第8話
翌朝、ヒュパトスはフィロタスにマレイアの農場長宛の親書と土産の小瓶を入れた豪奢な袋を手渡した。
「気をつけて行ってくるのだよ」
ヒュパトスは名残惜しそうに青年を強く抱き寄せ、彼の纏うミルラの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。フィロタスもまた、ヒュパトスの腰に手を回した。しかし、覚悟を決めたようにその手にぐっと力を入れ、自らヒュパトスの腕を解いた。
「では、行ってまいります」
フィロタスは、不安よりも自信に満ちた表情で答え、踵を返した。ヒュパトスが信頼する奴隷ナクトに導かれ、屋敷を後にした。
フィロタスは運河の船着き場へ向かい、ヒュパトスが用意した快速舟へ乗り込んだ。
水面を滑るように櫂が進むにつれ、白亜の王宮地区が見る間に遠ざかっていった。運河沿いの市場や行き交う人々は、昨日までと何一つ変わらない。アクティウムでの敗報は、まだ一般市民の耳には届いていないようだ。
北からは海風が吹きつけてくるものの、まとわりつくような湿気に晒され、フィロタスの肌はじっとりと汗に濡れていた。
舟が湖に出ると、その周囲には見渡す限りの葦原――時折、風を孕んで、葦の波が巨大な畝となって揺れた。整然としたギリシア風の大理石の街並みは消え、まるで異国の地へ来たようだった。
太陽が天頂まで昇りつめた頃、舟はマレオティス湖の南岸にあるヒュパトスの別邸の船着場へと到着した。
肌を焼くような強烈な日差しが降り注いでいたが、時折吹き抜ける乾いた風は、汗ばんだ肌には心地よかった。
主館へとナツメヤシの並木道が真っ直ぐに伸びていく。二年ほど前、ヒュパトスと共に穏やかな余暇を過ごしに訪れた記憶が蘇る。
フィロタスとナクトが豪華な庭園に差し掛かった時、館の奥から白髪で肌を褐色に焼いた老農場長が急足でやってきた。
「こ、これはフィロタス様でしょうか……!」
農場長は青年の姿を認めるや、その場で深く平伏した。
「丁寧なお出迎えもできず、誠に申し訳ございません!」
「ハルマキス……、顔を上げてください。こちらこそ突然の訪問で驚かせてすまない。ヒュパトス様から至急の用で参ったのだ」
フィロタスは農場長の腕を取り、優しく立たせた。
「これが親書だ――女王陛下がまもなく西方より帰還される。兵たちの労いもかねてワインを献上なさるのだ」
フィロタスは、ヒュパトスの印章が押されたパピルスを差し出すと、さらに豪奢な袋に入った品を取り出した。
「それと――ヒュパトス様から、日頃の労への感謝として土産を預かっている」
農場長は両手を差し出し、親書と袋を恭しく受け取った。
彼はすぐにパピルスを解き、記された指示に視線を落とすなり、大きく目を丸くした。そこには、地下室に眠る熟成古酒を千五百甕、今年絞られたばかりの新酒を五百甕――計二千甕を、至急アレクサンドリアへ運ぶよう命じられていた。それは、この広大なヒュパトスの農園で一年間に生み出す全収穫の半分に迫る、桁外れの量だった。
そして、書簡の最後には、『土産としてアレクサンドリアでも最高級の軟膏を持たせた。暑さで油が溶けて変質せぬよう、大至急、お前自身の手で封を解き、涼しい暗所へ納めるように』と。
「フィロタス様、大変お疲れでしょう? 館の奥でゆっくりお休みくださいませ。冷たい果実水を運ばせます」
ハルマキスは愛想良く微笑むと、主館の扉の鍵を開け、控えていた家内奴隷に青年を部屋へ案内するよう命じた。
フィロタスを見送ったハルマキスは、主館の裏手にある自らの居館へと戻った。
書斎の扉を固く閉ざし、豪華な厚みのある絹の袋を解いて中から小瓶を取り出す。机の上にことりと置いた瞬間、瓶はわずかに傾いた。
不審に思って小瓶を持ち上げて見ると、その底には小さく折りたたんだパピルスが蝋で貼り付けられていた。
――これこそが、ヒュパトス様からの真の命なのだ。
ハルマキスは瞬時にそれを悟り、喉を鳴らした。
彼はそっとパピルスを剥がし、震える指先でそれを開いた。
『忠実なるハルマキスよ――この書は読み次第、灰にせよ。
地下倉庫のワインを整理せよ。今後も王宮への献上は続く。七百甕を水路への搬出口近くに準備しておけ。三百甕は備蓄として大切に保管しろ。そして残る全ては、献上用のものの後ろに並べておけ。献上用のものと区別するため、出荷用の藁や空の甕で仕切るように。いずれ、さらに詳しい指示を出す』
ハルマキスはヒュパトスの父の代から、半生を捧げてこの広大な農園を守り続けてきた。主が迫り来る動乱を前に、備えをし始めたと理解した。
――旦那様。何が起きようと、私は最期までお従いいたします。
彼は胸中で誓いながら、静かにパピルスの端をランプの炎に近づけた。紙片は音もなく燃え上がり、主の文字を飲み込んで灰となった。




