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みどり〜AIに支配された会社〜  作者: 藤野正人
最終章 起業祭

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起業祭前日〜津沢功太の視線〜

起業祭前日


俺の名前は津沢功太。


六角サッシ高岡営業所で、営業兼メンテナンスとして働いている。


新卒で入社して、今年で三年目だ。


普段扱っているのは、いわゆる一般家庭向けのサッシが中心になる。


マンションの管理会社を回ったり、


「窓が開かなくなった」


「網戸の動きがおかしい」


そんな問い合わせを受けて、一般の家庭へ直接伺うことも多い。


本社や東京支店が扱うような、大型物件とは少し違う。


地域を回って、困っている人のところへ行く。


いわば地場周りの仕事だ。


俺自身、高岡市の出身だ。


生まれ育った街で、そのまま働けていることには満足している。


そんな俺が今、六角サッシ本社にいる。


理由は、明日に迫った起業祭だ。


各事業所から応援要員が集められ、俺もその一人として数日前から本社へ一時的に出向してきた。


起業祭を見るのは、今年が初めてじゃない。


一年目も二年目も、高岡営業所の社員として参加している。


ただ、その頃は完全に客だった。


決められた時間に本社へ来て、露店を見て回る。


ステージを眺める。


夜になれば花火を見る。


そして終われば帰る。


その裏で誰が何をしているかなんて、ほとんど考えたこともなかった。


今年、初めて準備委員として中に入ってみて、それがよく分かった。


祭りは、勝手に出来上がるわけじゃない。


俺たち若手は、先輩の準備委員たちの手となり足となり、朝からあちこちへ駆り出されていた。


露店の割り振り。


出店区画の確認。


プロレス会場の位置出し。


メインステージ前の客席設営。


やることはいくらでもある。


さすがに貴賓席まわりや、プロレスのリング、照明、音響なんかは専門業者が入っている。


そこまで社員だけでやれと言われたら、さすがに無理だ。


でも、それ以外はほとんど自分たちでやる。


机を運び、椅子を並べ、案内板を立てる。


去年まで何気なく歩いていた場所が、今年はまるで違って見えた。


「ああ、ここってこうやって作ってたんだな」


そんなことを、何度思ったか分からない。


気づけば本社の敷地内には、見慣れない業者の車もずいぶん増えていた。


花火師の人たちも来ている。


去年も一昨年も、最後に見上げた花火。


あれも当然、誰かが準備している。


当たり前のことなのに、中へ入るまで考えたことがなかった。


今回の起業祭の目玉は、プロレスらしい。


なんでも、世界タイトルマッチまで組まれているとか。


地方にいると、プロレスの巡業なんてそう頻繁に来るものじゃない。


だから正直、俺も少し楽しみにしている。


リングが組み上がっていく横を通るたびに、つい目が向く。


明日、本当にここで世界タイトルマッチをやるのか。


会社の祭りで。


六角サッシも、ずいぶん本気だ。


そして、その起業祭で総合司会を務めるのが、休職から復帰した海外販促チームの本多さんだ。


フルネームは、本多真紀さんというらしい。


初めて近くで見た時は、ちょっと驚いた。


ものすごく美人だ。


それでいて、喋り方は落ち着いている。


準備委員の間では、大学時代にミス嶺北大学だった、なんて噂まで流れていた。


本当かどうかは知らない。


本人は、そんなことを自慢するような素振りをまったく見せない。


むしろ、俺みたいな他の営業所から来た若手にも、普通に話しかけてくれる。


それが少し意外だった。


もう一つ。


本社へ来てから、俺には気になっていることがあった。


みんな、仕事中の表情が薄い。


別に怒っているわけじゃない。


機嫌が悪いわけでもない。


必要なことを話して、必要な作業をして、次へ移る。


それだけだ。


高岡営業所だって、仕事中は真面目にやっている。


でも、もう少し笑う。


冗談も言う。


失敗すれば困った顔もする。


客先から帰ってくれば、


「今日は大変だったな」


くらいの雑談もある。


本社では、それが妙に少ない。


最初は、本社というのはこういうものなのかと思った。


人数も多い。


部署も多い。


偉い人だっている。


高岡営業所とは空気が違って当然なのかもしれない。


ただ。


本多さんの周りだけは、少し違っていた。


「これ、今日中に終わりそう?」


本多さんが準備委員の一人に聞く。


「いや……ちょっと厳しいですね」


「じゃあ、人を一人回してもらおうか」


「本当ですか。助かります」


それまで無表情だった社員が、少し笑った。


別の場所でもそうだった。


本多さんが声をかける。


相手が困った顔をする。


本多さんが何かを言って笑う。


すると相手も笑う。


不思議だった。


本多さん自身も、よく表情が変わる。


真剣な顔。


困った顔。


少し呆れた顔。


笑った顔。


忙しいのに、それを隠そうともしない。


そして本多さんと話している間だけ、相手の顔まで少し変わる。


俺は本社に詳しいわけじゃない。


昔からこうなのかも知らない。


ただ、本多真紀という人の周りだけ、会社の空気が少し違って見えた。


そんな本多さんは、俺たち以上に忙しそうだった。


気づけば、いつも誰かと打ち合わせをしている。


地元の商店街振興組合の人たち。


創業家の関係者。


花火師。


プロレス関係者。


少し目を離したと思ったら、今度は別の人と話している。


いつ休憩しているのか、本当に分からない。


総合司会というのは、当日の進行だけをやるものだと思っていた。


どうやら、そんな簡単な役目ではないらしい。


工場見学のルート確認にも関わっているようで、何度か旧社屋の方へ向かっていく姿も見かけた。


本社の敷地を、あっちへ行ったり、こっちへ戻ったり。


そのたびに誰かに呼び止められる。


それでも嫌な顔ひとつせず、足を止めて話を聞いている。


花火大会の前には、観客参加型のクイズコーナーも予定されている。


その景品が、ちょっとすごい。


六角サッシと国内の一流文具メーカーがコラボして作った、オリジナルの文具セットだ。


しかも市販はされない。


明日の起業祭でしか手に入らない限定品らしい。


最初に聞いた時は、


「会社の祭りで、そこまでやるのか」


と思った。


六角サッシのロゴが入っているだけのボールペンとか、そんなものを想像していたからだ。


ところが、実物を見せてもらうとちゃんとしている。


これなら普通に欲しい。


そして、その文具セットを景品に選んだのも本多さんだと聞いた。


俺は思わず、少し離れたところにいる本人を見た。


今度はイベント担当の人と、何やら真剣な顔で話している。


総合司会。


進行の打ち合わせ。


商店街振興組合との調整。


創業家への対応。


プロレス関係者。


花火師。


工場見学。


そのうえ、クイズ大会の景品まで選んでいる。


……この人、どんだけ仕事してるんだ?


しかも、誰かから声をかけられると必ず立ち止まる。


「本多さん、ちょっといいですか?」


「はい。どうしました?」


いつ聞いても、同じ落ち着いた声だった。


俺だったら、とっくに顔に出ていると思う。


夕方になった頃。


俺は自動販売機の前で少し迷ってから、無糖の紅茶とコーヒーを一本ずつ買った。


どっちがいいか分からなかったからだ。


本多さんは相変わらず忙しそうで、今度はステージ袖で進行表を確認していた。


少し近づくのをためらった。


でも、このままだと本当に何も飲まないんじゃないかと思って声をかけた。


「本多さん」


「はい?」


振り向いた本多さんに、二本を差し出す。


挿絵(By みてみん)


「よかったら。どっち飲みます?」


本多さんは一瞬だけ目を丸くした。


それから、迷うことなく無糖の紅茶を取った。


「ありがとう」


そう言って笑った。


その瞬間。


……ちょっと、どきっとした。


いや。


別に変な意味じゃない。


たぶん。


ただ、朝からずっと働きっぱなしで、誰かに呼ばれては動いている人が、俺みたいな若手の差し入れにちゃんと笑って礼を言ってくれた。


それだけだ。


それだけなんだけど。


「助かる。ちょうど喉乾いてたの」


「いえ。ずっと動いてますもんね」


「津沢くんたちもでしょ?」


俺は一瞬、返事が遅れた。


名前まで覚えられていた。


駄目だ。


完全にファンになってしまった。


明日、本多さんが困ることがあったら。


俺はたぶん、頼まれてなくても動くと思う。


それからも準備は続いた。


日が落ちても、会場から人がいなくなる気配はない。


ステージでは照明のテストが始まり、大きな音が鳴る。


露店では、明日の仕込みを続けている人たちがいる。


プロレス会場では、業者がリングまわりを確認している。


花火師もいる。


警備担当もいる。


社員もいる。


外部の業者もいる。


去年まで、ただ楽しんでいた一日。


その一日のために、これだけの人が働いている。


少し不思議な気分だった。


祭りを動かしているのは、ステージに立つ人だけじゃない。


誰かが椅子を並べる。


誰かが案内板を立てる。


誰かが電源を確認する。


誰かが花火を準備する。


そういう仕事が全部つながって、明日の起業祭になる。


俺たちも何度目か分からない椅子の移動を終え、ようやく少し先が見えてきた頃だった。


資料を取りに、仮設の打ち合わせ室へ入った。


そこで俺は足を止めた。


狭い部屋の隅。


本多さんが、机に突っ伏して眠っていた。


一瞬、声をかけようかと思った。


でも、やめた。


いくら仕事ができる人だって、体力には限界がある。


朝からずっと動き回っていたんだ。


そりゃ、疲れるよな。


いつもの落ち着いた表情とは違って、今は完全に力が抜けている。


俺は部屋に置いてあったブランケットを一枚取った。


起こさないように、そっと本多さんの肩にかける。


俺にできるのは、それくらいだった。


挿絵(By みてみん)


明日になれば、またこの人は何事もなかったようにステージへ立つんだろう。


たくさんの人の前で笑って。


進行を確認して。


誰かが困れば、また話を聞く。


だったら今くらい、少し寝ていてもいい。


俺は静かに打ち合わせ室を出た。


廊下を歩きながら、ふと思い出す。


そうだ。


明日のステージ袖には、スタッフ用のポータブル冷蔵庫が置かれるはずだ。


本多さんは、無糖紅茶が好きらしい。


だったら――。


ステージ袖の休憩所の冷蔵庫の中身を、全部無糖紅茶にしておこう。

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