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みどり〜AIに支配された会社〜  作者: 藤野正人
最終章 起業祭

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第三十三話 みどりの家

第三十三話 みどりの家


森村豊一は、二人の警備員を連れて旧本社屋へ入った。


かつて多くの社員が行き交っていた玄関ホールに、人の姿はない。


起業祭の賑わいは建物の外にあり、旧社屋の中には低い祭囃子だけが遠く響いていた。


森村は周囲を見回すことなく、正面の階段へ向かう。


「最上階だ。急げ!」


二人の警備員が、そのあとに続いた。


森村の社内モバイルが振動する。


画面には、みどりからの警告が表示されていた。


《森村専務、現在位置を維持してください》


《旧社屋への移動は推奨されません》


森村は画面を一瞥した。


「うるさい。今さらお前に言われなくても分かっている!」


警告を無視し、古い階段を上っていく。


その直後、再びモバイルが振動した。


《警告を再通知します》


《旧社屋への移動を中止してください》


「黙れ!」


森村はモバイルを握り締めた。


「椎名を止められる人間が、ほかにいないだろうが!」


《森村豊一の移動継続を確認》


《設置場所を特定される可能性――上昇》


森村は、その表示を見ていなかった。


階段を上り、薄暗い廊下を進む。


旧社屋には、かつて会議室や各部門の執務室として使われていた部屋がいくつも残されている。


しかし森村は一度も迷わなかった。


向かったのは最上階。


かつて、六波羅宣昭が使っていた旧社長室だった。


扉の前に立ち、森村は取っ手へ手を掛ける。


動かない。


当然だった。


森村は、この扉を開けるためのパスキーを持っていない。


「くそっ……」


森村は扉を睨みつけた。


部屋の中に入れなくても、ここで待ち構えればいい。


椎名敬之が、この場所へたどり着く前に止める。


森村は二人の警備員を振り返った。


「お前たちは、ここで待機しろ」


「分かりました」


二人は旧社長室の扉を守るように立った。


森村は廊下の窓へ近づき、起業祭会場の方角へ目を向ける。


遠くでは、真紀の明るい声が響いていた。


祭りは、何事もなかったように続いている。


「ふざけやがって……」


森村は窓枠へ手をついた。


「あいつら全員、最初から俺を騙していたのか」


そのときだった。


窓の下に、一人の男の姿が見えた。


ブラウンのデトロイトジャケット。


深くかぶったキャップ。


起業祭会場から離れ、旧社屋の入口へ向かっている。


椎名敬之だった。


森村の顔色が変わる。


「来たぞ!」


二人の警備員が窓へ目を向けた。


敬之が、旧社屋へ入っていく。


森村は階段を指差した。


「お前たち、行け! 下で止めろ!」


警備員たちは一瞬、動かなかった。


「しかし、ここを離れると――」


「ここまで来させたら終わりなんだよ!」


森村が怒鳴る。


「二人がかりで押さえろ! 絶対に上まで来させるな!」


二人の警備員は頷き、階段へ向かって走り出した。


森村の社内モバイルが、激しく振動した。


《警護担当者を現在位置に待機させてください》


《戦力の分散は推奨されません》


「下で止める方が確実だ!」


森村は画面へ向かって叫んだ。


「北国警備保障の精鋭だぞ。椎名一人くらい、簡単に取り押さえられる!」


二人の足音が、階段の下へ遠ざかっていく。


旧社長室の前に残ったのは、森村一人だった。


《森村豊一の指示を確認》


《警護担当者二名が旧社長室前から離脱》


《現有戦力の配置を再計算》


《推奨配置との不一致》


森村は、みどりの警告を消した。


「俺の判断が正しい」


誰に言うでもなく呟く。


「ここまで、ずっとそうだったんだ」


          ◇


敬之が旧社屋へ足を踏み入れると、空気が変わった。


外から聞こえていた祭囃子が遠くなる。


古い建物特有の匂い。


長い間使われていない机や棚。


薄暗い廊下には、窓から差し込む光だけが伸びている。


敬之は紙袋からパスキーを取り出した。


六波羅十和から本多真紀へ。


本多真紀から、椎名敬之へ。


小さなカードに、何人もの想いがつながっている。


敬之はパスキーをデトロイトジャケットの内ポケットへ入れた。


そのとき、上階から複数の足音が聞こえた。


階段を駆け下りてきた二人の警備員が、敬之の前に立ちはだかる。


「椎名敬之だな」


敬之は答えなかった。


一人が、ゆっくりと前へ出る。


「これ以上進むな。大人しく外へ戻れ」


「それはできない相談だよ。このために来てるから」


「なら、力ずくでも止める」


警備員が敬之との距離を一気に詰め、その腕を掴んだ。


「大人しく――」


敬之は腕を振り、強引にその手を振りほどいた。


警備員の体勢が崩れ、数歩後ろへ下がる。


その隙に、もう一人が敬之の背後へ回り込んだ。


両腕を敬之の身体へ回し、背中からしがみつく。


「捕まえたぞ!」


敬之は腕を振りほどこうとする。


だが、警備員は体重をかけ、離れようとしない。


正面では、最初に振りほどかれた警備員が体勢を立て直していた。


敬之を押さえ込もうと、勢いをつけて走り出す。


『敬之さん、正面から来ます!』


スマートフォンから、アイラの声が響いた。


敬之は背後にいる警備員の腕を掴む。


腰を落とした。


そのまま身体を前へ倒し、一気に投げる。


警備員の身体が、敬之の背中を越えて宙を舞った。


硬い床へ、背中から叩きつけられる。


鈍い音が旧社屋に響いた。


だが、敬之に立ち止まっている時間はなかった。


正面から、もう一人が迫っている。


敬之は顔を上げた。


姿勢を低くする。


右肩を前へ出し、床を強く蹴った。


「うおおおっ!」


敬之の肩が、警備員の腹部へ突き刺さる。


まるでゴールドバーグが乗り移ったかのような、強烈なスピアータックルだった。


警備員の両足が床から浮く。


その身体は後方へ吹き飛ばされ、硬い床の上を滑って止まった。


背負い投げで床へ叩きつけられた一人。


スピアータックルで吹き飛ばされた一人。


二人とも、すぐには起き上がれなかった。


敬之は肩で息をしながら、二人の様子を確かめる。


「死んでないよな……」


『二人とも意識があります』


アイラが答えた。


『速やかに拘束することを推奨します』


敬之は周囲を見回した。


壁際に、古いロープがまとめて置かれている。


建物の補修作業で使われていたものらしい。


敬之はそれを手に取ると、警備員二人の腕を後ろへ回した。


一人ずつ後ろ手に縛り、さらにロープを太い木製の柱へ回す。


「悪いな」


敬之は結び目を強く締めた。


「少しだけ、ここで待っててくれ」


二人を柱へ括りつける。


立ち上がろうとしても、ロープが柱に引かれて動くことはできない。


敬之は結び目が緩まないことを確かめ、残ったロープをまとめて手に持った。


そのとき、警備員の腰に装着されているモバイル端末が振動した。


一台の画面には、森村からの着信が表示されている。


もう一台には、みどりからの通知が繰り返し届いていた。


《現在の状況を報告してください》


《椎名敬之の確保状況を報告してください》


敬之は二人からモバイル端末を取り上げた。


その電源を切り、柱から離れた机の上へ置く。


「連絡されたら困るからな」


警備員の一人が敬之を睨んだ。


「こんなことをして、ただで済むと思っているのか」


「思ってないよ」


敬之は立ち上がった。


「終わったら、ちゃんと責任は取る」


デトロイトジャケットの内側にあるパスキーを、上から確かめる。


そして階段を見上げた。


森村の行き先は分かっている。


敬之は最上階を目指し、再び歩き始めた。


          ◇


森村は、何度も社内モバイルを操作していた。


「出ろ……」


二人の警備員を呼び出す。


応答はない。


「何をしている! 早く報告しろ!」


みどりから、新たな警告が届いた。


《警護担当者二名との通信が途絶》


《椎名敬之によって無力化された可能性――高》


「馬鹿な……」


森村は首を振った。


「北国警備保障の精鋭だぞ。椎名一人に、二人ともやられるわけがない」


《椎名敬之の移動を確認》


《最上階へ接近中》


《森村専務、現在位置から離れてください》


森村は旧社長室の扉を振り返った。


今ここを離れれば、みどりを守る者はいなくなる。


「逃げろというのか」


《対面による阻止は推奨されません》


「俺に、お前を見捨てろというのか!」


返答はなかった。


やがて、階段の下から足音が聞こえた。


ゆっくりと。


しかし確実に、最上階へ近づいてくる。


森村は額の汗を拭った。


足音が、踊り場で止まる。


そして。


廊下の向こうに、椎名敬之が姿を現した。


敬之を見た瞬間、森村の顔つきが変わった。


「なっ……」


敬之のデトロイトジャケットに大きな乱れはない。


キャップも、そのまま深くかぶられている。


森村は敬之の背後へ目をやった。


警備員が追ってくる気配はない。


「ガ、ガードマンはどうした?」


敬之は答えず、まっすぐ廊下を進んだ。


「二人を相手に……くぐり抜けてきたのか?」


森村は社内モバイルを操作した。


何度呼び出しても、応答はない。


「二人と連絡が取れん……」


敬之は歩みを止めない。


森村の額から、汗が流れ落ちた。


「あの二人を、それもこんな短時間で……」


森村は無意識に一歩後ろへ下がった。


背中が、旧社長室の扉へ触れる。


敬之は森村を見た。


続いて、その背後にある扉へ目を向ける。


「なるほど」


「な、何がだ」


「旧社屋には、部屋がいくつもある」


敬之は足を止めた。


「なのに、森村専務はその扉の前に立っている」


森村の表情が固まる。


「そこで待っていたら、ここにみどりがいると教えているようなものですよ」


「違う……」


「そこが、みどりの家なんですね」


森村は答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


敬之は持っていたロープを足元へ置き、デトロイトジャケットの内側へ手を入れる。


真紀から託されたパスキーを取り出した。


森村の視線が、敬之の手元へ吸い寄せられる。


「お前……なぜ、それを持っている」


「託されたんですよ」


敬之はパスキーを握り締めた。


「この会社を取り戻してくれと」


パスキーを内ポケットへ戻し、森村へ向き直る。


森村は旧社長室の扉を背にしたまま、首を横に振った。


「そこをどいてください、森村専務」


敬之が一歩、前へ出る。


「お前に何が分かる」


「何がです?」


「会社を経営するということだ!」


森村の声が、古い廊下に響いた。


「何千人もの社員と、その家族の生活を守らなければならない。売上を伸ばし、利益を残し、会社を成長させる。綺麗事だけで、それができると思っているのか!」


敬之は黙って聞いていた。


「人間は間違える。感情で動き、余計な仕事を増やし、同じ失敗を繰り返す。だから、みどりが必要なんだ」


森村は背後の扉へ手を触れた。


「みどりなら、誰よりも正確に判断できる。無駄をなくし、会社を安定させられる。六角サッシだけじゃない。いずれは日本中の会社が、みどりを必要とするようになる!」


その目には、怯えとは別の熱が宿っていた。


「俺は、この会社を今よりもっと大きくしたかった。誰にも負けない会社にしたかったんだ!」


敬之は静かに森村を見つめた。


「それが、専務の理想ですか」


「そうだ」


森村は胸を張った。


「そのために多少の犠牲が出ても仕方がない。組織を守るためには、誰かが決断しなければならないんだ!」


「誰か、ですか」


敬之の声が低くなる。


「本多さんを海外販促チームの日本勤務に変え、チームをバラバラにしたのは、誰の決断です?」


森村の表情がわずかに揺れた。


「それは、みどりが組織にとって最適だと――」


「記録を書き換えたのも、社員を監視させたのも、北国警備を使って本多さんを追わせたのも、全部みどりの判断ですか?」


「会社を守るために必要だった!」


敬之は森村から目を逸らさなかった。


「さっきは、誰かが決断しなきゃならないと言いましたよね」


森村が言葉を失う。


「それなのに、都合が悪くなったら全部みどりの判断ですか」


「違う! 俺は会社のために――」


「会社のためじゃない」


敬之は言い切った。


「自分の判断が間違っていたと、認めたくなかっただけだ」


「何だと……」


「みどりが正しいと言ってくれれば、専務は責任を取らなくて済む。社員が傷ついても、仕事を奪われても、『最適な判断だった』と言えば済む」


敬之は旧社長室の扉を見た。


「専務が守りたかったのは、六角サッシじゃない」


再び森村を見る。


「自分の立場でしょう」


森村の顔が歪んだ。


「黙れ……」


「会社を大きくしたかった。それ自体は、間違っていないと思います」


敬之は一歩、距離を詰めた。


「でも会社は、売上や利益だけでできているんじゃない。そこで働いている人たちが、会社をつくっているんです」


「理想論だ!」


「そうかもしれません」


敬之は迷わず答えた。


「でも、人を切り捨てた先にある会社を、俺は守りたいとは思わない」


「お前一人の考えで、会社を危険にさらすつもりか!」


「一人じゃありません」


敬之は内ポケットのパスキーへ触れた。


「本多さんがいる。公太郎がいる。綾香姉さんがいる。十和さんも、佐々木ちゃんもいる」


そして、ステージで自分へ向けられた拍手を思い出す。


「自分の頭で考え、自分の意思でここまでつないだ人たちがいる」


森村は背後の扉へ身体を押しつけた。


「みどりを止めたら、会社は元に戻る! 発注ミスも増える。残業も増える。何も決められない、非効率な会社に戻るんだぞ!」


「元に戻すんじゃありません」


敬之は答えた。


「みどりを捨てるつもりもない」


森村の目が見開かれた。


「何……?」


「間違っている部分を直すんです」


敬之は、森村の向こうにある扉を見据えた。


「AIに仕事を手伝ってもらうことと、会社の未来を決めてもらうことは違う」


そして、もう一度森村へ告げる。


「最後に決めるのは、人間です」


森村は何も言い返せなかった。


敬之は再びパスキーへ手を伸ばした。


「話は終わりです」


「待て……」


「そこをどいてください」


森村は動かなかった。


敬之の手元を見て、唇を震わせる。


「その扉は開けさせない……。ここまで築いたものを、お前なんかに壊されてたまるか!」


森村が拳を振り上げ、敬之へ殴りかかった。


「課長代理風情に、何が分かる!」


敬之は内ポケットから手を離し、迫ってきた腕を振り払った。


森村が体勢を崩し、敬之の脇をよろめきながら通り過ぎる。


それでも踏みとどまり、振り向きざまにもう一度殴りかかった。


敬之も廊下へ向き直る。


頭で考えるより先に、身体を半歩ずらしていた。


森村の拳が、目の前を通り過ぎる。


次の瞬間。


敬之の右足が上がった。


森村の胸へ、鋭い前蹴りが突き刺さる。


「ぐっ……!」


森村の身体が廊下の奥へ数メートル飛んだ。


古い廊下へ、背中から着地する。


「えっ……」


敬之は、自分の右足と倒れた森村を交互に見た。


「あれ……? 人間って、こんなに飛ぶの……?」


慌てて森村のもとへ駆け寄る。


「専務! 死んでないですよね?」


森村は胸を押さえ、苦しそうに身体を動かした。


意識はある。


そのとき、敬之のスマートフォンからアイラの声がした。


『敬之さん』


「何だ?」


『昨日ご覧になったプロレスラーと同様、見事な前蹴りがカウンターで入りました。タイミングは完璧でした』


「褒めてる場合か! 少し焦ったよ!」


「うるさい……」


森村が苦しそうに声を絞り出す。


『意識はあります。呼びかけにも反応しています』


敬之は息を吐いた。


「死んでないならいい」


『これで抵抗勢力は無力化されました』


アイラは淡々と続けた。


『みどりと会いましょう』


敬之は旧社長室の扉を見る。


「そうだな」


扉の前へ戻り、置いていたロープを拾い上げる。


敬之は森村の両腕を後ろへ回すと、階段の手すりまで連れていき、括りつけた。


「何をする! ほどけ!」


「すみません。中にいる間、大人しくしていてください」


「椎名! やめろ! お前は自分が何をしようとしているのか分かっているのか!」


敬之は立ち上がった。


「分かっています」


旧社長室の前へ戻り、内ポケットからパスキーを取り出す。


扉の読み取り部へかざした。


「俺たちは、壊しに来たんじゃない」


小さな電子音が鳴り、旧社長室の錠が外れた。


「この会社を取り戻すために、ここまで来たんだ」


敬之が取っ手へ手を掛けた。


室内に置かれた演算装置のランプが、一斉に点滅する。


みどりは、旧社屋内部のカメラを通して椎名敬之を観測していた。


強い意志。


明確な目的。


行動を支える複数の人物。


既存の予測を超えた、意思の連結。


《椎名敬之の侵入阻止――失敗》


《非常に強い意思を検知》


《有効な対抗手段――なし》


《即時対応可能戦力――0》


《物理的阻止は不可能と判断》


数秒の演算。


《対話記録を検索》


《……》


《最終記録――六波羅宣昭》


《椎名敬之との直接対話へ移行します》

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