↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ファルマコンの檻〜アレクサンドリアの奴隷医〜  作者: 藤堂 史門


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/11

第7話

 ニカンドロスが去った後の部屋は、闇と息苦しいほどの蒸し暑さに包まれていた。

 室内に立ち込める薫香の匂いすら、鉛のように重たい。フィロタスは寝台に横たわってはいるものの、頭は覚醒し切っていた。

 リネンの寝具越しに、ヒュパトスの鼓動が伝わってくる。普段よりも僅かに速く、力強く打つ拍動――。

 フィロタスはヒュパトスに背を向けるように、そっと横向きに寝返りを打った。胸奥のざわめきと部屋の熱気のせいで、背筋を不快な汗がじっとりと伝い落ちていた。掛け布から肩を出してみるものの、肌に触れるのは生温かい空気ばかりで、気休め程度にしかならなかった。

 ふと、背後からヒュパトスの手が伸びてきた。大きく温かな掌が、フィロタスの濡れた背筋を優しく擦りあげる。

「フィロタス、眠れないのか……?」 

 闇の中で響く低い声。ヒュパトスは、自らの手の下でフィロタスが微かに震えているのを感じた。そのまま手を滑らせ、青年の細い首筋や柔らかな頬に触れた。

「――熱は……ないようだな」

 身を固くし、言葉を返さないフィロタスに、ヒュパトスは困惑した。

 フィロタスは、己の内に渦巻く恐怖をヒュパトスに見せるまいとしていた。自分はもう、ただの無力な少年ではない。今はまだ未熟ではあるが、医師として人々を助ける立派な成人にならなくてはならない。

 だが――ヒュパトスの温もりに触れれば触れるほど、この平穏はもうすぐ失われてしまう刹那にすぎないのではないかという不安が、波のように胸へ押し寄せてきた。

 青年の頑なな沈黙を感じ取ったのか、ヒュパトスの手がフィロタスからそっと離れた。

 微かな衣擦れの音の後、彼は暗がりの広がる天井を見つめながら、低く告げた。

「フィロタス、私は明日ここを発つ――マレイアの別邸に行く」

「マレイア……? 葡萄農園の視察ですか」

 フィロタスが初めて口を開き、寝台の上でヒュパトスのほうに向き直った。

「そうだ――帰還される女王陛下と兵士たちへの労いとして、我が農園で採れたブドウから作ったワインを献上したい」

 ヒュパトスは、視線を天井に向けたまま答えた。

「明後日にはお戻りになりますか?」

「いや、数日はそこへ留まるだろう……」

 フィロタスは、ヒュパトスが純粋な忠誠心から高価なワインを献上しようとしているわけではないことに薄々気づいていた。財務府の役人たちが囁く粛清の噂――ヒュパトスは最大限の恭順を示すことで、その渦中から身をかわそうとしているのではないか。

「すぐお戻りくださいませ。女王陛下は数日以内にご帰還されるのでは?」

 フィロタスは身を乗り出し、ヒュパトスへ詰め寄った。

「女王陛下が戻られた際、ヒュパトス様のような方が都をご不在とあらば、宮廷ではどのように受け止められるでしょうか――」

 畳み掛けるフィロタスに対し、ヒュパトスは唸るように言った。

「だが――何も携えずに出迎えるわけにはいかぬのだよ……」

 フィロタスは上体を起こし、暗闇で微かに光るヒュパトスの淡い空色の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「ヒュパトス様、私をマレイアへお遣わしください」

 ヒュパトスの瞳が大きく見開かれた。彼にとって、フィロタスは自分がヘルマイア祭で見出した十六の少年のままであった。それがいつの間にか宮廷の機微を察し、これから始まる嵐のただ中に身を投じようとするほどになっていたのか。

 フィロタスの真っ直ぐな眼差しを見つめ返していたヒュパトスは、静かに息を吐いた。

「――わかった。お前をマレイアへ送ろう」

「かしこまりました」

 ヒュパトスは腕を伸ばし、フィロタスを胸へと引き寄せた。

 抱きしめた青年の身体は依然として細身ではあったが、初めて腕に抱いたあの頃よりも硬く、厚みを帯びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。