第6話
あれから数日が過ぎた。
その間、幾度となくヒュパトスがフィロタスの部屋を訪れ、夜を共にした。しかし、あの晩のような不整な拍動が青年の肌越しに伝わることはなかった。
もちろん、ヒュパトスの不安がすっかり取り除かれたとは到底思えない。それでも、以前のように寝台で共にパピルスを広げたり、リュラの調べや詩歌について穏やかに語る彼を見て、フィロタスの心も安らいだ。
少し疲れたと首を回すヒュパトスの肩から背にかけて、フィロタスは苦扁桃の香るメトピウムの香油をたっぷり塗り、細い指先で感じる筋肉の硬結をほぐしていく。ヒュパトスの広い背から伝わる温かな体温に、この苦味と甘みが混ざり合う芳香と共に己の心も溶けそうだった。
――その時、この屋敷の深奥では聞くことのない、切迫した足音が近づいてきた。
「父上! こちらにおられると聞きました。急ぎの報告がございます。入ってもよろしいですか!」
ニカンドロスが息を切らしながら叫んでいた。
世継ぎと言えども、家長の夜の私的な空間に詰め寄るなど、平時であれば決して許されることではない。それを押して踏み込んできたということは、アクティウムからの報せが届いたのか――二人の身体が一瞬、硬直した。
ヒュパトスはすぐさま寝台から身を起こし、傍のヒマティオンを羽織ると、落ち着きを払った声で答えた。
「……わかった、入れ」
フィロタスもまた、香油で濡れた手を拭い、少しはだけていた自らのキトンを手早く整えた。そして、しなやかに寝台から滑り降り、壁際に身を寄せた。
それとほぼ同時に、ニカンドロスは顎を引き、視線を大理石の床に落としたまま、垂れ幕をくぐってきた。少しヒュパトスのいる寝台へ近づくと、右手を胸に当て片膝をついた。
「父上、夜半の静寂を騒がせ、この神聖な敷居を跨ぐ非礼をお許しください」
ニカンドロスは目を伏せたまま言った。
「重大な火急の儀がございます」
ニカンドロスの張り詰めた声が先刻までの甘い空気を鋭く切り裂いた。
「ヒュパトス様、ニカンドロス様。私は回廊へ外してまいります」
フィロタスは慎ましく頭を垂れ、気配を消すように足を後ろへ引こうとした。
「待て、フィロタス……」
ニカンドロスは出て行こうとする青年を呼び止めた。
「私が乱入したばかりに、すまない。ここは君の部屋だ。気にせず過ごしてくれ」
ランプでぼんやりと照らされるニカンドロスの淡い空色の瞳がフィロタスを見据える。フィロタスはヒュパトスのほうを見た。ヒュパトスは静かに頷き、フィロタスの同席を許した。
「父上、アクティウムでは我がエジプト軍、ならびにアントニウス軍は大敗を喫しました……!」
かねてより予期していた結果だったが、信頼する実の息子から直接告げられた凶報に、ヒュパトスは雷霆に打たれたような衝撃に言葉を失った。
フィロタスもまた、これまで囁かれていた噂が現実のものとなったことを悟った。これまでも王位を巡る内乱はあったが――生まれ育ったこのエジプトという王朝そのものが根底から覆りかねない未曾有の事態だ。フィロタスは頭から冷水を浴びせられたかのように身震いした。
「入港したフェニキア商船からの報せです。女王陛下とアントニウス様は脱出されたものの、率いていた艦隊のほとんどを失った模様……。そして、上司たちの間では、女王陛下が帰還した暁には、軍資金のための大幅な増税のみならず、反乱やオクタヴィアヌス軍への離反を恐れて苛烈な粛清に乗り出すのではないかと噂されております!」
まだ宮廷の暗闘に疎いフィロタスにとって、外敵オクタヴィアヌスの脅威ばかりか、国内にあっても密告や濡れ衣による粛清という目に見えぬ刃が張り巡らされている現実は、想像を絶する恐怖だった。
一方、ヒュパトスは寝台の上で腕を組み、深く目を伏せたまま、険しい面持ちで思考を巡らせていた。




