第3話
揺らめく黄金色の小さな灯火が、見事なフレスコ画の壁に細い影を落としていた。重く湿った夜気の中、清涼でどこか刺激的なミントの香りが漂う。
コホルで縁取られた大きな瞳が、広げられたパピルスの文字を静かに追う。没落してしまった家を必ずや再興してみせるという固い意志が、そのあどけない顔立ちに大人びた影を与えていた。青年がわずかに動くたび、肌を包む最高級の純白のリネンが鈍い光を返していた。
ふと、外の回廊から微かな絹擦れと上品な足音が聞こえてきた。その音はフィロタスの部屋を通り過ぎ、さらに奥の私室へと向かっていった。
夜風に運ばれるメトピウムの重厚で洗練された香り――ヒュパトスの纏う香油だ。フィロタスはパピルスを丁寧に巻くと、ランプの灯をそっと吹き消し、音もなく回廊へ滑り出た。
ヒュパトスはテレマコスを見送り、屋敷の最奥の私室へ戻ってきた。無二の友からの告白、そしてこの王朝の終焉が己の予想を遥かに超えて迫っていることが重く胸にのしかかっていた。
貝紫のヒマティオンを脱ぎ、控えの奴隷に手渡した。そして、天蓋が掲げられ、金箔と色鮮やかなガラス細工で装飾された黒檀の寝台へ身を沈めた。
部屋に立ち込める聖なるキフィの甘美な薫香でさえ、今のヒュパトスの心を鎮めるには至らなかった。
「ヒュパトス様、お部屋の前にフィロタス様がいらしています」
前室の奴隷の控えめな声が響いた。
「……通せ」
静かに扉が開き、フィロタスが音も無く部屋に入ってきた。普段なら寝台の上で読書に耽っているヒュパトスが、灯りもつけずに横たわっている――その光景を一目見ただけで、フィロタスはテレマコスとの密談でただならぬ事態があったのだろうと察した。しかし、それを直接問いただすような無粋な真似はしない。
フィロタスは天蓋から垂れる薄いリネンの帳をすっとめくり、寝台の中に滑り込んできた。部屋を満たす芳醇なキフィの香りに、透き通るような瑞々しい甘い香油の匂いがふわりと重なる。
フィロタスはヒュパトスの上に覆い被さるようにして、彼の広い胸元に顔を埋めた。ヒュパトスは小さく息を吐き出すと、大きな手を伸ばし青年の美しい黒髪を慈しむように撫でた。
フィロタスはヒュパトスの心臓が普段よりわずかに速く脈打つのを肌越しに感じ取っていた。そして時折、その拍動が震えるように乱れる。言葉を交わさずとも、彼の抱えている心労の凄まじさが伝わってきた。
フィロタスはそっと上体を起こし、ヒュパトスの顔を覗き込んだ。ヒュパトスの精悍な顔に、見下ろす青年の艶やかな黒髪がはらりと零れ落ちる。
「……フィロタス、私がもし――」
ヒュパトスが沈黙を破ろうとした瞬間、その唇はフィロタスの柔らかな果実のような唇によって塞がれた。
「ヒュパトス様、今は全て忘れて――貴方様には休息が必要です」
フィロタスは耳元でそっと囁いた。
ヒュパトスはまだ自分の半分ほどの歳月しか生きていないこの青年に、自分の心の内を冷徹に見透かされているような奇妙な感覚に陥った。しかしそれと同時に、生涯を賭しても巡り合えぬはずの、非の打ちどころのない無二の至宝を今腕に抱いているのだという、大きな歓びと満ち足りた思いに浸った。
ヒュパトスは腕に力を込めると、そのしなやかな青年の身体を優しく横たえた。
キフィが妖しく満ちる帳の中、やや土っぽい硬く青渋い香りと、熟した果実から滴るような甘い香りが混ざり合っていく。




