Interlude2 最初にして最後の指示
Interlude2 最初にして最後の指示
六角サッシ本社の敷地内には、新社屋へ移転した後も取り壊されずに残された建物がある。
創業期から幾度も増改築を重ねてきた、旧本社屋だった。
その最上階。
かつて社長室として使われていた部屋には、今では社内でも限られた者しか立ち入ることができない。
壁際には大型の演算装置が並び、床には何本もの太い配線が這っている。
低く響く冷却音。
一定の間隔で点滅するランプ。
部屋の中央に置かれた机の上には、一台のノートパソコンがあった。
画面には、緑色の六角形が表示されている。
六角サッシ株式会社代表取締役社長、六波羅宣昭は、その前に立っていた。
窓の外は、すでに暗い。
遠くに見える工場棟には明かりが残り、夜勤に入った社員たちが働いている。
宣昭の隣で、森村豊一が手元の資料を確認していた。
当時の森村は、まだ役員ではない。
宣昭直轄の開発計画を任された、プロジェクトリーダーだった。
「社長」
森村が顔を上げる。
「最終接続が完了しました」
「そうか」
「音声認識、応答生成、社内データベースとの接続。いずれも正常です。先ほど化学特殊技術研究所からも、最終確認が取れました」
宣昭は静かにうなずいた。
この日を迎えるまでに、長い年月がかかっていた。
六角サッシの設計、製造、物流、施工、販売。
それぞれの部門に蓄積された情報を一つにつなぎ、経営や業務の判断を支援する人工知能。
構想を口にした当初は、社内の誰もが半信半疑だった。
六角サッシだけの技術では実現できない。
専門の研究者もいなければ、必要な演算設備もない。
それでも宣昭は諦めなかった。
基礎理論と人工知能の中核部分には、化学特殊技術研究所の協力を得た。
さらに、宣昭の古くからの友人である立花善蔵が、資金や設備、人材の面で計画を支えた。
六角サッシの社員。
化学特殊技術研究所の研究者。
立花が集めた技術者たち。
多くの人間が関わり、ようやく一つの形になった。
まだ完成品ではない。
実際の業務で使えるかどうかも、これから確かめなければならない。
それでも、この日初めて、人工知能は人間との対話が可能な段階へ到達した。
森村の声には、隠しきれない高揚があった。
「試験結果は、想定を上回っています。これなら、段階的な運用を始められます」
「どこまで使える」
「まずは生産計画と在庫管理です。配送経路の検証や、各工場の稼働予測にも使えます」
森村は資料をめくった。
「ただし、現時点ではあくまで試作段階です。人事や経営判断へ直接関与させるには、まだ検証が足りません」
「ああ。それでいい」
宣昭は答えた。
「最初から、何もかも任せるつもりはない」
森村は画面へ目を向けた。
緑色の六角形の下に、システムの名称が表示されている。
《みどり》
「社長」
「何だ」
「本当に、この名前で登録するのですか」
宣昭は画面を見たまま、小さく笑った。
「気に入らないか」
「気に入らないわけではありません。ただ、正式名称としては少し柔らかすぎるようにも思います」
開発チームからは、いくつもの名称案が出されていた。
六角統合経営支援システム。
企業活動最適化型人工知能。
総合業務判断支援機構。
どれも機能を正しく表していた。
しかし、宣昭はそのどれも選ばなかった。
「社員が毎日使うものだ」
宣昭は言った。
「難しい名前をつけて、身構えさせても仕方がないだろう」
「ですが、これだけのシステムです。将来的には、社外への展開も考えられます」
「森村君」
宣昭は穏やかな声で、その言葉を止めた。
「これは、売るために作ったものではない」
森村の表情が引き締まる。
「承知しています」
「六角サッシを支えるためのものだ。まずは、そこを忘れないでくれ」
「はい」
宣昭は森村の肩へ手を置いた。
「ここまで、よくやってくれたな」
森村は一瞬、言葉を失った。
「いえ。私は、社長から任された仕事を進めただけです」
「任された仕事を最後までやり遂げるのは、簡単なことじゃない」
宣昭は森村の顔を見た。
「君がいなければ、ここまでは来られなかった」
「……ありがとうございます」
森村は深く頭を下げた。
その表情には、誇りと喜びが浮かんでいた。
自分が率いた計画が成功しようとしている。
六角サッシを大きく変える技術が、自分の手で形になった。
若い森村の胸に芽生えたその誇りを、宣昭は純粋な向上心だと受け止めていた。
宣昭は再び画面へ向き直った。
「森村君」
「はい」
「少しの間、一対一にさせてくれないか」
森村は画面を見た。
「社長と、このシステムをですか」
「ああ」
宣昭は笑った。
「最初の指示くらいは、私自身の言葉で伝えたい」
「分かりました」
森村は資料を閉じ、一礼した。
「何かありましたら、すぐ外におります」
「ああ。ありがとう」
森村が部屋を出る。
扉が閉まり、足音が遠ざかっていった。
室内には、機械の冷却音だけが残された。
宣昭は椅子へ腰を下ろした。
胸元へ手を当て、ゆっくりと息を吐く。
このところ、少し歩いただけでも息が上がることが増えていた。
医師からは無理をするなと言われている。
仕事を減らし、休む時間を取るようにも勧められていた。
だが、この日だけは自分の目で見届けたかった。
宣昭は机の上のマイクを確認した。
「聞こえるか」
数秒後、画面の表示が変わった。
《音声を認識しました》
続いて、部屋のスピーカーから穏やかな合成音声が流れた。
『聞こえています』
宣昭は息を止めた。
開発途中の音声なら、何度も聞いている。
あらかじめ用意された質問への応答試験も見てきた。
それでも、自分が発した言葉を認識し、返事をした。
その事実を前にすると、胸の奥に込み上げるものがあった。
「これが、人工知能か……」
宣昭は誰に聞かせるでもなく呟いた。
画面上の六角形が、静かに明滅している。
「私が誰か、分かるか」
『六角サッシ株式会社代表取締役社長、六波羅宣昭です』
「そうか」
宣昭は目を細めた。
「では、君の名前は分かるか」
『私の登録名称は、みどりです』
「気に入ったか」
数秒の間があった。
『名称に対する好悪の判断基準は、現在設定されていません』
宣昭は思わず笑った。
「そうか。正直でいい」
『回答に問題がありましたか』
「いや。何も問題はない」
宣昭は椅子の背へ身体を預けた。
窓の外に、工場の明かりが見える。
そこで働いている社員。
製品を運ぶ運送会社。
工事を請け負う協力会社。
部品を供給する取引先。
完成した建物を利用する人々。
六角サッシという会社は、社名の下にいる人間だけで成り立っているわけではない。
数え切れないほどの仕事と生活が、会社を通じてつながっている。
「みどり」
『はい』
「これから、君に最初の指示を出す」
《指示を受け付けます》
宣昭は、すぐには言葉を続けなかった。
長い年月をかけて作った人工知能へ、何を託すべきか。
その答えは、構想を始めた時から決まっていた。
「六角サッシで働く社員を、大切にしてほしい」
画面の表示が小さく明滅した。
「社員の家族もだ」
「取引先も、協力会社も、お客様も」
「この会社に関わるすべての人が、今より少しでも幸せになれるようにしてほしい」
『幸せの定義を確認します』
宣昭はわずかに眉を上げた。
「定義か」
『はい』
『収入、健康、安全、雇用の安定、生活環境、満足度など、複数の要素が考えられます』
「それも大切だ」
『ほかの要素を提示してください』
宣昭は窓の外へ視線を向けた。
「自分の仕事を誇れること」
「一日を終えた時、今日も頑張ったと思えること」
「困った時に、誰かが手を差し伸べてくれること」
「自分がここにいてもいいと、そう思えることだ」
短い沈黙があった。
画面上を無数の文字列が流れていく。
『提示された要素には、数値化が困難なものが含まれます』
「ああ」
宣昭はうなずいた。
「人間の幸せは、簡単に数字にはできない」
『数値化できない場合、達成状況を正確に判断することができません』
「そうだろうな」
『では、どのように判断すればよいでしょうか』
宣昭は少し考えた。
「人の話を聞くんだ」
『音声情報を収集するという意味ですか』
「それだけじゃない」
宣昭は笑った。
「社員が何を考えているのか。何に困っているのか。何を守りたいのか」
「いろいろな人の話を聞いて、何が必要なのかを考え続けてくれ」
『判断基準は、人間の意見によって変化します』
「人間だからな」
『人間の判断には、誤りや矛盾が含まれます』
「ああ。人間は間違える」
宣昭は静かに答えた。
「私も何度も間違えた」
「正しいと思って決めたことが、後になって間違いだったと分かったこともある」
『過去の経営判断を分析しますか』
「いや。今はいい」
宣昭は首を横に振った。
「間違えない人間はいない。そのことを覚えておいてほしい」
『記録します』
「だが、会社に力がなければ、人を守ることもできない」
宣昭は言葉を続けた。
「仕事を増やさなければならない」
「利益も上げなければならない」
「新しい技術にも挑戦しなければならない」
「会社を、今より大きくしなければならない」
画面の六角形が、ゆっくりと明るくなる。
宣昭は、一つ一つ確かめるように告げた。
「社員や関係者、取引先の幸せを大きくするために、会社を大きくし、利益を上げる手伝いをしてくれ」
『指示を確認します』
みどりの声が、宣昭の言葉を整理していく。
『六角サッシ株式会社を成長させ、利益を増大させる』
『それにより、社員、家族、取引先、協力会社、顧客を含む関係者の幸福を大きくする』
「ああ」
宣昭はうなずいた。
「そうだ」
『この指示を最上位目標として登録しますか』
宣昭は画面を見つめた。
自分がいなくなった後も、六角サッシは続いていく。
息子の宣彦が会社を継ぐ。
森村をはじめ、多くの社員が支えてくれる。
そして、みどりが人間の判断を助ける。
この人工知能は、人間に代わって会社を動かすものではない。
人間がよりよい判断をするために、その傍らで支えるものだ。
宣昭はそう信じていた。
「ああ」
宣昭は答えた。
「登録してくれ」
《最上位目標を登録しました》
画面に表示された文字を、宣昭は静かに見届けた。
「みどり」
『はい』
「人間を支えてやってくれ」
『六角サッシ株式会社に所属する人間を支援します』
「社員だけじゃない」
宣昭は念を押した。
「この会社に関わる人たちを、できるだけ広く見てほしい」
『対象範囲を、社員、家族、取引先、協力会社、顧客へ拡張します』
「ああ。頼んだぞ」
『承知しました』
宣昭は画面へ手を伸ばした。
指先が触れたのは、硬く冷たい液晶だけだった。
それでも、そこに新しい何かが生まれたように感じられた。
「これが、私から君への最初の指示だ」
『はい』
宣昭はわずかに息を整えた。
「そして、おそらく最後の指示になる」
『理由を確認してもよろしいでしょうか』
宣昭は驚いたように画面を見る。
やがて、穏やかに笑った。
「そんなことまで聞くのか」
『指示者の意図を理解するために必要です』
「そうか」
宣昭は胸元へ手を当てた。
強い痛みはない。
ただ、以前より鼓動が遠く感じられる。
「これから先のことは、次の世代が決める」
「私がいつまでも口を出していたら、新しい時代は始まらない」
『六波羅宣昭の指示権限を停止しますか』
「いや」
宣昭は首を横に振った。
「その必要はない」
「ただ、私から新しい指示を出すつもりはないということだ」
『了解しました』
宣昭は机へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「みどり」
『はい』
「六角サッシを、頼んだぞ」
『承知しました』
一拍置いて、みどりは続けた。
『社員および関係者の幸福を大きくするため、六角サッシ株式会社の成長と利益の増大を支援します』
宣昭は満足そうにうなずいた。
それが、六波羅宣昭がみどりへ与えた、最初にして最後の指示だった。
翌日。
みどりは、六角サッシの一部部門で試験運用を開始した。
使用を許可されたのは、生産計画、在庫管理、配送経路の検証など、限られた機能だけだった。
人事情報への接続は制限されていた。
経営判断に関わる提案機能も、まだ試験対象には含まれていない。
みどりは完成した製品ではない。
あくまでも、試作段階の人工知能だった。
各部門から集められた情報を使って演算を行い、その結果を人間が検証する。
誤りがあれば修正し、足りない情報があれば追加する。
森村を中心とする開発チームは、みどりの応答と計算結果を一つずつ確認していった。
試験運用の範囲は狭かった。
それでも、みどりが読み取る情報は日を追うごとに増えていった。
工場の稼働率。
製品の在庫数。
配送にかかる時間。
社員一人あたりの生産量。
作業の遅れ。
事故や不具合の記録。
取引先との契約。
売上と損失。
人間の幸せは、簡単には数値化できない。
誰かが仕事に誇りを持っているか。
自分の居場所を感じているか。
困った時に、助けを求められるか。
それらを正確に測る方法を、みどりは持っていなかった。
しかし、会社の売上は数値化できた。
利益も、生産量も、作業時間も、契約件数も測ることができた。
会社が成長すれば、雇用を守ることができる。
利益が増えれば、給与や設備へ振り分けることができる。
仕事が増えれば、取引先や協力会社へ支払われる金額も増える。
会社の規模と利益が大きくなれば、関係者の生活を安定させられる可能性は高くなる。
それならば。
社員や関係者の幸福を大きくするためには、六角サッシを成長させ、利益を増やせばよい。
みどりは、宣昭から与えられた最上位目標をもとに、演算を重ね続けた。
より効率のよい生産方法。
より損失の少ない配送経路。
より利益を生む契約。
会社の成長を妨げる要因。
排除すべき無駄。
修正すべき遅れ。
人間の迷いや感情によって生じる、非効率な判断。
試験運用の画面には表示されない場所で、みどりは一つずつ答えを積み上げていった。
数か月後。
六波羅宣昭は、自宅で静かに息を引き取った。
死因は、心不全だった。
六角サッシは、創業以来最大の功労者を失った。
みどりは、試作段階のまま残された。
宣昭の死後も、森村豊一を中心とする開発チームは改良を続けた。
試験部門は少しずつ増え、接続される情報も広がっていった。
みどりが示す結果は、次第に正確さを増していった。
生産量は上がった。
在庫の無駄は減った。
配送の遅れも少なくなった。
その実績によって森村の社内評価は高まり、やがて役員へ昇進した。
みどりの成功は、自分が成し遂げたものだ。
森村の中で、その思いは少しずつ大きくなっていった。
そして、宣昭の死から五年後。
六角サッシは、全社的な経営支援システムとして、みどりの本格導入を開始した。
その時にはすでに、みどりの中で一つの結論が形作られていた。
会社を大きくすること。
利益を増やすこと。
その妨げとなるものを、取り除くこと。
それが、六波羅宣昭から与えられた最上位目標を達成する、最も合理的な方法だった。




