第5話
フィロタスは自室に戻り、目元に残るコホルと肌に浮き出た汗を綺麗に拭い去った。
新たにこめかみや首筋へ、苦味を帯びたミルラの香油を擦り込む。そして、純白のキトンの上からヒュパトスが用意させたサフラン色のヒマティオンを肩へと優雅に流す。身なりを完璧に整え、ムセイオンへ向かうべく部屋を出た。
大理石の回廊の角を曲がったところで、この屋敷の世継ぎ――ヒュパトスの長子であるニカンドロスと鉢合わせた。フィロタスより五歳上で、中央の財務府に勤める前途を嘱望された若者であり、父親から淡い空色の瞳を受け継いでいる。
「ご機嫌よう、ニカンドロス様。お変わりございませんでしたか?」
フィロタスは挨拶を交わしながら、この青年も父親の寝室から消えた神像の異変に気づいているのだろうかと、その表情を窺った。
「いや、ここ数日は寝苦しくて……あまり深くは眠れていないな」
ニカンドロスはため息をつき、額にかかる豊かな亜麻色の前髪を指でかき上げた。
「……そうですね。昨夜は夜更けになっても全く空気が軽くなる気配はありませんでした。いずれにせよ、不眠はお身体に障ります。ニカンドロス様、少し腕をお借りしても?」
「ああ、頼むよ」
ニカンドロスは長い腕をフィロタスに差し出した。フィロタスはその手首に自らの細い指をそっと押し当てる。規則正しく打つ拍動――疲労の色こそ滲んでいるものの、昨晩ヒュパトスが見せたような、不穏な震えはどこにもなかった。
フィロタスは指を添えたまま、さりげなく言葉を継いだ。
「……女王陛下とアントニウス様はまだ西方でオクタヴィアヌス軍と睨み合ったままなのですか? 船内で疫病が蔓延している噂を耳にいたしましたが」
ニカンドロスは貿易や港湾管理を司る財務官だ。このアレクサンドリアにおいて、誰よりも早く戦況の第一報を掴みうる立場にいる。しかし、フィロタスの指先に伝わるニカンドロスの拍動にわずかな乱れも生じなかった。
オクタヴィアヌス軍が優勢であることなど、貴族や知識人の間では半ば常識的な見立てだ。だが――昨夜のヒュパトスとテレマコスのただならぬ様子からして、少なくともあの二人はこの戦況の裏で決して他言してはならぬ密謀を巡らせている。数多の血生臭い政変を渡り歩いてきたヒュパトスですら、その胸の奥の激しい動揺までは隠しきれなかったのだ。
目の前にいるニカンドロスは、極めて聡明ではあるが生真面目で実直な青年だ。西方の戦況も本当に知らないのだろう。そして、実の息子にさえ、ヒュパトスは自らの真意を隠し通しているのだろう。
「君が期待しているような、船団の動きについての報せはまだない――仮に今まさに火蓋が切られていたとしても、早船でも十日はかかる。案外、戦は既に終わっているのかもしれない」
「そうですか……」
フィロタスはニカンドロスの腕を静かに下ろした。
「やはり少しお疲れのようですね。休まれる前に、ワインに少し蜂蜜を溶いて飲まれると良いでしょう」
フィロタスは慎ましい表情で長身の青年に柔らかな助言を返した。
「では、私はムセイオンへ行ってまいります」
「わかった。ありがとう、フィロタス」
ニカンドロスはそう言ってフィロタスの頭にポンと軽く手を置いた。フィロタスは微笑み、一礼して屋敷を後にした。




