第4話
朝の柔らかな光が高窓から静かに降り注いでいた。
フィロタスは、ヒュパトスの逞しい腕の中で目を覚ました。規則正しい穏やかな寝息を立てる主を起こさぬよう、そっと身を起こす。
コホルが滲んだ目元を擦りながら、薄い帳越しに寝所の扉のほうへと何気なく視線を向けた。
その瞬間、彼の息が止まった。
昨夜の闇の中では気がつかなかったが――扉を守るかのように据えられていた、漆黒の玄武岩で刻まれたアガトダイモンとテルムーティス――双子の蛇の神像が、忽然と台座ごと姿を消していたのだ。
昨晩の、普段は実直なテレマコスの泥酔と、二人の密談。その後のヒュパトスの不自然に乱れた心拍。それだけならば、重責の中での束の間の憂さ晴らしや疲労の蓄積と片付けることもできたかもしれない。しかし、この守り手を失った扉は、若きフィロタスはおろか、壮年の大貴族らですら経験したことのない大きな嵐の接近を告げていた。
――昨晩、ヒュパトスが言い淀んだ言葉が、冷たい棘のように青年の胸に突き刺さる。
日頃から足を運ぶムセイオンでは、学者や貴族らがアクティウムの戦況について様々な噂を交わしていた。一般の市民らは、エジプトが誇る城塞のごとき巨大軍船がオクタヴィアヌス軍の小舟のような船団に敗れるはずはないと信じている。だが、知識人や貴族らは敵将アグリッパによる徹底した海上封鎖と、アントニウス軍の兵たちの致命的な消耗を知っていた。戦の火蓋が切られたとの知らせこそ届いていないものの、戦わずとも勝敗は既に決していたようなものだったのだ。
ヒュパトスはこの王朝の滅亡を既に予期し、己の莫大な財を持ち出せる形に変えているのではないか。あるいは――既にどこかへ密かに逃しているのではないか。
ふと、温かい大きな手が青年の背筋を愛撫した。
「――すみません、起こしてしまいましたか……?」
フィロタスは振り返り、ヒュパトスの顔を見下ろした。一晩の眠りを経て、いくらか暗い影が薄らいだヒュパトスが穏やかに微笑んでいた。
「少しお疲れが取れたようですね……。それでは、私は今日もムセイオンへ――」
フィロタスが言葉を終える前に、ヒュパトスは彼を自らの懐に引き戻し、強く抱き入れた。そして、青年の美しい目元に残るコホルを指先でそっと拭いながら尋ねた。
「フィロタス、一対の神像がなくなったことに気づいたのだね?」
ヒュパトスの瞳の奥まで覗き込むような鋭い視線に、フィロタスは喉を鳴らして唾を呑んだ。
「……はい、たった今――」
常に揺るぎない芯の通っていたヒュパトスの表情に、微かな動揺が走る。
フィロタスは柔らかな声で先に口を開いた。
「女王陛下に献上されたのでしょう……? 軍資金など、何かと要り用でしょうから」
「――ああ、そうだ」
ヒュパトスは安堵の吐息を漏らし、愛おしそうにフィロタスを抱きしめた。
だが、青年は見逃さなかった。己の肌に押し当てられた主の胸の奥で、その拍動がわずかに速くなっていたことを。




