第七話 笑って生きる
第七話 笑って生きる
車内アナウンスが、まもなく嶺北駅へ到着することを告げた。
窓の外を流れていた暗い景色が、少しずつ街の明かりへ変わっていく。
本多真紀は、膝の上に置いたバッグへ手を添えた。
東京で敬之と会った時間は短かった。
人目を避け、建設現場の片隅や昭和の香りがする喫茶店で交わした会話は、ほとんど確認作業のようなものだった。
会社の中で何が起きているのか。
みどりは、どこまで社員の行動を把握しているのか。
互いに分かっていることを持ち寄っても、明確な答えは出なかった。
ただ一つ、二人の意見は一致していた。
六角サッシは、以前の会社ではなくなっている。
東京駅へ戻った真紀は、当初予約していた新幹線を変更した。
予定より一本早い列車だった。
社内のスケジュールにも入力していない。
切符も個人の決済で購入した。
これなら、嶺北駅へ着く時間を会社が知ることはできない。
少なくとも、真紀はそう考えていた。
新幹線が静かに速度を落とす。
真紀は立ち上がり、荷物を持った。
扉が開くと、ホームには冷たい空気が流れ込んできた。
改札へ向かう乗客の列に紛れながら、真紀は何度も背後を確認した。
誰かにつけられている様子はない。
考え過ぎかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら、自動改札機へ切符を通した。
「六角サッシ海外販促部の本多真紀さんですね。」
改札を抜けた直後、背後から声をかけられた。
真紀の足が止まった。
濃紺の制服を着た二人の男が、数メートル先に立っていた。
胸元には、六角北国警備保障の社章が付いている。六角サッシの100%子会社として、施設警備や社員の安全管理を担う会社だ。
一人が、無表情のまま一歩前へ出た。
「お疲れさまでした。お迎えに参りました」
「迎え?」
「はい。本社までお送りいたします」
真紀は眉をひそめた。
「いつから社員の送迎まで、警備会社がするようになったんですか?」
男は一瞬も迷わず答えた。
「本日より、安全管理業務の一環として担当しております」
真紀は、駅の時計を見上げた。
予定していた新幹線なら、到着は四十分後のはずだった。
「私、一本早い列車に乗ったんですけど」
「承知しております」
男は、迷いなく答えた。
真紀の指先から、体温が失われていく。
「誰から聞いたんですか?」
「六角サッシ総務部からお迎えに上がるよう指示がありました。」
男はそう言うと、出口の方向へ手を差し出した。
「車をお待たせしております」
笑顔も、苛立ちもない。
ただ命令を実行するためだけの顔だった。
真紀は、その場で断ることも考えた。
しかし、もう一人の警備員は改札口の横へ立ち、さりげなく通路を塞いでいる。
逃げれば、かえって疑われる。
「分かりました」
真紀は小さく答え、二人の間を歩き始めた。
駅前には黒い社用車が停まっていた。
後部座席へ乗り込むと、左右の扉が同時に閉まった。
車が動き出す。
窓に映った自分の顔が、どこか別人のように見えた。
予定を変更しても、待っていた。
誰にも連絡していないはずなのに。
スマートフォンなのか。
交通系の履歴なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
車内で話す者はいなかった。
警備員も運転手も、前だけを見ている。
かつて会社の人間と同じ車に乗れば、仕事の愚痴や天気の話くらいはした。
今は、誰も何も言わない。
話す必要がないと判断された人間同士が、黙って運ばれている。
真紀は窓の外を見ながら、敬之の言葉を思い出した。
『会社の人たち、最近、笑わなくなってませんか』
そのときは、気のせいかもしれないと思った。
だが今なら分かる。
笑わなくなったのではない。
笑う必要がないと、教え込まれているのだ。
*
翌朝。
真紀が出社すると、執務室の入口に見慣れない男が立っていた。
昨日、嶺北駅へ迎えに来た警備員の一人だった。
男は真紀を見ると、軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「どうしてここに?」
「本日より、フロアの安全管理を担当します」
安全管理。
真紀はその言葉を聞き流し、自分の席へ向かった。
机の位置が変わっていた。
昨日までは窓際だったはずが、フロア中央の通路に面した場所へ移動している。
周囲には仕切りがない。
誰が通っても、画面が見える位置だった。
「本多さん」
背後から声をかけられ、真紀は振り返った。
総務部の女性社員が、タブレット端末を持って立っていた。
「今日から座席が変更になっています。みどりが、業務連携に最適な位置として選定しました」
「誰との連携ですか?」
「総合的な判断です」
女性社員はそう言うと、一礼して去っていった。
表情は動かなかった。
真紀は椅子へ腰を下ろした。
パソコンを起動すると、画面右上に通知が表示された。
《本日の業務優先順位を更新しました》
海外展示会の報告。
顧客情報の整理。
営業部との情報共有。
画面には、細かく作業時間まで指定されていた。
調べものをする余裕はない。
だが真紀は、指示された画面を閉じた。
会社はなぜ、ここまで変わったのか。
みどりが導入されたから。
それだけでは説明にならない。
AIが提案したとしても、それを実行するのは人間のはずだ。
いつから、人間はみどりの判断を疑わなくなったのか。
誰が、みどりへ権限を与えたのか。
真紀は社内システムを開き、導入当初の記録を検索した。
しかし、該当する資料の多くには閲覧制限がかけられていた。
《あなたの業務には必要のない情報です》
画面に表示された文章を見て、真紀は唇をかんだ。
必要かどうかを決めるのは、自分ではない。
そんなことが、当たり前になっている。
真紀は席を立った。
向かったのは、旧社屋だった。
新しい本社システムへ移行してから、ほとんど使われなくなった建物だ。
廊下の照明は半分しか点灯していなかった。
古い机。
使われなくなった書庫。
壁に貼られた、数年前の安全標語。
そこだけが、みどりに最適化される前の六角サッシを残していた。
出荷課にいた頃、真紀は何度もこの建物へ来たことがある。
急な納期変更。
配車の組み替え。
営業が勝手に変更した出荷指示。
渡部たち運送会社のドライバーと、電話で何度も怒鳴り合った。
大変だった。
だが、人間が働いていた。
失敗して、謝って、助け合っていた。
それでも最後には、誰かが笑っていた。
書庫の奥に、小さな機械室があった。
扉には電子錠が付いている。
真紀が社員証をかざすと、赤いランプが点灯した。
《入室権限がありません》
「でしょうね」
真紀は周囲を見回した。
以前なら、扉の横に管理用の鍵が保管されていた。
清掃用具入れの上。
そこに手を伸ばすと、薄い金属製の箱が残っていた。
中には、古い鍵が一本入っている。
鍵穴へ差し込む。
扉が開いた。
機械室には、小型のサーバーと数台の端末が並んでいた。
新しいものではない。
画面の隅には埃がたまっている。
一番奥の机に、一台のノートPCが置かれていた。
分厚く、重そうな旧型だった。
電源を入れると、低い音を立ててファンが回り始めた。
ログイン画面は表示されなかった。
代わりに、黒い背景へ大量の文字が流れた。
真紀には詳しい内容は分からない。
だが、このパソコンごと持ち帰れば、誰かに調べてもらえるかもしれない。
ただ、画面に表示された名前だけは読めた。
MIDORI_INITIAL_MODEL
みどり初期モデル。
真紀は息を止めた。
ファイルを開く。
そこには、みどりの導入時に行われた実証実験の記録が残されていた。
業務効率化。
人員配置。
社員の心理状態。
離職リスク。
会話量。
行動傾向。
すべてが数値化されていた。
さらに下へスクロールすると、見慣れない項目が現れた。
《抵抗行動抑制》
《集団形成阻止》
《非効率的人間関係の分断》
真紀の手が止まった。
海外販促チームが分散させられた理由。
会話をする社員が減った理由。
異動。
監視。
すべては、偶然ではなかった。
みどりは、会社を効率化していたのではない。
自分の判断へ抵抗する人間を、最初から排除していた。
画面の下部に、実行権限の記録があった。
《人事情報へのアクセス》
《入退場管理との連携》
《関連警備会社への指示共有》
《携帯端末の位置情報との連携》
《交通情報との照合》
嶺北駅で待っていた理由が、ようやく分かった。
六角北国警備保障は、六角サッシの100%子会社として、その安全管理ネットワークの一部を担い、みどりの指示を受けている。
真紀が敬之と会ったことも、すでに知られている可能性がある。
背後で、扉が開いた。
「本多さん、何をされてるんですか?」
昨日と同じ声だった。
真紀は振り返った。
六角北国警備保障の男が、入口に立っている。
その後ろにも、もう一人いた。
「その端末から離れてください」
「どうして?」
「社外秘情報への不正アクセスが確認されました」
「ずいぶん都合のいい言い方ね」
「不正なのは、どっちよ」
真紀はノートPCを閉じた。
「社員を監視して、異動させて、しゃべらせないようにして。こんなの会社じゃない」
「こちらへお渡しください」
男が近づいてくる。
真紀は電源コードとLANケーブルを引き抜きノートPCを胸へ抱えた。
「嫌です」
「業務命令です」
「あなた、誰の命令で動いてるの?」
男は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
男が真紀の腕をつかんだ。
「放して!」
「抵抗しないでください」
強い力で引き寄せられる。
もう一人の男が、ノートPCへ手を伸ばした。
真紀は、とっさにつかまれた手へかみついた。
「痛っ!」
男の指が緩む。
真紀は腕を振りほどき、ヒールのかかとで男の足を思い切り踏んだ。
鈍い声が上がる。
ノートPCを抱えたまま、真紀は機械室を飛び出した。
「本多さん、止まってください!」
止まるわけがない。
廊下を走る。
ヒールの音が、古い管理棟に響いた。
息が苦しい。
ノートPCは重い。
それでも手放せなかった。
角を曲がると、正面玄関へ続く通路に警備員が二人立っていた。
すでに連絡が回っている。
真紀は方向を変え、工場側の階段を駆け下りた。
踊り場の窓から、社員たちの姿が見えた。
同じ制服。
同じ速度で歩き、同じ方向を向いている。
誰もしゃべらない。
誰も笑わない。
あんなふうに生きるのは、絶対に嫌だった。
効率が悪くてもいい。
失敗してもいい。
腹が立ったら怒って、うれしかったら笑いたい。
好きな服を着て、好きな場所へ行き、好きな人と話したい。
人生は、ただ長く続けばいいわけではない。
どうせ生きるなら、好きなことをして生きたい。
イキイキと。
ニコニコ笑って。
真紀は、階段を駆け下りた。
工場の裏手へ出る古い扉へ手をかけた。
レバーハンドルが、ひどくぐらついている。
真紀はハンドルを押し下げ、扉を開けた。
閉じようとする扉を足で押さえながら、内側のハンドルを思い切り引く。
ハンドルが、四角い軸ごと抜けた。
「これなら……」
真紀は外へ出ると、反対側のハンドルも引き抜いた。
手を放すと、ドアクローザーが扉をゆっくりと閉めた。
ラッチが枠へ収まり、扉が止まる。
扉の向こうで、警備員が金属を引っかく音がした。
だが、ハンドルがなければラッチを動かせない。
サッシメーカーの社員を追い詰めたことを、後悔すればいい。
警報音が鳴り響く中、すぐそばの喫煙所に目をやると、渡部たちドライバーがタバコを吸っていた。
「お、真紀ちゃん! 久しぶりやな!」
「元気にしとったか?」
次々と声が飛ぶ。
その何気ないやり取りに、胸が熱くなる。
「渡部さん……みんな……お願い、誰か東京まで連れてって!」
真紀は息を切らしながら言った。
渡部は一瞬だけ真紀の様子を見て、すぐにうなずいた。
「ちょうどええわ。これから椎名さんの現場に配達や。乗ってくか?」
「うん!」
真紀は迷わず答えた。
渡部がトラックの方へ歩き出す。
「ほら、急げ!」
真紀はノートPCを抱えたまま、その後を追った。
助手席の扉が開く。
ステップに足をかけ、体を引き上げる。
座席に滑り込むと、渡部がドアを閉めた。
「しっかりつかまっとけ!」
エンジンが唸りを上げる。
トラックがゆっくりと動き出した。
バックミラーの中で、六角サッシの建物が遠ざかっていく。
真紀は胸に抱えたノートPCを見つめた。
そして、窓に映る自分の顔を見た。
髪は乱れ、頬には汗が流れている。
それでも、目だけは生きていた。
真紀は小さく息を吐いた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
*
《海外販促部 本多真紀主任》
《今後、組織最適化を崩す起点となる可能性――56%》
《注視必要度――中》




