第10話
空には雲ひとつなく、陽光は容赦なく照りつけ、一面に広がる緑の海の中で主館の白亜が眩い光を放っていた。
マレオティス湖に面した主館のテラスで、フィロタスは果実水を入れた青銅製の杯を片手に寝椅子に身を預けていた。ザクロと葡萄の瑞々しい酸味が、青年の疲れた身体に沁み渡った。
収穫と圧搾を終えたばかりの農園は、発酵の熱を帯びたワインの甘酸っぱい匂いで満ちていた。湖から吹き抜ける風がその香りを運び、フィロタスの鼻腔をくすぐった。
「ナクト、農園を少し見てまわりたい。コホルと香油を準備してくれないか」
フィロタスの傍でちょうど荷解きをしていたナクトは、すぐにエメラルドグリーンのガラス小瓶と雪花石膏製の瓶を取り出した。
フィロタスは、石膏の蓋を開け、陽に焼かれて赤みを帯びた肌に香油を垂らした。普段はヒュパトスの屋敷とムセイオンの往復ばかりの身であり、これ以上、苛烈な日差しを跳ね返すだけの強さは彼の肌には残されていなかった。
「フィロタス様、失礼いたします」
ナクトは褐色の掌でフィロタスの額を壊れ物でも扱うかのようにそっと押さえ、象牙の細棒で青年の目元に濃いコホルを引いた。
フィロタスは黒く縁取られた大きな瞳をそっと開き、立ち上がった。
フィロタスはナクトに導かれ、主館の回廊を抜け裏手に出た。農園の案内を頼もうと、敷地の奥にある管理人の居館へ足を運んだ。ハルマキスの妻が温かく出迎え、夫なら奥の書記室で帳簿をつけていると教えてくれた。
薄暗い廊下を進み、彼が書記室の扉の前に立った時――背後から鋭い声で呼び止められた。
「フィロタス様!」
振り返ると、髪を短く刈り込み、褐色に焼けた肌の逞しい肩幅を持つ男が立っていた。
「ご挨拶が遅れました。私はハルマキスの長男、アメンメスと申します。父は手が離せませぬゆえ、私にお申し付けくださいませ。農園の案内でございましょうか?」
アメンメスはフィロタスに深々と頭を下げたが、どこかフィロタスをこの書記室に近づけさせない強い意志を秘めていた。
アメンメスは促すようにフィロタスを陽光の降り注ぐ外へと連れ出した。
アメンメスは眩い陽光の下、広大な葡萄畑の畝を指し示しながら、剪定の工夫や乾季の苦労について事細かに説明してくれた。
しかし、フィロタスは笑みを浮かべて頷きはするものの、その意識はどこか上の空だった。
ハルマキスが書記室へ籠もり、帳簿をつけているという事実に違和感を覚えていたのだ。
この時期、葡萄の収穫と圧搾はすでに終えており、都の査察官による検分もとっくに完了して彼らはアレクサンドリアに引き上げているはずだった。王宮への献上にあたり、検品ではじかれる品が出たとしても、それは農民たちの運び出しが終わり、現場から報告が上がってきてから照合すれば済む話だ。
――今この瞬間、老農場長が一人、あの部屋で急ぎ筆を走らせねばならぬ理由がどこにあるのか。
「アメンメス、王宮へ献上する甕の積み出しの様子を見せてもらえないだろうか?」
フィロタスの不意の申し出に、アメンメスが一瞬表情を強張らせたのを青年は見逃さなかった。
アメンメスはすぐさま笑みを浮かべ、恭しく頭を垂れながら言った。
「倉庫は泥や埃、農民たちの汗にまみれております。旦那様の大切なお客人であられるフィロタス様をお連れするようなところではございません」
「私は構わない。ヒュパトス様より託された重大な命の遂行を、この目でしかと見ておく義務がある」
黒いコホルで美しく縁取られたフィロタスの射抜くような眼差しに、アメンメスは折れるしかなかった。
「……そこまで仰せられるのでしたら。しかし、足元も暗く危険にございますゆえ、決して私の傍をお離れになりませぬよう」
「心得た」
アメンメスはこの青年は何かを嗅ぎ取っているのか、それとも純粋な使命感ゆえなのか――アメンメスはその真意を測りかね、内心の動揺を押し殺しながら、フィロタスを地下の倉庫へと案内した。




