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調整役令嬢は、何も知らない  作者: ナギサト。
『均されていくもの 』
31/38

『完成された日常』

「……ん」


朝。

差し込む光がカーテン越しに部屋を満たし、ベッドに眠るルミエの瞼をわずかに揺らす。


「……あさ」


誰もいないからこそ、彼女はそう呟き、ゆっくりと身を起こした。

伸びをして、寝台を降りる。

慣れた手つきで服を身に着け、鏡台の前に腰を下ろす。

ブラシを手に取り、髪を梳く。

鏡に映るのは、長く艶のある黒髪と、整いすぎるほど整った顔立ち。

可憐さと落ち着きが同時に宿るその容姿を、当人はどこか他人事のように見つめていた。

さらさらと指通りのいい髪を整え終え、正面から鏡を見る。

深い紫の瞳が、朝の光を受けて静かに揺れている。


(……ほんと、成長したよね)


そう思う一方で、

それを自分のこととして喜べているのかは、分からなかった。

気づけば、15になっていた。

ついこの間まで幼い子供だった気がするのに、と毎朝同じことを思う。

フランソワも、レオンも、乳母も、従者も。

皆が口を揃えて言う。

――絶世の令嬢だとか。

――誰もが目を奪われる美しさだとか。

――亡き母セシルによく似てきた、とか。

確かに、美しいのだとは思う。

客観的に見れば、否定しようもない。


(……でも、これが私かぁ)


そう言われても、どうしても実感が湧かない。

理解はしている。納得もしている。

それでも、鏡に映るこの姿が『自分』だと直感的には結びつかない。

前世の感覚が、未だに奥底に残っているのだろう。

だからきっと、これから先も慣れることはない。

唯一ありがたい点があるとすれば、

余計な手間をかけなくても十分すぎるほど整っている、ということくらいだ。


(……最低限でいいよね)


化粧をすれば、また周囲の反応が一段変わる。

それは少し……そう、面倒だ。

化粧道具を取り出したのとちょうどのタイミングで。


「失礼いたします」


ノックの音。


「どうぞ」


声と表情が、自然に切り替わる。

鏡に映るのは、柔らかく微笑む“令嬢の顔”。

扉が開き、乳母が入ってくる。


「ルミエ様、もうご支度を済ませてしまわれたのですか?」

「ええ、これくらいならもう独りで出来るもの」

「まあ。私の朝の楽しみが」

「大げさよ」

「大げさではありませんよ」


冗談めかしたやり取り。

乳母の表情は変わらない。

この姿にも、この年齢にも、もう驚かなくなっている。


「少しは手心を」

「ふふ、はーい。じゃあ、お化粧、お願いできる?」


甘えたように応じながら乳母を迎え入れ、座ったまま化粧を施される。


「少しだけでね?」

「ええ、承知しておりますとも」


――15歳。

完成された容姿。

完成された立ち居振る舞い。

それでも中身は、相変わらずだった。


(今日も、普通の日だね)


最後に鏡を少しだけ見つめてからルミエは部屋を出た。




「おはよう、レオン」


廊下で出会ったのは今年でレオンも10歳。

基礎教育は卒業して、これからは父フランソワのもとで、ヴァロワ家としての在り方を学んでいく段階だ。

そんなレオンに、ルミエは彼が産まれた時から変わらない優しい姉の顔で微笑みかけた。


「おはようございます、姉さま」

「ええ。……あら、抱き着いてきてくれないの?」


悪戯っぽい問いかけにレオンはむっとした表情を浮かべて胸を張る。


「もう僕は10歳ですよ。あれは子供の時だけです」

「そうね、お兄さんになったものね。でも」


そういってだいぶ背が伸びて整いつつも精悍な顔つきになりつつある弟を、優しく抱きしめた。


「姉さま!」

「あなたは私の可愛い、愛しい弟。遠慮をされては寂しいわ」


抗議するような声とともに少しもがくが、本気で暴れるわけでもなく、そのまま大人しくなる。

いつまでも変わらぬ姉弟愛に後ろで乳母がそっと、ハンカチで目頭を押さえていた。





アニエス・モランは、歩きながら手元の書類に目を落としていた。

今日の予定。訪問先。出席者の顔ぶれ。話題になり得る懸念点。

どれも、特別なものではない。


(問題はない。少なくとも、表向きには)


調整役としての業務は、すでに制度として定着している。

以前のように、誰かが声を荒げる場面は減った。

無理な決断も、露骨な押し付けも、ほとんど見られない。

その中心にいる人物――

アニエスの主人である、ルミエ・ヴァロワだ。

アニエスは一年前まで、地方商家で書記を務めていた。

帳簿と契約書、交渉記録と会議の議事録。

感情ではなく、数字と文面で物事を見る仕事だ。

そこを評価されて一年前、縁あって多忙となりつつあったルミエの秘書として雇われて今がある。

給金は高い。

待遇は良い。

雇い主であるフランソワは権力を笠に着ない人格者であり、屋敷内の人間関係は良好。

そして、主人であるルミエは……


(命じていない。誘導もしていない。それでも、話はまとまる)


優しい人物だろう。愛もあるのだろう。美しく、非の打ち所がないことは確か。

否定はできない。

結果だけを見れば、極めて優秀だ。

足音を抑えて廊下を進む。

指定された部屋の前で一度呼吸を整え、ノックをした。


「失礼いたします」

「どうぞ」


扉を開けると、そこにいたのは、いつもと同じ光景だった。

朝の光を背に、微笑みながらこちらを見る少女。

15歳という年齢を考えれば、完成されすぎている容姿。

穏やかで、柔らかく、それでいて隙がない。


(……今日も、変わらない)


安心する。

理由は分からないが、確かにそう感じる、正体不明の安堵。

同時に、アニエスはその感覚を信用しない。


「おはようございます、ルミエ様。本日の予定をお持ちしました」

「ありがとう、アニエス。お願いできる?」


自然な声色。

作られた印象はない。

少なくとも、アニエスはこれでもそれなりの人間関係を潜り抜けてきたつもりだ。


(……少なくとも、私の知る限りの“演技”では説明がつかない)


書類を差し出しながら、予定を簡潔に読み上げる。

会合の目的。想定される論点。


「特に問題はないかと思われます。ただ――」

「ただ?」

「意見が割れる可能性があります。利害関係が顕著ですので」

「そう。わかったわ。ありがとう」


それだけだった。指示も、修正も、助言もない。

それなのに、アニエスは理解している。

今日も、まとまるだろう、と。


(なぜ、そう思えるのか)


その理由を、アニエスは言語化できない。だからこそ、意識して半ば強引に距離を保つ。

そうしないと、きっと……


「では、参りましょうか」

「ええ」


二人並んで歩き出す。ルミエの歩調は、いつも少しだけ相手に合わせられている。

廊下を進みながら、アニエスは背中を見つめた。


(この方は、何も指示をしない)


それは事実だ。そして同時に、否定できない事実もある。


(それでも、結果は整う)


留保。それが、アニエス・モランの選んだ立ち位置だった。

やがて、扉の向こうに人の気配が濃くなる。

今日の場が、始まる。

アニエスは一度だけ、深く息を吸った。


(今日は……どうなるか)


答えはわかりきっているのに、そう自分に改めて問い直す。

しかし、残念ながらこの手の予感だけは、外れたことは無いのだが。






会合が始まる前から、場の空気は重かった。

商家同士の利害は明確で、譲歩の余地は少ない。

帳簿も理屈も揃っている。だからこそ、誰も引けない。

――はずだった。

開始から一刻ほどが過ぎた頃、議論は自然と減速した。

声が荒ぶることもなく、誰かが遮ることもない。

ルミエは、ほとんど口を開いていない。

一度、視線を向けただけ。

一度、言葉を添えただけ。


「……その考え方も、大切ですね」


それだけで、空気が変わった。

誰が折れたわけでもない。

誰が勝ったわけでもない。

だが、話はまとまった。

帳尻は合い、誰もが「まあ妥当だろう」と思える形に落ち着いた。

少なくとも、反論する理由は見当たらない。


(本当に、どうしてこうなるのかしら)


会合が終わり、退出する商人たちの背を見送りながら、

アニエスは静かに息を吐いた。

午後の貴族側の会合も、似たような流れだった。

立場の差。

誇り。

過去の確執。

本来なら、どこかで誰かが強く出る。

だが今日は、そうならなかった。


「皆様の原点、そちらを思い出されてはいかがでしょうか」


ルミエのその一言で、

議論は『押し合い』から『探り合い』に変わった。

結果は、やはり無難な落としどころ。

誰かが大きく得をしたわけでも、損をしたわけでもない。


(……おかしいほど、整った。無難に、静かに)


アニエスは、そう思いながら歩いていた。

指示があったわけではない。

計算された誘導があったわけでもない。

それでも、場は自然と一つの方向へ流れていく。

そして、その流れを、誰も不自然だとは思わない。

――いや。


(思わない、ようになっている)


秘書として一年。

彼女は、この現象を何度も見てきた。

最初は安心だった。

次に便利だと思った。

次に感じたものが何だったのか、今となっては自分でも分からない。

そして今は、どこか距離を取ろうとしている。

理由は単純だ。


(理解できない)


善意なのは分かる。

誠実なのも、間違いないだろう。

だが、それだけでは説明がつかない。


「どうしたの? 考え事?」


不意に、前を歩いていたルミエが振り返った。

穏やかで、包み込むような微笑み。

自然と心を解かれ、思考が緩む。


(……いけない)


アニエスは、わずかに視線を逸らした。


「いえ。次の予定を整理していました」

「そう。ありがとう」

「本日も、お疲れ様でございました」

「アニエスがいてくれるから、助かっているわ。これからもよろしくね」


労いの言葉。だが、おべっかではないとしか思えない、真にこちらを気遣っている声色。

アニエスは、短く頷いた。


「……はい、ルミエ様」


そして、歩調を合わせる。

必要な情報を、淡々と伝えながら。


(今、この方はどんな表情をしているのだろう)


背中越しに、そう考えながら。

――その先に待つものを、

まだ言葉に出来ないまま。

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