第11話
フィロタスはアメンメスに導かれ、地下へと続く石造りの狭い階段を降りた。
最初は石のひんやりとした冷気が肌に触れたが、進むにつれ、地下で慌ただしく働く農民たちの熱気と、重く湿った空気に包まれた。男たちが流す汗と、発酵したワインの濃厚な匂いが混じり合い、フィロタスの鼻を刺激した。
薄暗い地下では、男たちが整然と列を作り、重い甕を隣の者へ受け渡していた。そして、甕を輸送の衝撃から守るための藁を、小作人の子供たちが両手いっぱいに抱えて身軽に駆け抜けていった。
微かにミルラの香りを漂わせ、純白のキトンを纏って歩く青年の姿に、男たちは舌打ちを飲み込むようにして道を譲り、子供たちは仕事を忘れて立ち止まり、その姿をぽかんと眺めていた。
倉庫は中央の通路を挟み、いくつかの区画に分けられており、尖った甕の底を噛み合わせ、壁のように積み上げられていた。
「アメンメス、この一つの区画にどのくらい甕を置ける?」
「横に寝かせて積み上げれば、六百甕ほどになります。あちらのように土の床に突き立てた場合は四百甕ほどです」
アメンメスは丁寧に答えたが、松明の薄明かりの中、フィロタスの横顔を探った。
フィロタスは休暇でこの別邸を訪れたことがあったが、こうして生産の現場に足を踏み入れたのは初めてだった。広大な葡萄畑、地下を埋め尽くす無数の甕、そしてここで働く人々の熱気――それら全てを統べるヒュパトスの偉大さを、肌身で思い知らされていた。
フィロタスは農民たちが規則正しく次々と甕を送り出す様子を眺めていた。だが、その整然とした列の脇を、一人で甕を抱えて足早にすり抜けていく十四、五歳の少年に――ふと、その目が釘付けになった。
ワインで満ちた甕は屈強な男が何とか肩に担ぐことができる重さである。あの細い少年が、一人で抱えて足早に歩けるはずがない。
――あれは、空の甕だ。
その少年は通路の最奥の搬出口へは向かわずに、二つ奥の部屋へ消えていった。そして、程なくして手ぶらで部屋から出てきた。彼がフィロタスの横を通り過ぎる時、恐縮したように軽く頭を下げたが、その視線はちらりとアメンメスのほうを窺っていた。
ちょうどその時、一人の農夫がアメンメスに何かエジプト語で話しかけた。アメンメスが彼に向き直った一瞬の隙をつき、フィロタスは少年が出てきた部屋へ向かった。
「フィロタス様……!」
アメンメスは礼儀を忘れ、思わずフィロタスの身体を掴みそうになったが、その手は空を切った。
フィロタスはアメンメスの制止の声を背に、薄暗い部屋を覗きこんだ。
入り口付近には無造作に藁や空の甕が積み上げられていた。だが、その雑多な目隠しの陰に、刻印付きのワインの甕が整然と並べられていたのだ。
――あの少年は、この甕を隠そうとしていたのか。
「フィロタス様、勝手に動かれては困ります! 万が一そのお身体にお怪我でもあれば、我らは旦那様に何と申し開きをすれば良いか……」
血相を変えて詰め寄ってくるアメンメスを、フィロタスはどこか気の毒に思った。
この隠蔽作業は、アメンメスの独断ではない。おそらくヒュパトスの指示だ。そして、あの寝室の神像が消え去ったことと、密接に繋がっているに違いない。
「アメンメス、すまない……。きっと邪魔をしてしまったな。私は主館へ戻ろう」
フィロタスに厳しく問い詰められると身構えていたアメンメスは、青年があっさりと身を引いたことに、呆然と言葉を失った。
「……どうか最後までヒュパトス様に忠誠を尽くしておくれ」
青年は振り返ることなくそう言い残し、薄暗がりを抜け地上へと去っていった。
取り残されたアメンメスは、額に滲んだ冷や汗を拭い、深く重いため息をついた。父親が弟たちには一切告げず、自分のみに協力を求めた重大任務を開始早々に若きフィロタスに勘づかれてしまったのだ。フィロタスが自分たちを陥れたりするようなことはないという安堵の気持ちもあった。だが、この先いつまでこの隠蔽を続けていけば良いのか、役人が来た際に上手く切り抜けられるのか、不安は積もる一方だった。
石段を抜けたフィロタスは、容赦なく降り注ぐ陽光に、眉を顰めた。
太陽に愛されたこの美しい農園の真下で、一族の命運を賭けた作業が息を潜めて行われているのだ。
この時期にハルマキスが書記室へ籠もっていた不自然さも、これで腑に落ちた。あの老農場長は、空の甕で隠された在庫を帳簿上から消し去ろうとしているに違いない。
ニカンドロスが囁いていた、女王帰還後に吹き荒れる粛清の嵐――。
その刃を逃れるためには、公然と財を売り払うような目立つ動きなど、決して許されないのだ。
――ヒュパトス様、いよいよこの国を出られるおつもりなのですか。
青年はマレオティス湖の向こう――遠く霞むアレクサンドリアの空を、ただ静かに見つめていた。




