを見守りながら、言葉を待った。
秘書として、ルミエのこういった仕草にいちいち何かを考えていては日が暮れてしまうのはとっくに学習している。
「ええ。どこか、地元の方が使うような場所はあるかしら」
ルミエからの希望に、街の情報は頭に入っているため、アニエスはよどみなく答える。
「ございます。食事処を兼ねた酒場がいくつか。ここからなら一つ先の通りに一つ」
「そこがいいわ」
未成年ではあるが、この世界では厳格に区切られているわけではない。
なにより、昼間であれば、食事処としての利用が主だ。
案内されたのは、石造りの建物。
扉を開けると、香ばしい匂いと人の気配が広がる。
中は賑やかだったが、騒がしいほどではない。
仕事の合間の食事。そんな雰囲気だ。
視線が一斉に集まる――ことはなかった。
ちらりと見られ、すぐに戻る。
それがこの街の気質なのだろう。
「……居心地がいいわね」
「そうですね」
席につき、メニューを眺めながらアニエスに手を差し伸べて微笑むルミエ。
「アニエス、貴女も一緒に食べましょう?」
「……では、お言葉に甘えさせていただいてご一緒します」
通常の主従の関係であれば辞退するところだが、ルミエのこんな振る舞いに慣れっこのアニエスは静かに頷いて対面に腰を掛ける。
「なにがいいかしら」
アニエスは楽し気に料理を選んでいるルミエを見て心の中で嘆息する。
分け隔てない。気さく。愛情深い。
どれも正しいはずなのに、どこか引っかかる。
「すみません、いいかしら?」
メニューが決まるとアニエスが動く前にルミエが店員を呼び止めて注文を始めてしまう。
店員の顔は驚き、緊張、弛緩、とルミエと話している人物がしがちな変遷を辿っていた。
「知らない街の知らないお店の知らない料理。楽しみね」
「ええ。ここは料理の美味しさが評判です。ご期待には沿えるかと」
隣の席では、二人の男が話していた。
「最近、工房の空気がいいよな」
「若い連中がやたら張り切ってる」
二人は聞くともなく耳に入れる。
「何があったんだか」
「さあな。ただ、悪くない」
短い会話。
だが、その中に満足があった。
やがて、二人が注文した料理が運ばれてくる。
「どうぞ」
「ありがとう」
給仕の女性が一瞬だけ驚いた顔をした。
だが、すぐに笑みに変わる。
「ごゆっくり」
それだけのやり取り。
それでも、声の調子がわずかに柔らかくなる。
ルミエとアニエスは、品がなくならない程度に軽く言葉を交わしながら食事を進める。
見知らぬ人物が使うこともある場所だ。
だから、あからさまに注目を浴びているわけではない。
凝視されるわけでもない。
囁かれるわけでもない。
それでも、確実に皆の印象には残っていた。
やがて、食事を終え、代金を支払う。
「美味しかったわ」
「それは何よりです」
店主が答える。
言葉は普通だが、視線は少しだけ丁寧だった。
外に出ると、空気が軽く感じられた。
午後も、特に目的もなく歩いた。
布地を扱う店。
工具の専門店。
子供向けの小さな菓子屋。
立ち寄り、少し話し、去る。
それだけだ。
だが、その“それだけ”が積み重なっていく。
「また来てもいいかしら」
「もちろんです」
「これはどうやって作るの?」
「簡単ですよ、こうして……」
「綺麗ね」
「ええ、自慢の品です」
ルミエは誰に対しても特別なことはしていない。
ただ、話しているだけだ。
それでも、会話は少しずつ滑らかになっていく。
(……不思議)
ルミエは自分の感覚を疑わない。
ただ、そういうものだと受け取るだけだ。
(まあ、話しやすい人が多いのね)
それで終わる。
夕方、客館へ戻る道すがら。
通りの端で、小さな子供が転びかけていた。
「大丈夫?」
手を差し出すと子供は少しだけ驚いた顔をして、手を取った。
「……うん」
「気をつけてね」
それだけ。家まで送るだとか、怪我はないかと問うだとか、余計なことはしない。
声色も表情も、過不足がなかった。
それに生まれて初めて触れた子供は少しぼうっとルミエを見つめてから我に返ったように頭を下げて、走っていく。
振り返りもせず。
だが、その背中はどこか軽かった。
客館に戻ると、使用人たちが自然と集まってくる。
「お帰りなさいませ」
「お疲れではございませんか?」
「大丈夫よ。楽しかったわ」
そう答えると、皆が少しだけ嬉しそうにする。
特別なことは言っていない。
褒めてもいない。
それでも、空気が柔らぐ。
「本日は街へ?」
「ええ、素敵な場所だったわ」
「それでは、差し支えなければ、今後、ご案内が必要でしたら我々にお声がけを」
「ふふ、ありがとう。その時はお願いするわ」
「お任せください」
それだけで、十分だった。
その夜。
ベルニエの街のあちこちで、ささやかな会話が交わされる。
「今日、見かけたか?」
「誰を?」
「黒い髪のお嬢さんだよ」
「さるご令嬢らしいぞ」
「噂だとあの魔石のヴァロワの娘さんなんだってな」
「なんだ、知ってたのか。その割には随分と話しやすい人だったな」
別の場所でも。
「昼に来てた子、感じが良かったね」
「ええ。ああいうお嬢様もいるのね」
また別の場所でも。
「また来るかな」
「来るだろ。なんとなくだが、用がなくても来そうだ」
どれも些細な言葉だ。
どれも軽い。
だが、そのどれもが同じ方向を向いている。
――拒まれない。
――受け入れてもいい。
その認識が、静かに広がっていく。
客館の窓から、街の灯りが見える。
ルミエはそれを眺めながら、ぼんやりと考える。
(良い街だったな)
それ以上でも、それ以下でもない。
ただ、そう思っただけだ。
だがその“そう思っただけ”が、
この街にどれほどの変化をもたらし始めているのかを、
まだ誰も理解していなかった。




