第9話
ハルマキスは、すぐに自分の三人の息子と、農園の小作人や奴隷たちを呼び集めた。
「皆、よく聞け! アレクサンドリアのヒュパトス様より、直々の重大な命を預かった。まもなく、女王陛下が西方の地よりご帰還あそばされる。直ちに献上のためのワインを整えよ! その数、二千甕だ!」
集まった者たちの間に、大きなどよめきが走った。未だかつてない規模での拠出である。農民たちは顔を見合わせ、都では一体何が起きているのか、戦の行方はどうなったのかと囁き合った。
ハルマキスは次男に献上品となる甕の運び出しおよび検品を命じ、三男を湖畔へ向かわせて輸送船の手配を急がせた。
そして――周囲の者が散るのを見計らい、長男を傍へ呼び寄せた。
「アメンメス、お前にだけは今回の真の任務を伝えよう」
ハルマキスは長男アメンメスを書記室へと連れて行き、重い扉を固く閉ざした。
書記室の棚にはずらりとパピルスの巻物が並び、これまでの収穫量やワインの在庫など、事細かに記録されていた。窓からは、慌ただしく献上品を整える農民たちの姿が見えるが、部屋は静寂に包まれている。
ハルマキスはアメンメスの目を見据え、口を開いた。
「良いか、アメンメス――私はヒュパトス様のお父上のクリュセルモス様の代からお仕えている。私の父もまた、クリュセルモス様と、さらにその前の代からこの農園を預かってきたのだ」
「……はい、それは心得ております。旦那様と父上を信じ、従うまでです」
アメンメスは静かに答えた。
「今回の王宮への大規模な献上の後も、ヒュパトス様は七百甕ほど献上のために水路近くへ手配するようにおっしゃった」
ハルマキスはアメンメスの表情をじっと窺った。長年、自分の跡を継がせるために彼を他の二人の息子よりも厳しく育ててきた。常に期待に応えてくれた自慢の長男だが、今から言い渡す危険な任務を引き受けてくれるのだろうか――彼の忠誠心を疑うわけではない。だが、農園を預かる我が一族および農民たちの安全を考え、別な道を望むのではないかという憂慮が拭えない。
ハルマキスの思いを悟ったかのように、アメンメスは父親の足元に跪いた。
「父上、旦那様から何を仰せつかったのですか? 今の我々があるのは旦那様あってのことと、幼い頃から私に説いてくださっていたではありませんか。何を今更躊躇っているのです」
自分を真っ直ぐに見つめる息子の眼差しを受け、ハルマキスは腹を決めた。
「旦那様は倉庫にある在庫の大半……、二千甕近くを密かに売り払われるおつもりだ」
「に、二千……! それを売った莫大な金で何をなさろうとしているのですか」
アメンメスは目を見開き、息を呑んだ。
「私もはっきりとしたことはわからない。だが、我が国の戦況は芳しくないと察する。万が一、この国に敵が攻め込んできた時のことを、旦那様はお考えに違いない……」
「旦那様はこの国から出られるおつもりなのでしょうか。それとも――」
「あの旦那様のことだ。プトレマイオスの高貴な血を引く、あのお方が祖国を裏切るはずはない。しかし、敵はその血を徹底的に根絶やしにするつもりかもしれん」
ハルマキスは深いため息を吐きながら言った。
「しかし、父上。旦那様が去られた後、この農園はどうなるのです? 我らにも糧が必要です。ここの民たちはどうなるのです?」
アメンメスは不安に駆られ、父へ畳み掛けた。
「旦那様は、備蓄用に三百甕を保管するよう命じられた。この量は、ここの民と農園を数年維持するのに十分な蓄えだ。来年もまた葡萄を実らせ、ワインを作ることさえできれば、我々はこの先もやっていけるに違いない」
「……わかりました。旦那様と父上のご命令の通りに動きましょう」
これから先の不安を完全には拭いきれない。しかし、動乱の波が押し寄せたならば、抗ったところで自分たちの命運など知れたものではないのだ。
ハルマキスはアメンメスにヒュパトスからの密命を伝えた。アメンメスはすぐさま倉庫へ向かい、今回の献上の準備という大掛かりな喧騒に紛れさせ、密売用の甕の選別に取りかかった。
一人残された書記室で、ハルマキスは机に直近の出納帳を広げた。
インク壺に葦のペンを浸し、震える右手を左手で制しながら、先月の出納記録の余白に――『マルクス・アントニウス様率いる地中海艦隊の兵糧として、前年産のワイン千五百甕を徴発』と偽りの筆跡を書き加えた。
さらに、老いたかすむ目を凝らし、在庫の記録帳を睨んだ。そして、朱のインクで『過度な発酵による酢化』『甕の破損』など、偽りの破棄理由を淡々と書き連ねていった。




