『最も正しい判断』
ベルニエ家の執務室は、過剰な装飾がなかった。
磨き込まれた長机と、寸法の狂い一つない椅子。壁際に並ぶ魔石加工品は、誇示ではなく実用の延長として置かれている。
ロラン・ベルニエは、机の上に並べられた資料に視線を落としていた。
「以上が、今期の加工実績と規格更新の概要です」
書記の説明を受けながら、ロランは軽く頷く。
「問題は?」
「ありません。流通側との齟齬も最小限です」
「……そうか」
声は落ち着いている。
20代と世間から見れば若い当主だが、その口調に軽さはない。そして周囲の者も欠片も侮ってはいない。従属に値する、上に立つものなのだから。
ベルニエ家は、魔石加工と規格化を担う商家だ。
魔石の品質を揃え、用途を定義し、誰が扱っても同じ結果が出るようにする。
派手さはないが、なければ文明が止まる仕事。
現在、市井で広く使われている魔石用品の基本設計は、もとを辿ればベルニエ家に行き着く。
それほどまでに長く、そして広く根を張った大家だ。今もなお、進歩と革新、そして新発明を続けている。
「ヴァロワ家からの接触は?」
書記が一瞬だけ言葉を選ぶ。
「……例年通り、最低限です」
ロランは、わずかに目を細めた。
ヴァロワ家。
流通を司る大商家。
ベルニエと同格であり、同時に、意図的に距離を保ってきた相手。
加工と流通。
本来であれば、密接であるはずの二つの歯車。
「相変わらず、慎重だな」
「はい。現当主、フランソワ・ヴァロワは特に穏健派ですので」
皮肉ではない。ただの事実確認だった。
会議が終わり、人が捌けていく。
ロランは一人残り、資料を閉じた。
(……そろそろだ)
机をトントンと指で叩きながら自らの思考をまとめていく。
(我が家とヴァロワ。距離を保つ理由は理解している。加工と流通が過度に結びつけば、独占と疑われる。だからこそ、互いに“抑えて”きた)
合理的だ。
だが、合理性は永遠ではない。そしてなによりも、永遠とは存在しない。魔石用品のように日々進歩と革新、変化をしていくことが人の道、それがロランの矜持だった。
(なにより、今は、状況が違う)
ロランの脳裏に、一人の少女の名が浮かぶ。
ルミエ・ヴァロワ。
直接会ったことはない。
だが、その名前を聞かない日はなかった。
調整役。
誰も怒らせず、誰も損をさせず、場を整える存在。
(奇妙だ)
商談の場で、交渉の主役でもない人物が、
“基準”として扱われている。
(カリスマでも、思想家でもない。
それなのに、皆が彼女を前提に動いている)
それは、仕組みとして危うい。
(個人に依存する構造は、長く持たない)
名人や達人の技術には敬意を払うべきだが、誰でも同じような成果を発揮できる一般化と汎用化こそ、技術の為すべき道。ベルニエ家の立場から見れば、ルミエ個人にもたれかかる今はリスクだ。
だが同時に――
(資源でもある)
美しいと聞く。美しさはそれだけで価値だ。
有能だろう。15歳にして聞き及ぶ成果は優れている。
跡取りではない。確かもう一人息子がいた。つまりルミエは立場上も将来も自由の身だ。
そして、社会的に浮いている。調整役と言う名目上、誰も立ち入らず、誰にも肩入れしない。
(……取り込まない理由がない)
ロランは立ち上がり、窓の外を見る。
整然と並ぶ工房。規格通りに動く人員。
(私情ではない)
ここで思考を切り替える。
(これは、家としての判断だ)
ベルニエとヴァロワが協調すれば、
加工と流通の無駄は消え、社会は安定する。
(そして、その中心にいるべきが――俺と、ルミエ・ヴァロワ)
彼女が“調整役”として個人に依存され続けるのは、
彼女にとっても、世界にとっても、健全ではない。
(ならば)
ロランは、結論を出す。
(組むべきだ)
結婚、という言葉はまだ出さない。
せっかくの男女だ。有用な手として可能性の一つと考慮しているが、別にあえてそれを選ぶ必要もない。
であれば。
(まずは、ベルニエ家の側に立ってもらう)
協力者として。
助言者として。
制度の一部として。
長女が関われば、ヴァロワとの距離も必然的に近づく。
(それが、最も正しい)
そう、確信していた。
(……俺が間違っているはずがないのだからな)
その考えに、疑問はなかった。
数日後。
ロラン・ベルニエは、ヴァロワ家への正式な訪問を決める。
名目は単純だ。
――魔石規格に関する、今後の協議。
誰も反対しなかった。
それほどまでに、自然な一歩だった。
ただ一つだけ、彼はまだ知らない。
自分がこれから踏み込もうとしているのが、
“協業”ではなく、
“侵食”の領域であることを。
何よりも。『浸食を受ける側』がどちらなのかなど、思考の欠片すらなかった。
ヴァロワ家の応接室は、ベルニエ家の執務室とは対照的だった。
装飾は控えめだが、どこか“余白”がある。威圧するための豪奢ではなく、客が息を詰めずにいられる配置。
ロランは、入室した瞬間にそれを理解した。
(流通の家、秩序のヴァロワか)
効率と秩序ではなく、人の流れを読む家。
加工と規格を司る自分たちとは、確かに思想が違う。
そして。
「お待たせしました。ご足労いただき申し訳ない」
その声とともに現れた男性。フランソワ・ヴァロワ。
何度か会ったことがあり面識もある彼は、このヴァロワ家の要ではあるだろう。
しかし、本命は違う。フランソワ・ヴァロワの後ろの控える少女を見て、ロランは一瞬だけ思考を止めた。
――磨き抜かれた魔石だ。
装飾を施さずとも価値があり、削りすぎれば割れ、放置すれば鈍る。
完成されているのに、どこか“余地”を感じさせる佇まい。
15歳。
その事実が、遅れて意味を持つ。
(若い、などという評価は成立しないな)
「私の息子はまだ幼い。今回は娘のルミエを同席させたいのですが」
「ええ、構いません。お初にお目にかかりますルミエ殿。ロラン・ベルニエと申します」
「ルミエ。以前にも話したことがあっただろう。
こちらのベルニエ家は魔石加工、魔石用品の開発の大家だ。魔石文化に大いに貢献されている」
「はい。はじめまして。ルミエ・ヴァロワです。以後お見知りおきを」
彼女は一礼し、自然な距離感で席についた。
微笑みは自然で、目線は低すぎず、高すぎず。声は柔らかいが曖昧ではない。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。ロラン様」
名前を呼ぶだけの、その一言。
だが、場の主導権はすでに彼女の側にあった。
(なるほどな)
会話は、表向きには魔石規格の確認から始まった。
数字、用途、将来的な調整案。
ロランが得意とする分野だ。
「では、ヴァロワ殿。今期の魔石の市場価格についてとなります」
「ええ、こちらも承知はしています。しかし、供給量については」
フランソワとの事務的なやりとり。同席者である彼女も参加者の一人だが割り込まない。
訂正もしない。
ただ、要所で視線を向け、短く言葉を添える。
「その点は、確かに重要ですね」
「ただ、現場の負担も考えると……」
それだけで、議論の角が取れる。
こちらが折れるわけではない。
相手が勝つわけでもない。
(……理解している)
ロランは確信する。
彼女は、”構造”を見ているのだろうと。
人の感情ではなく、感情が生まれる位置。
利害ではなく、利害が衝突する理由。
そこにそっと挟み込まれる言葉。誘導ではない。作意でもない。ただ、自然に、静かに。
(才能だろうな)
それも、鍛錬の結果ではない。
自然体で、無意識のうちにやっている。
会話の終盤、魔石の話がある程度まとまった段階で、ロランはあえて核心に近い言葉を投げた。
「ところで、ルミエ殿。貴女は現在、議論や討議の場において調整役としてご活躍だとか」
「ええ、皆さまに必要とされて光栄です。日々、励まさせていただいております」
誇るでも驕るでもなく、静謐で清廉な態度。フランソワの表情から見ても自慢の娘なのだろう。
「ご多忙では?」
「そんなことはありません。回数も無理せず立ち会えるものですし、何より、皆さまの、世のためになるのであれば大したことでは」
ルミエのある種の模範解答に意図的に棘を投げつけてみる。
「しかし、調整役という大役。それは個人に依存する形では長くは続きません。
どう思われますか?」
探るような視線。
反応を見るための一言。
だが、返ってきたのは否定でも同意でもなかった。
「そうですね。仕組みとして整えることは、大切だと思います」
穏やかで、正しい返答。
感情を刺激しない。
だが、逃げてもいない。曖昧なようでいて、不思議と腑に落ちる。
(……これだ)
ロランは、心の中で頷いた。
彼女は、制度の中に組み込むべき存在だ。
個人として消費されるべきではない。
(そして――)
自然と、次の思考に至る。
(それを扱えるのは、俺だ。少なくとも、俺以上に適任はいない)
合理的判断だ。
私情ではない。
彼女を“守る”ためでもある。
加工と流通が手を取り合えば、社会は安定する。
そしてどうしても発生する小さな軋轢、その中心に、彼女がいるならば何ら問題は起きるまい。
(理解した)
彼女は善意で動いている。
打算はない。打算であれば、もっと露骨な立ち回りをしているはずだ
だからこそ、誰かが枠を与えなければならない。飛び立つ場を、その能力に値する地位と仕組みを。
会話が終わり、席を立つ。
「本日は、貴重なお時間をありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。今後もお互いに良き関係でいられれば幸いです」
フランソワと形式的な礼にルミエはまたそっと言葉を乗せる。
「ロラン様。今後とも、良い関係を築ければ嬉しいです」
その言葉に、含みはない。
少なくとも、ロランにはそう見えた。
(やはり、相応しい)
ヴァロワ家を通じてではない。
ルミエ・ヴァロワ本人と、直接。
協力者として。
制度の一部として。
――そして、いつか。あるいは。
そう考えながら、ロランは屋敷を後にした。
「お疲れ様、アニエス。立たせたままでごめんね?」
少し砕けた、茶目っ気のある謝罪をする若い主に、秘書であるアニエスは首を振る。
「いえ、職務ですので。それで、いかがでしたか? ベルニエ家の若き当主は」
「うーん……そうね」
少しだけ考えてから、首を傾げる。
「なんだか、すごく合理的で……真面目な方だったわね」
「そういうことでは……いえ、ルミエ様、わかって言ってらっしゃいますね?」
「ふふ、さあ?」
悪戯っぽく微笑んで見せるルミエに、アニエスは心の中で絆されすぎないように一歩距離を取ってから、内心ため息をつく。
本当に把握が容易くない人だと。
一方ルミエのほうもお茶を飲みながら内心でため息をついていた。
(なんかベンチャー企業の社長みたいな人だったな……ああいう人もいるんだ)
なんだか肩が凝った。本人の感想はそれだけ。
魔石の話が多かったこと。
数字と仕組みの話が続いたこと。
しかも言ってしまえば自分はフランソワの添え物だ。意識することでもない。
だからこそ、ロランの印象は、それ以上でも以下でもない。
いつもどおり最適化された先ほどの返答は、その実まったくの嘘ではないのだから。
「次の予定、確認いたしましょう」
「ええ、お願い」
穏やかな声で、いつも通りに。
その背中を、彼女自身は振り返らない。
その日、ロラン・ベルニエは確信を得た。
そして、ルミエ・ヴァロワは――
何も得ていなかった。いつもどおりだった。




